サイエンスコミュニケーター宣言(238)
▼さがしものはきっと身近にある。!!
「冬芽」の面白さを先日の日曜会で教えてもらった。少しはその面白さに気づいていたはずだったが、そんなに「さがし」はしていたなかった。教えてもらって、「へークズまで、そうなのか!」と思った。
さっそく、家の前の土手のクズを引き寄せて見た。
ほんとうだ!!「冬芽」があり、「葉痕」もあった!!
では他の「冬芽」は今はどうなっているんだろう。
また歩く楽しみひとつふえた。
▼「私の理科教育史」をつづける。
【「地下茎」第45号 1987.10.10】
この号も少しブランクあっての発行になっていた。
巻頭には『科学の方法~ 科学的に行動する子どもをそだてるために~』(高橋金三郎編著 新生出版 1987.6.5)
から次の文章を引用させてもらっていた。
科学者の方法は,前にも書いたように,多くの時間,労力,費用,技能を必要とするものだ。同時にそれは人間の歴史の長い積みかさねの産物だ。 科学は技術から生まれた「なんとかしてもっとよく,もっとたくさん,もっとらくに」の願望の歴史の中から技術が生まれ,科学へ発展したのだ。 科学者の直接の祖先は,農民であり職人なのだ。技術の方法と科学の方法に本質的な区別はない。農民や職人の生産の方法には,科学の方法が含まれている。そうでなかったら,一般市民のための理科教育に,科学の方法なんて無用になるだろう。子どもがすべて科学者になるわけではないのだ。(前著P14より)
そして、「学びの場はいたる所にあり、「野を行こう」」と呼びかけていた。
▼少し遅くなったが
●1987年(昭和61) 科学教育研究協議会全国研究大会(高知大会)
~自然を学ぶ楽しさから生きる力を~
の参加記を報告していた。
お楽しみ広場には、「紅花染め」「生藍染め」「ビビアナイト(藍鉄鉱)」などを出展していた。
ナイターも大いに学び楽しんだようだ。
▼この号でも続けていた。「丹生」を追うことを。
特に四国に行ったわけだから~中央構造線に丹生を追う~が大きなテーマだった。
例のビデオ『中央構造線900キロの旅』で予習・復習もしていった。
いつもの無手勝流の旅は「出会い」と「発見」の連続だった。
・冊子『水銀利用の歴史にちなんで』との出会い
・欲張りにA・Tも同時に追っていた
・湯ノ谷温泉、別子銅山へ
「別子銅山記念館」に行ったところまで終わっている。
そして最後に「つづく」として
※このあと、『ついに発見!池田でA・Tを』『本場(?)の藍畑へ』『ついに見たぞ!「朱の製造遺跡」』続きます。乞うご期待!!
と書いていますが、ついにはこの続きは書かれることがなかったのです。
●地下茎第45号P13-16 丹生(朱)を追え
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