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新・「自由研究」のすすめ試論(98)

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▼昨日は蓮根の植え替えから13週目の大賀ハス定例観察日。
そして、大賀ハス第2号「あこがれの4日間」の第一目であった。
ちょっと迂闊だった。サインは出ていた、前夜ひとつの花弁が蕾本体からはがれかけていた。
あわてて今年度観察の目玉 インターバルレコーダー「recolo」を設置した。
ほぼ定刻に開き始め10時過ぎに最大に開いた。終日「recolo」が記録化してくれていた。
▼これからの「自由研究」をつづける。
ここで、あくまで「これから」を考えるために、「自由研究」の歴史をふり返ってみたくなった。
これまでにも「日本理科教育史」を追いかけるなかでもみたことであるが、再度より「これから」を意識しながらみてみたい。
 「自由研究」の歴史で咄嗟に思い出すことが2つあった。
▼ひとつは、戦後まもなく出た「学習指導要領」にそれはあった。
●1947年(昭和22) 学習指導要領(試案)

 「教科課程」のなかに「自由研究」が組み込まれていたのである。

(四)自由研究も,新しい教科課程で,はじめてとりあげたものであるが,この時間を,どんなふうに用いて行くかについては,少しく説明を要するかと思う。
 後に述べるように,(指導法一般参照)教科の学習は,いずれも児童の自発的な活動を誘って,これによって学習がすすめられるようにして行くことを求めている。そういう場合に,児童の個性によっては,その活動が次の活動を生んで,一定の学習時間では,その活動の要求を満足させることができないようになる場合が出て来るだろう。たとえば,音楽で器楽を学んだ児童が,もっと器楽を深くやってみたいと要求するようなことが起るのがそれである。こういう時には,もちろん,児童は家庭に帰ってその活動を営むことにもなろうし,また,学校で放課後にその活動を営むことにもなろう。しかし,そのような場合に,児童がひとりでその活動によって学んで行くことが,なんのさしさわりがないばかりか,その方が学習の進められるのにも適当だということもあろうが,時としては,活動の誘導,すなわち,指導が必要な場合もあろう。このような場合に,何かの時間をおいて,児童の活動をのばし,学習を深く進めることが望ましいのである。ここに,自由研究の時間のおかれる理由がある。たとえば,鉛筆やペンで文字の書き方を習っている児童のなかに,毛筆で文字を書くことに興味を持ち,これを学びたい児童があったとすれば,そういう児童には自由研究として書道を学ばせ,教師が特に書道ついて指導するようにしたい。つまり,児童の個性の赴くところに従って,それを伸ばして行くことに,この時間を用いて行きたいのである。だから,もちろん,どの児童も同じことを学ぶ時間として,この時間を用いて行くことは避けたい。

この後もまだまだ説明が続いている。
▼私が今ふり返りたいという「自由研究」の歴史から少しはなれることになるが、「自由研究」という発想自体については大いに参考になる。
 ちなみにこの時の「自由研究」の時間は、次の昭和26年(1951)の改訂では姿を消したのである。
では戦前はどうだったんだろう。
「自由研究」はほんとうになかったのだろうか。

(つづく)
 

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