【お薦め本】『科学の限界』(池内了著 ちくま新書)(1)
▼昨日は雨がときどき降っていた。私はまだヒガンバナの「ふしぎ!?」を追っていた。玄関先のバケツのなかのヒガンバナの「種子もどき」も少し色づいてきたような気がする。もどきもできない子房部は茶色くなりペシャンコになってきている。色づきはしてきているがこれが黒く完熟するまでいたるのかまだ不明である。
私の小さな「ふしぎ!?」から生まれる「私の科学」とはそんなものだった。
夕方になると少し雲が晴れて十三夜の月が見えていた。
▼「私の科学」にいたるまでの「私の理科教育史」を現在進行形でまとめる作業にとりかかろうとしていた。
「○○の科学」で最近もっとも頻繁に使い気に入っているのは「等身大の科学」だ。
「私の科学」=「等身大の科学」とは言い切れないないが、「私の科学」のほぼ大部分を占めているのではないかと思っている。
「等身大の科学」というフレーズ・文脈を気に入って使いだしたのはきっと
◆『寺田寅彦と現代~等身大の科学をもとめて~』(池内了著 みすず書房)
を読んでからだろう。
その著で池内氏は「等身大の科学」についてこう語っていた。
ここに、科学の有りようについてのヒントが隠れているような気がする。日常身辺の現象を新しい眼で捉え直すことである。私はそれを「等身大の科学」と呼んでいる。サイズが等身大で、研究費も等身大で、誰でもが参加できるという意味でも等身大である科学として、気象や気候、生態系、地球環境問題などを対象とするのである。これらはすべて「複雑系」であり、多数のデータを何年にも渡って集積する必要がある。また、これらに共通するのは「循環するシステム」という点であり、循環の意味をじかに経験するには好適である。(前記書 p110より)
これだ!!と思った。そしてこれを実践し使わせてもらおうと思ったのだ。
▼3.11以降の「等身大の科学」が気になっていた。
前著
◆『科学と人間の不協和音』(池内 了著 角川書店 2012.1.10)
では、「文化」としての科学を主旋律として語った。
そして、いよいよ今回は3.11以降の「科学」「等身大の科学」の現在地を語った。
◆『科学の限界』(池内了著 ちくま新書 2012.11.10)
この本の帯に、この本のすべてが凝縮されていた。
『人間を大切にする等身大の科学へ』
<つづく>
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コメント
香川の蜂蜜です。今夜は月を見ていて遅くなりました。
ところで、また、お尋ねです。ヒガンバナの種子と種子もどきはどう違うのでしょうか? 黒熟していても、発芽しなければやはり、もどきなのでしょうか? 私のほう、訳ありのもの(食害されたもの、花茎も果皮も赤っぽいものーー鱗茎に異常がありそう)が幾つか黒熟しそうです。これって、やっぱりもどきですよね? 植物全能性を信じて(?)蒔くつもりですけど。それにしても、訳ありの子房が膨らみやすいのはなぜでしょう? 不思議です。(蝶はきてたようです、でも…。)
投稿: 蜂蜜 | 2012/11/29 01:22
蜂蜜さん
コメントありがとうございます。「種子」「種子もどき」ですが、蜂蜜さんの場合は発芽経験があるからやっぱり「種子」でいいんではないかな。私の場合は発芽を見るまでは「種子もどき」ですね。
訳ありに子房がふくらみやすいのはどうしてかというのはわからないですけど、なんとしても種子をつくって種族維持をはかろうというところがあるのでしょうか。
今年私が水栽培しているのは、まったくありふれた庭先のやつをやっています。
かなりの確率で子房部が割れ「種子もどき」が顔を出しています。また、その後の教えてくださいね。
宜しくお願いします。
生きているあいだに蜂蜜さんまで追いつけるかな。
石川の本多先生のところどうなったかな。
気になっています。
投稿: 楠田 純一 | 2012/11/29 19:27