【お薦め本】『科学の限界』(池内了著 ちくま新書)(5)
▼12月(師走)がはじまった。今年最後のカレンダーをめくってみた。
そうするためにも昨日は11月の「整理」を少しだけやってみた。イベントごとの多い月だった。
なかでも「乾眠」から覚めたクマムシとの出会いは、これ以降の「私の科学」に大いに関係しそうな大イベントなようだ。261日間コウガイビルとの出会いと同様に。
これは「記録」しておく必要があると思った。そこで一昨日の顕微鏡下のようすをなれないYouTubeで「記録」してみた。
ついでに11月7日の様子も「記録」してみた。
▼ひょっとしたらこんなのが、私の「等身大の科学」の方法なのかもしれない。
月をまたぐようになってしまった。こんなのはじめてかも知れない。
◆『科学の限界』(池内了著 ちくま新書 2012.11.10)
をつづける。
次が「社会が生み出す科学の限界」
についてであった。
「十九世紀半ばに科学が制度化した。」として社会が科学を生み出すようになったという。
「科学のための科学」であったのが、「社会のための科学」に変質していくのだ。それは端的に言えば「社会に役立つ科学」であり、「役立たない科学」は時代遅れとして見捨てられていく。それが科学への限界となることは自明でろう。(同書p56より)
私は、そこでなぜかあのファラデーのことを思い出していた。ファラデーは生涯「私事としての科学研究」にこだわっていたという。「そのファラデーは奇妙にも科学を職業とすることに徹底して反対したのである」(『ファラデー』島尾永康より)
「科学の制度化」「科学の軍事化」「科学の商業化」「アカデミック・キャピタリズム」…と話を移して行く。限界を説きながらもそのなかでも「等身大の科学」を忘れてはいなかった。
では、科学は国家予算の限界に直面して、もはや新しい発展はなくなるのだろうか。私はそうは思っていない。これまでの要素還元主義によるビッグサイエンスに頼る方向は確かに限界に直面するだろうが、これまであまり取り上げてこなかった複雑系である等身大の科学に重心を移せば、まだまだ可能性があるからだ。これについては第5章でのべるが、科学の限界は科学自身が打ち破らなければならないのである。(同書P76より)
3.11以降の「科学者」にふれたあと次のようにこの章をしめくくっている。
むろん、科学者は社会に対して助言や参考意見を述べられるだけであって、社会が自ら行う選択を科学者が決定するわけではない。その相互作用の下で、社会に生きる科学が実現するのである。だから、社会から課せられる制限や限界に対して、科学者は人々と対話する姿勢を崩してはならない。(同書 P93より)
どうも著者の文脈に頼りすぎている感がある。私がしたいことはそこにはない。
私は私自身の文脈で「等身大の科学」を読み取りたいのだ。少しピッチをあげる。
第4章「科学に内在する科学の限界」では、「科学」そのものがもつ限界に言及し、これから「科学」を展望しようとしている。その主軸が「複雑系の科学」であると言っているのであろうか。
この章でも最後にこう書いている。
「通時性の回復」「予防措置の原則」「少数者・弱者・被害者の視点」と、空想じみたことを考えていると思われるかもしれないが、それは倫理的思考の再構築であり、真の民主主義を形成するステップなのではないだろうか。科学至上主義を抜け出すための重要な論理ではないかと思っている。(同書 P153より)
これもまた、私には「等身大の科学」への伏線に読めてくる。
第5章「社会とせめぎ合う科学の限界」では、さらに「等身大の科学」への道を加速する。
当面する諸課題「地下資源文明」「地球環境問題」「エネルギー資源問題」「核(原子力)エネルギー問題」「バイオテクノロジー問題」「デジタル社会の問題」「マンモス化問題」などをあげながら、「だからこそ「等身大の科学」を」と迫ってくるのである。
▼いよいよ第6章「限界のなかで-等身大の科学へ」である。
繰り返して言うが、この本は、第6章を書くためのに書かれた本である。
「等身大の科学」提言の書である。
ここに著者のいちばん言いたいことのすべてが詰まっている。あえて引用して紹介することはやめる。
だから、もしはじめてこの書を読んでみようという方がおられたら、私はまずこの章から読んでみることお薦めする。
なぜ今、「等身大の科学」なんだ?と思われたらこれまでの章を読めばいいのだ。
できるだけ私なりの文脈のなかで、著者の「等身大の科学」を読み取ろうと思った。
結論から言うと、同じ「等身大の科学」と言っても、著者の「等身大の科学」と私の使っている「等身大の科学」は重なるところも多いが、少し違うと思った。
これは実にアタリマエのことだ。同じ「等身大」と言っても、そのサイズもレベルももともとちがうのだから。
いやちがう。なんか否定的な表現になってしまった。
この「ちがい」こそ大切と言っているのが「等身大の科学」なんだ。
どこがどのようにちがうのか、それは私自身の実践を通して明らかにしたいものだ。
▼こうして再度読んでみて、著者が関東大震災(1923年)後の寺田寅彦の姿と重なって見えてきた。
それはきっと今、オンライン「寅の日」で寅彦の書いたもの読んでいるからだろうと思う。
著者は、「あとがき」の最後にこう書いた。
それに加えて、本書の内容についての批判やコメントをがいただければなおありがたい。誘導するようだが、「脳血栓になっても、変わらず示唆に富む本だ」と言ってもらえるといっそう勇気が湧いてくる。(同書 P204)
著者に届くかどうかわからないが、これに応答しておく。
きっとあなたが期待している以上に、これからの科学を考える人間には示唆に富む本に仕上がっていますよ。
私は、これからその「等身大の科学」って何?と問われたならば、「この本をよんでください。」と言うつもりです。
ありがとうございました。今度はあなたから生で「等身大の科学とは」を聞くことを期待しています。
一日もはやい回復を待っています。
と。
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