【お薦め本】『科学の限界』(池内了著 ちくま新書)(3)
▼昨日、私は昔の定点観測地で「雲見」をやっていた。朝から今年いちばん冷え込みようであった。急に冷え込んだもので、はみ出した水蒸気は見えるようになっていた。それも昼頃には再び大気に含まれようになったのだろう見えなくなっていた。凍てつく空の青さがまぶしかった。
夜の「宇宙見物」は満月を待っていた。残念ながらうっすら雲がかかっていた。でも不思議な話だ。38万㎞も離れた月の見えるかたちがきっちりわかっているのに、わずか数㎞はなれたところの大気の状態が予測できないなんて…。
▼まだまだ
◆『科学の限界』(池内了著 ちくま新書 2012.11.10)
を続けよう。
けっして著者の「リクエスト」に応えてというのではない。そんな不遜なことをやろうというのではない。あくまで自分自身の「等身大の科学」を追うためである。
同じ「等身大」と言っても、ポンコツ理科教師の「等身大」とプロの科学者の「等身大」は自ずからちがいあるだろうということは認めつつも、私の文脈で読みなおしてみる。
▼まず「第1章 科学は終焉するのか?」では科学の「現在地」をとらえようとしていた。
ホーガンの「科学終焉」論を引き合いにだしながら次のようにとらえている。
それらと同様、科学研究も、ロジスティック曲線に乗っている。一七世紀の科学革命で近代科学が生まれ(揺籃期)、一八、一九世紀を通じて大きく展開し(発展期)、一九世紀末には収穫逓減の時代(衰退期)に対応するからだ。幸い二〇世紀に入って相対論や量子論が発見されて新たな科学革命が起こって、再度揺籃期が始まり、急速な発展期の二〇世紀を経たのだが、今やそれが行き詰まり再び収穫逓減期の時期を迎えていると言える。
(同書 P22より)
▼そして、これ以降の作業の意義づけを次のように行う。
確かに衰退期は次の揺籃期の前の可能性があるのだが、どこに衰退の原因があるのかを突き詰めないと、いつまでもこの状態が続くだけになってしまう。以下の章で科学の限界を考える意図はそこにある。
私自身に大した構想があるわけではないが、科学へのさまざまな限界を分析しながら、最後に私なりの意見を述べてみたい。(同書 P26より)
つまりこの本は科学者池内了の「科学を終焉させてはならない、させるものか!」という意思表明の書なのである。同時に「等身大の科学」の必然性、妥当性を説く提言の書でもあるのだ。
<つづく>
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