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今なぜ「日本理科教育史」なのか?(7)

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▼いよいよ8月が始まる。
7月最後の日、「水栽培」の大賀ハスの蕾が葉っぱのジャングルからニョキッと顔を出した。待望の「あこがれの4日間」に大きく近づいた。観察池の方も一歩遅れをとったが顔をだしつつある。ひょっとしたら、第11と第12は逆転するかも知れない。さらに楽しみが増えた、それは観察池の方に第13の花芽が見えてきたということだ。
考えてみると観察池の方と「水栽培」の方元をたどれば同じルーツをもつ。もっと溯れば我が家にやってきた一粒の種子だ。61年の歴史を溯れば千葉県検見川の泥炭層で発見された一粒に行き着く。
▼そうその「日本理科教育」もその系譜をたどれば同じところに行き着くということがあるかも知れない。
今日、中村敏弘先生からお聞きするのは1960年代(1960~1970)が中心だ。
半世紀の時空を超えて学ぶのだ。
 なんかわくわくしてくるのである。興奮を抑えるのに苦労するところである。
私自身は1975年に理科教師になった。それ以降のことならば不勉強ながらもある程度体験的にその「歴史」を頭に描くことができる。
 それ以前のことについては憶測・推測すぎない。今日は、その「事実」を知ることができる。
ありがたい!!
▼今日のお話は豪華二本立てだ。
60年代のお話に先立ち、19年間に渡って続けてこられたファラデーゼミ(ファラデーの『日記』を読むゼミ)のお話を聞く。
 ファラデーは42年間にわたって『日記』を書き続けてきた。
そこにはすべてを書き込んできた。日記にインデックスをつけて後ほど自分が書き綴ったものを活用したという。
なんとも示唆的である。
 そんなファラデー自身についてはもちろんであるが、19年間も『日記』を仲間と共に読み続けてこられたゼミにも感動であり興味深い。なにがそこまで継続させてきたのだろう。
▼「記憶せずに記録する」と言ったのは梅棹忠夫だ。(『知的生産の技術』)
それをていねいに永きにわたって実践してこられた中村先生は、教師が記録をかくことについて『教育実践検討サークル 創造する東北の教師たち』(1975年、国土社)の中で次のように言われている。

 『もうひとつ、記録を書くことと、思想性を高めることを統一して行う仕事がある。それは、自分の認識の変化を書くことである。子どもの認識をどのように変えようと思って、自分の認識がどのように変わったか-自分が先生になった時から、どういうことがあったからどう変わったか、自分の記録を書くことである。  実践を検討したり、批判したりするもと(基準)は、教師としての生活であり、それがこうすることによって、はっきりさせることができるのである。』 (前著 P423)

なんとも示唆的である。
 ますます今日のお話が楽しみになってくるのである。

さあ!ゆっくり急ごう!!

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