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今なぜ「日本理科教育史」なのか?(9)

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▼ほぼ一日ぶり(25時間ぶり)に見る水栽培の大賀ハスは大きく姿を変えているように見えた。あふれ出た葉たちは倒れるように地面についていた。花の茎だけがすっと一本ますます背伸びしていた。蕾はあきらかにふくらみを増していた。まさに刻々と姿を変えて行っているのだった。
▼反芻作業を続けよう。
「まさに刻々と姿を変えて行っている」のは、大賀ハスだけではなかった。
一昨日に聴いた中村敏弘先生のお話に登場する人々も同様であった。
M.ファラデーに続いて「創造する東北の教師たち」の話を聴いた。
◆「1960-1970年の理科教育---特に高橋金三郎と理科教育研究運動について」
である。
 「同じ姿」を描くこと・「変わらない」ことは、それはつまりは「終わり」を意味するのである。
▼60年代に東北の教師たちがどのような思いで極地方式研究会を創りあげていったか。その軌跡、その歴史的「事実」は学ぶところが多い。
 その「事実」は、ファラデーの「日記」と同様に中村敏弘先生によって「記録化」されていた。
うれしい!ありがたい限りである。
これは結論ではない。反芻作業の途中報告である。
●変わり続けることこそが唯一の創造の方法である。
●ヒューマンネットワークこそが人々を創造に向かわせる。
▼「これから」を模索するなかで、このような記録化された軌跡をみるとき確かな光がみえてくるのである。
私はここで脈略もなくあの高橋金三郎も尊敬していたという農民詩人真壁仁さんの「峠」を思いだすのだった。

風景はそこで綴じあっているが ひとつをうしなうことなしに 別個の風景にはいってゆけない 大きな喪失にたえてのみ あたらしい世界がひらける。 峠にたつとき すぎ来し道はなつかしく ひらけくるみちはたのしい。 みちはこたえない。 みちはかぎりなくさそうばかりだ

さあ ゆっくり急ごう!!
今から米子に向かう。

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