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サイエンスコミュニケーター宣言(338)

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▼久しぶりに朝歩いてみた。
朝忙しなく出かける日や、イベントごとが続いたため歩くのを中断していたのだ。
そんなに日はたっていないはずなのに目に入るものすべてがえらく新鮮に見えた。
野イバラは、前にもして花盛りだった。クモたちが大きくなってきたような気がする。
なかでも目だったのが「カモガヤ」の花だ。
花粉症の人にとってはスギ花粉後の大敵らしいが、今、もっとも旬の花だった。
▼「カモガヤ」について私はよく知らなかった。図鑑をみたり、ネットで調べて見たりした。
「等身大の科学」とは、から少し寄り道がしたくなった。
池内了氏が「等身大の科学」とセットで提言している「新しい博物学」についてである。
昨日引用させてもらった本に次のように語っておられた。

 もう一つは、「新しい博物学」である。モノを収集して共通性と異質性によって分類するという博物学は、十八、十九世紀に盛んとなり、そこから物理学・化学・生物学・地質学などの専門分野が分化してきた。それによって科学は進歩したのだが、一方では科学はますます専門分化が進み、「極」とか「超」が接頭詞として付く状態になってしまった。(極低温、極微物質、超高温、超高エネルギーなど)。科学が細分化され縁遠くなってしまったのだ。そこで再度学問を総合化して身近に引き寄せることを考え、科学だけでなく、歴史や文学や民族学や神話など広く文化全体の眼でモノを見直すことを構想するのが「新しい博物学」である。(『寺田寅彦と現代~等身大の科学をもとめて~』(池内了著 みすず書房) p111より)

納得である。
どんな分野についてもものをよく知らない人間がえらそうに言っても説得力を持たないが、この「構想」に大いに共感し賛成である。
▼もうずいぶん以前から言われている「文化としての「科学」」!!
それはアタリマエのこととして定着したかに見えても、現実にはそうではない。
「音楽」を「音楽家」、その関係者だけのものと言えば多くの人は異議を唱えるだろう。
「科学」ではどうだろう。
「科学」を「科学者」、その関係者だけのものと言えばどうだろう。
どこかで「暗黙の了解」としてしまっていることがあるのではないだろうか。
これは私自身の反省を込めて言うのだが
「それは専門ではないので…」
「専門家が言うのだから…」
ですませていることが多々あるのではないだろうか。
▼きわめて曲者の言葉がある。
「科学的」だ。
「科学的に考えて…」「科学的根拠が…」「科学的な思考を…」
この言葉を出すことで思考停止にしてしまっているところがありはしないだろうか。
「科学的」の中味を吟味することなく、まるで「この印籠が目に入らぬか」とばかり…
この態度こそ「非科学的」なのでは
これではいつまでも「科学」を身近に引き寄せることができない。
「科学」を使いモノにすることができない。
誰しもが、ほんとうに使いモノになる「私の科学」を持つ必要があるのでは。

今こそ、「等身大の科学」「新しい博物学」構想を具現化していきたいものだ。
ゆっくり 急ごう!!

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