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今なぜ「日本理科教育史」なのか?(6)

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▼昨日の朝も例の如く「トンボ撮り」に出かけた。お目当てはハグロトンボである、少し数が減ってきたように感じるが、それはちゃんとカウントしているわけではないので、あくまで「感じ」である。
少し曇っているのであまりいいのが撮れない。別のトンボに出会った。
ゆっくり近づきシャッターをきる。どういうことだろう?ときどきこんなときがある。いつもはすぐ飛び立ってしまうトンボがじっと静止状態に入る。まるでモデルがポーズをとってくれているように。何分たっただろう、こちらはこのときぞとばかり撮り続けた。あとで見たらなんと同じ写真を131枚も撮っていた。
どれひとつまともなものないのであるが、撮り続けているあいだはなんとなく「会話」したような気分になった。
▼いつのまにやら、月日は過ぎていくものである。
はやくも7月は終わりである。ずっと楽しみにしてきた
【ファラデーラボ 夏の学び舎-科学教育研究の歴史を学ぶ-】
がいよいよ明日である。
 今一度、頭のなかの整理をしておこう。
アタリマエももういちど確認しておこう。
「歴史」を学ぶことは、現在地を確認することであり明日を語ることである。
▼私自身の文脈を整理する。
○理科の授業はサイエンスコミュニケーションの最前線である。

○理科の教師(授業者)は最前線のサイエンスコミュニケーターである。

○日本の「理科」教育には歴史がある。
 126年の歩み

○日本の理科教師126年の歩みの「歴史」から、今日の「理科」は生まれた。
良くも悪くもこの延長線上に、地続きにある。

○「これから」を語るためには、「これまで」に学ぶ必要がある。

○等身大の「歴史」を学ぶ必要がある。

こんなところであろうか。
▼こう考えてくると、この「歴史」を語るのにもっともふさわしい人がおられた。
中村敏弘先生だ。生でこの話をきけるなんてありがたい限りだ。
(1) 「明日の理科の授業をどうつくるのか」の視点で話を聴こう。
(2) 今日の教材はどんなコンテクストから生まれたのか。それを訊こう!

<つづく>
   

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【Web更新7/29】12-31新・「自由研究」のすすめ試論 更新!

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蔓のぼり 涼つくりたる ゴーヤかな 12/07/28 (土)撮影@福崎
 

■楠田 純一の【理科の部屋】12-31
週末定例更新のお知らせ
 「忙しさで心を亡ぼすことなかれ」は、自らを戒めるためによく使ってきた言葉だ。ずいぶん久しぶりにその言葉を思いだした。今週もまだ、まだその状況が続きそうだ。
 こんな状況のときこそ、blog更新/日、Web更新/週の鉄則で「日常」を確保していきたい。

◆表紙画像集2012 更新 人里の植物シリーズ ゴーヤ(ニガウリ)
 風景のなかの植物たちというのは、風物詩の名脇役である。東の畑に育てているゴーヤが、真夏の太陽の光をうけてスルスルと蔓をのばしている。それはみごとなモノだ!
 かつて私の授業「植物の世界」では、つる植物こそが植物のくらしを物語るのにもっともふさわしい教材であると思ったこともある。支出にあたる茎への栄養を最小限におさえて、「もっと光を!!」と絶叫しながらスルスルとつるをのばしていく姿は見事だと思った。
 そのゴーヤがつるを伸ばし涼をつくる姿は、新しい真夏の風物詩である。
しげしげと花を見た。これぞ瓜だと思った。

◆新・「自由研究」のすすめ試論 更新
 自分自身の自由研究を展開しながら、新しいこれからの「自由研究」のすすめ方を考える試みも、またたくまに「中間地点」になった。「大賀ハス開花観察」「ハグロトンボ」「クマムシ」と次々と新たな展開だ。
やっぱり「自由研究」は面白い!!
やればやるほど面白くなってくる。これが実感である。

◆オンライン「寅の日」 更新
 第10回まできた。積み上げを語るにはまだまだの回数である。
しかし、持続する志に展望が持てるところまで来ている。
より多くの人と「寅の日」を楽しんでいきたい!!そう思うところまでは来た。

さあ、今週も ゆっくり 急ごう!!

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「寅の日」はまだまだ続く!! #traday

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▼大賀ハスの蓮根を植え替えてから17週目であった。今年度植え替えしたのは3月31日(土)であった。
このとき、二本は「観察池」の植え替えた。他のたくさんの蓮根は近くのポリ容器のなかにほりこんだ。土はいれなかった。これまでの年度もそうしていた。例年葉はのびるが途中でかれてしまっていた。
ところが今年はながく葉をのばしていた。ここから花芽がでれば「水栽培」も可能ということになる。
自然界ではアタリマエのこととして起こっているのではないかと期待していた。そして、ついにほんとうに花芽がのびて来た。日々刻々ぐんぐん成長しているようだ。「水栽培」第1号の「あこがれの4日間」が楽しみである。
オンライン「寅の日」も今年度の大賀ハスとほぼ同じ「歴史」をもっていた。
開始して4ヶ月である。
10回で準備の回を含めると次の12の寅彦の文章を読んでいた。
・「思い出草」
・「アインシュタイン」
・ 「天災と国防」
・「日本人の自然観」
・「五月の唯物観」
・「俳句の精神」
・「津浪と人間」
・「日常身辺の物理的諸問題」
・「ルクレチウスと科学」
・「科学者とあたま」
・「茶わんの湯」
・「自然界の縞模様」

読んだと言っても、ほんと未消化で単に字面を追いかけたにすぎないものもある。
まだまだ反芻作業が必要である。
しかし、だんだんとわかってきたこともある。
それは、寺田寅彦の文章はけっして過去の文章ではない、きわめて今日的な文章であるということだ。
それだけではない、21世紀の「これから」の未来に向けた提言にあふれているのである。
青空文庫にある文章の一覧を見せてもらうとまだまだ読ませてもらいたいものがいっぱいある。
オンライン「寅の日」を何回つづけると読破できるのか。
気の遠くなりそうな話だ。
でも楽しみでもある。
 一度読んだつもりになっていても、また読みかえしてみるとその度にあらたな「発見」があるからだ。
また、そのうち自分とはちがう読み方に接することができると思うとわくわくしてくるのである。
▼関連することまでを含めるなら、まずは話題につきることはない。
いっぱいの「茶わんの湯」から最先端の複雑系科学まで、この世の中「ねぇ君、不思議だと思いませんか?」とつぶやきたくなることで充ちているのである。
私の「ふしぎ!?」が枯れないかぎり、「寅の日」はまだまだ続くのである。!!

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本日、第10回オンライン「寅の日」!! #traday

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▼毎日見ているのに、そこに行くと行くたびにぎょっと驚いてしまうのである。
炎天下の下、大賀ハスは巨大なジャグルを形成していっている。大きな大きな丸い大賀ハスの葉がところ狭しと
広がっていくのである。どこまで成長するのだろうと驚きと同時に「ふしぎ!?」がやってくる。
▼それにしても、みごとなまん丸の葉であることか。
そんなアタリマエにも「ふしぎ!?」を覚える。
そんな「まん丸」の不思議についても寅彦が言っていた。

 昔、自分らの学生時代に、確率論の講義を聞かされたときに「理由欠乏の原理」と「理由具足の原理」との話があったことを思い出す。この前者によれば、たとえば生長するすべてのものは円か球になるはずである。どの方向に特に延びるという理由が「ない」というよりはむしろ、そういう理由を「知らない」ためである。しかし、自然は人間の知らないいろいろな理由を知っており、持ち合わせているために、世界の万物はことごとく円や球や均質平等であることから救われるのである。(寺田寅彦『自然界の縞模様』より)

▼その『自然界の縞模様』を読むのが、第10回オンライン『寅の日』。本日!!である。
第10回オンライン『寅の日』  
●『自然界の縞模様』(青空文庫より)

この文章もまた示唆的で興味深いものである。その意図を次のように最初に語っている。
すこし長くなるが引用させてもらう。

これらの現象の多くのものは、現在の物理的科学の領域では、その中でのきわめて辺鄙(へんぴ)な片田舎(かたいなか)の一隅いちぐうに押しやられて、ほとんど顧みる人もないような種類のものであるが、それだけにまた、将来どうして重要な研究題目とならないとも限らないという可能性を伏蔵しているものである。今までに顧みられなかったわけは、単に、今までの古典的精密科学の方法を適用するのに都合がよくないため、平たく言えばちょっと歯が立たないために、やっかいなものとして敬遠され片すみに捨てられてあったもののように見受けられる。しかし、もしもこれらの問題をかみこなすに適当な「歯」すなわち「方法」が見いだされた暁には、形勢は一変してこれらの「骨董的(こっとうてき)」な諸現象が新生命を吹き込まれて学界の中心問題として檜舞台(ひのきぶたい)に押し出されないとも限らない。そういう例は従来でも決して珍しくはなかった。たとえばブラウン運動でも、表面膜の「よごれ」の問題でもそうである。ましてや、古典的物理学の基礎をなしていた決定的因果律に根本的な修正が問題になり、統計物理学の領域にも全く新しい進出の曙光(しょこう)が見られる今日において、特にここで問題とするような諸現象を列挙して読者の注意を促すのも決して無益のわざではあるまいと思われるのである。
▼そう寅彦が言ってから80年。 諸現象はみごとに檜舞台に押し出されてきているのである。 「研究」に値することとはなになのかにも関連して今一度この文章を今日一日読みかえしてみたい。 あわせて オンライン上にある次のような講演も聴かせていただきたい。

◆近藤滋:「キリンの模様がつなぐ物理学と生物」

◆松下貢:「フラクタルの目で自然を見る」

今日一日は、自然界のもののかたちや模様をアタリマエを排してみつめなおしてみたい。

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クマムシはあなたの近くにもきっといる!!

▼昨日は私自身の「自由研究」にも大きな展開があった。まず大賀ハス開花観察の方である。私自身が栽培はじめてからこれまでに10個の開花を観察していた。今年度はこれまででいちばん多く5つの花の「あこがれの4日間」を観察していた。葉ばかりが異様に大きくなりはじめ花はこれまでと思っていた。ところが昨日大きな葉のあいだから第11番目の花芽がのびてきているのを発見したのだ。
 発見はそれに終わらなかった。蓮根の植え替えをしたとき残った蓮根をプラスチックの容器の中に入れて水だけで育てていた。そこも葉ばかりが成長してきていた。そこに第12の花芽を発見したのだ。
水栽培でははじめての花芽である。いっきょにふたつの花芽発見であらたな展開である。
▼自由研究第3弾の「クマムシの研究」の方にも大きな展開があった。
朝から蒸し風呂状態の理科室で、シャーレのなかを双眼実体顕微鏡で観察をつづけた。シャーレのなかは校庭の駐車場で採取したギンゴケを水で浸しギンゴケを取り除いたものである。
一昨日に引き続いて「これはいるな!!」と感じた。
 シャーレの中に幾種類かの動くものをかみつけたからだ。それは予感は的中した。
一時間あまりのあいだに、なんと5ひきものクマムシを発見したからだ。
▼スポイトで吸い取って別の容器に入れて持ち帰った。そして例のデジタル顕微鏡で観察してみた。
100倍で観察してみた。動画にして、YouTube にアップしてみた。

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忙しく動かす脚を捉えることができた。脚の先の爪もはっきりとわかる。
間違いなくクマムシである!!
▼確信した。クマムシはどこにもいる。
クマムシはあなたの近くにもきっといる!!
クマムシはあなたの家の庭にも
あなたの学校の校庭にも
いつもあなたが通る道端にも
どこにもいます。
きっといます。
世界最強の「クマムシ」も遠くの存在ではない!!
そこが面白いのだ!!


次なる課題はより簡単にみつける方法の開発である。
ゆっくり ゆっくりと挑戦してみよう。

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新・「自由研究」のすすめ試論(48)

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▼さっきまで大賀ハスの葉の裏で昼寝をしていたカエルくんが雷の音で目を覚まし、空見・雲見をしていた。いつのまにやらここが居心地がいいのか住み処としてしまったようだ。
ところでこのごろ幼いカエルくんたちをみかけることが多い。それも大群でいるところを見かける。
田んぼも溝も用水路も川までが新しくなっている。そこで新たな住み処をみつけようとしているのだろうか。
▼私自身の自由研究をすすめよう。「大賀ハス」「ハグロトンボ」につぐ第三弾は「クマムシ」だった。
「クマムシ」との念願の対面は昨年度までにはたしていた。より確実な発見方法も確立しつつあるところだ。
今年の夏休みの「クマムシ」についての課題は、クマムシの動画のアップと誰でも簡単にみつける方法の確立と普及だ。
 手始めに今の勤務校の駐車場のギンゴケを採集して一昨日から準備をしていた。
昨日午後、蒸し風呂のような理科室で観察をはじめた。双眼実体顕微鏡で観察をはじめて10分。
「ああ、これはいるな!」と思った。もうわかるようになってきたのだ。
自転車の乗る練習をしていて、ずっとダメで一度乗れるようになると不思議と次からは簡単に乗れてしまう。
あれだ!あの感触で「いる!!」とわかるのである。
 世界最強のクマムシと言えども、けっしてクマムシだけがそこにいるわけではないのだ。エサとなる動物たちがいるのだ。それらがその「気配」をつくり出しているのである。
「気配」は正解だった。すぐさまクマムシに出会った。なんとも懐かしさすら感じたのである。
▼やっぱりいた!!
ほんとうにどこでも居るのである。めずらしいわけではない、でもそれがとっても大事なことに私には思えるのだ。
いつでも、どこでも、誰でも見ることができる。
だから「科学」なんだ!!

特定の人にしか見ることができないもの。
それは「科学」ではない。
▼「クマムシ」ひとつでオオバーに言うが、「自由研究」の真のねらいも実はここにあるような気がするのである。
「自由研究」を通して、一生通用するような「私の科学」を手に入れていくのだ。
「私の科学」をより豊かにするため、「自由研究」をするのである。
夏休みの読書で本の楽しみ知るように
自由研究で「科学」の楽しみ知ろう。

さあ、今日は何匹のクマムシに出会えるだろう。

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新・「自由研究」のすすめ試論(47)

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▼やっぱりすイエんサーの理科ハウス登場は面白かったですね。見逃した人は土曜(7/28)の朝9時半です。
なにが面白いのだろう。
 自分でもすぐやってみることができる。
「ふしぎ!?」が等身大だ。けっして装置が大がかりではなく、身のまわりにあるものを使って誰もが挑戦できるのだ。そして、それは必ずしも大人や知識量が多い者が勝利するのではないのだ。
 でも勝者には高いレベルの科学・技術が潜んでいるのだ。
それが納得であり面白い!!
▼「自由研究」すすめ試論を続ける。
これも同じだ。
いちばんの醍醐味は、私の「ふしぎ!?」=等身大の「ふしぎ!?」を「研究」にどう結びつけるかである。
これに成功すると8割方は成功と言えるかも知れない。
 いくらりっぱな研究であっても、自分の「ふしぎ!?」となんの関係もない無縁のモノでは味気ない。
▼私の進行形の具体例でいこう。
◆「散歩道のハグロトンボ」
 ほ場整備が一応完了して、夏にこの散策路をあるくのははじめてである。
数十メートルの新しい水路ができた。竹藪の下である。ながいあいだじっくりと見たことのなかったハグロトンボを見かけた。せっかくだ、アタリマエに見逃さずに「ふしぎ!?」に思うこと調べてみよう。
・はねをひろげているのはなんのため?
 なにかのシグナル それとも もっと生理的なもの?
・縄張りがあるってほんとかな?どんな範囲なのだろう。
・ハグロトンボの一生は?
・「ふしぎ!?」はどうすれば追い詰めることできるかな。
▼「アカソナキヤ」方式使ってみよう。
「ア」 タリマエとせずに
「カ」 考えてみると「ふしぎ!?」
「ソ」 う言えば ネットにあった!!
◆「くにたち ハグロトンボ調査隊」

うれしいな。
やっぱりいた。同じような興味を持つ人、同じ「ふしぎ!?」を追いかける人!!
なにが、どこまでわかっているのだろう。
「ナ」「キ」「ヤ」と続けてみよう。

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新・「自由研究」のすすめ試論(46)

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▼夏休みが本格的にはじまった日の夕方。「梅雨明け10日は晴れ!!」に反して妙に蒸し暑く今にもふりそうだった。その湿気をあいつたちはどう受け止めているのだろう。
 いつものハグロトンボ定点観測地にでかけてみた。いつもとかわった様子は感じとれない。
「トンボの身になって…」と例の呪文を唱えてみる。そしたら一匹がとまって動かなくなってしまった。
蚊に刺されながらしばらく「会話」をしてしまった。
 大賀ハスの開花の「ふしぎ!?」が一段落して、次の「ふしぎ!?」に向かうところだった。
ハグロトンボの「ふしぎ!?」ももう少し整理してかからねば…。
▼そうだ!!小さな「ふしぎ!?」を追うということでは、いつも大いに学ばせてもらっている世界一小さな科学館=理科ハウスがあのNHKEテレ 「すイエんサー」に本日登場である。
◆必見!!本日(7/24(火))19:25「みんなのすイエんサー!夏の大・特・集!!」
もし見逃したら (再)7月28日(土)前9:30~ Eテレだ。
案内を見せてもらっているだけでも楽しそうだ。理科ハウスの「空気」の「おすそ分け」もらえそうだ!!
きっと「ふしぎ!?」追いかけるヒントももらえそう。
▼私は、私の小さな「ふしぎ!?」を「自由研究」テーマにつなげることを提案していた。
自分でもそれをやってみようと思っていた。言うことはやさしいが、では具体的にはというとなかなか難しいものである。
「大賀ハス」
「ハグロトンボ」
「クマムシ」
「コウガイビル」
「丹生」
等々何がどこまでわかっているのか。
「ふしぎ!?」の整理をしてみる。
▼今一番身につけたいのは、等身大の「ふしぎ!?」を追い続ける持続力。
「ふしぎ!?」を保留にしてしまう勇気。
「ふしぎ!?」を追いつめる技術・スキルだ。

よし!!朝のハグロトンボの様子を観察にでかけよう。
「縄張り」があるってほんとかな。


 

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【Web更新7/22】12-30 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

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畦に立つ ヒマワリ一輪 形見かな 12/07/22 (日)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-30
週末定例更新のお知らせ
 blogのアクセスカウターが30万を超えたようだ。その詳細を見てみると、ここ四ヶ月の平均アクセセス数は239/日、訪問者数127名/日だそうだ。この拙い繰り言をそれだけの人が見ていてくださるということだ。
ありがたいかぎりである。もちろん主目的は自分への覚え書きといいながらも、読んでくださる方があるというのは書き甲斐のあることでもあるし、うれしいことである。深謝。

◆表紙画像集2012 人里の植物シリーズ ヒマワリ
 ほ場整備の後の田んぼの畦に、いっぽんヒマワリが立っていた。
なんでこんなところにと思うところにニョキッと立っていた。梅雨が明け本格的な夏の訪れである。
盛夏を象徴する花と言えばこのヒマワリだろう。確かに家の下の畑には何本かのヒマワリが咲いていた。
もう跡形もなく消えてしまった原風景の形見のように思えた。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新
 映画『グスコーブドリの伝記』を観た!!や 今なぜ「日本理科教育史」なのか?をこの「サイエンスコミュニケーター宣言」に入れてしまった。ごった煮状態である。
 それでいいと思っている。頭の中も、気持ちもそういう状態なのであるから。
今は、カオス(混沌)こそがキーワードだ!!

◆オンライン「寅の日」 更新
 夏休みだ!!日本の元祖サイエンスコミュニケーター=寺田寅彦の名文を存分に堪能しよう。
 どこかで人に会えばオフライン「寅の日」だ!!

◆【大賀ハス観察日記】更新
 私の家の観察プールでは見たことのないような巨大な葉がのびてきている。この巨大な栄養製造工場はどれほどのエネルギーを地下の蓮根に蓄えるのだろう。はやくも来年の春が楽しみになる。
 観察報告の方は、第二世代の方もあげるようにしたい。
  

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今なぜ「日本理科教育史」なのか?(5)

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▼大賀ハス観察池は蓮根の植え替えから16週目を迎えようとしていた。第8、第9、第10の花托だけが緑色をし大きくなっている。今年もいくつかの種子が採れそうだ。一方昨年収穫した種子3つを5/16に発芽処理したその方は三粒ともみごとに成長した。あれから66日である。たくましい立ち葉も立ちはじめている。地下では蓮根が太ってきていることだろう。第二世代のこれからが楽しみである。
▼長い間理科教師を続けてきてしばしば「理科」教師でよかった!!と思うことがあった。それは、理科教師にはモノがあるからだ。口べたでなかなかうまく語れないとき、モノがかわりに語ってくれた。
言葉で語る以上の説得力をもってモノが「物語」を語り始めてくれた。アリガタかった。
 今もそうだ!!「日本理科教育史」もモノが語りはじめてくれる。
モノに助けてもらおう。
▼そんなことを考えていたかは別にして、そんな試みをすでにはじめていた。
◆現代教材発展史「スライム」
 もう8年前になる。最新更新からでも5年である。
PVAのりを使っての最初の発案者である故鈴木清龍先生から直接連絡をいただきアドバイスをもらったこともある。なるほどと納得することがあった。最初の発案者のコンテキストを知った。
ルーツをたどることの意味を深くわかりはじめた。
 これも久しぶりに再開してみよう。
▼現代教材発展史「スライム」をはじめたころから、このほかにもこのルーツもたどってみたいと思っていたモノがいくつかあった。
 あまりたくさん同時進行だとポンコツ頭がついていけない。
とりあえず2つのモノを開始しよう。
◆現代教材発展史「究極のクリップモーター」
◆現代教材発展史「ピンホールカメラ」

この夏の研修の旅は、「スライム」も含めて3つのモノの取材の旅でもある。
3つのモノに関連する情報・実践などをお持ちのときはどうぞよろしくお願いします。


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今なぜ「日本理科教育史」なのか?(4)

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▼夕立があったんだ。そのあとカエルくんは第10大賀ハスの花托の上で「雲見」をしていた。
雲の動きをじっとじっと見ていたのだった。
そうだ、賢治のカエルくんたちの「雲見」がこのことばのはじまりだった。

眺(なが)めても眺めても厭(あ)きないのです。そのわけは、雲のみねというものは、どこか蛙の頭の形に肖(に)ていますし、それから春の蛙の卵に似ています。それで日本人ならば、ちょうど花見とか月見とか言う処(ところ)を、蛙どもは雲見をやります。
「どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。」
「うん。うすい金色だね。永遠の生命を思わせるね。」
「実に僕(ぼく)たちの理想だね。」
(宮澤賢治『蛙のゴム靴』(青空文庫)より)

▼「雲見」にだって歴史があるように、日本の理科教育にも小さな歴史がいっぱいある。
私たちはけっして歴史研究家になるために「歴史」を学ぶわけでない。明日をよりよく生きるために「歴史」を知り学ぶのである。
 明日の理科授業のために、日本の理科教育史を知りたいのだ。
▼小さな実践が集積されツナガッテ、その先に明日の授業がある。
すごれた教材、定番実験・観察のルーツをたどること、それはそれが生み出されたコンテキストに学ぶことだ。
コンテキストとセットにした学びでなければ、ほんとうの意味で継承することはできない。
あらたな教材開発にも結びつかないのである。
▼ひとつの教材の開発・工夫にも、無名の無数の理科教師の志、思いや願いが詰まっている。
これまでは、それらの集積回路が限られていた。
今はちがう、多様でゆたかな集積回路がある。

これまでには考えられないようなツナガリが生まれるとき、あらたな授業実践が生まれてくるのかも知れない。
半世紀のあいだに日本の理科室でおこった「事実」を集積する作業にかかろう。
もうすでにあるものは繋いでみよう。

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今なぜ「日本理科教育史」なのか?(3)

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▼大賀ハスは、第10大賀ハスの「あこがれの4日間」が終わって以降大きな変化は見られない。次なる花芽もたつ気配はない。第6、第7の花托はみじめなものである。黒く縮んだかたまりになっている。花托が成長していっているのは、第8以降である。あの雨の中での受粉・受精は難しかったということだろうか。
第8大賀ハスにはあの「種子」が大きくなってきているようだ。こうして大賀ハスは60年の「歴史」を引き継いできた。
▼では、我らが「日本理科教育史」はここ半世紀のあいだ何を引き継いできたのだろうか。
日本の「理科」は127年の「歴史」をもつが、ここではやっぱり「これから」にダイレクトにツナガル半世紀を問題としてみよう。
 何が引き継がれているのか。
教材(実験・観察)、教科書、学習指導要領、等々あげてみるがいまひとつピンと来ない。
「教材」だけはさりありなんと思う。
それはまた教材試論のなかでくわしく追いかけたいと思う。
もうひとつ気になるものがある。それがこの50年間のあいだに書かれた「実践記録」である。
一口に「実践記録」と言ってもいろんなものがあるだろう。
雑誌『理科教室』に記載されたり、まとめて本になり出版されたすぐれた「実践記録」もあるだろうが、それはほんの一部にすぎない。膨大な量の実践記録が、書いた人以外の目に触れることなく消えていっている。
▼「実践記録」についてたいへん興味深いことを中村敏弘先生が言っている。

 もうひとつ、記録を書くことと、思想性を高めることを統一して行う仕事がある。それは、自分の認識の変化を書くことである。子どもの認識をどのように変えようと思って、自分の認識がどのように変わったか-自分が先生になった時から、どういうことがあったからどう変わったか、自分の記録を書くことである。  実践を検討したり、批判したりするもと(基準)は、教師としての生活であり、それがこうすることによって、はっきりさせることができるのである。 ( 『教育実践検討サークル 創造する東北の教師たち』(中村 敏弘著 国土社 1975.11.5) P423より)

実践記録とは、私たちが教室の「事実」を共有するためのきわめて有効な手段であり方法なのである。
だとするとなおさら、この50年間の「実践記録」のことが気になる。
その一部はデジタル化されDB(データベース)化されているのかも知れない。
 私が知らないだけかもしれないが、もしまだ不十分な状態にあるのならそこからはじめることも重要なことかも知れない。
▼とは言っても現場にいるものが、過去の「実践記録」にぜひ目を通したいと思うのは、次なる授業を自分でつくろうとするときである。授業がうまくいかななくて、別の方法を検討したいときなどである。
 切実なニーズとしてあるのである。
そしてまた、このDB化に関して、森山和道氏が『ネットワークと教育』なかでたいへん興味深いことを言っている。
17年も前にである。

マルチメディア時代──とは、10年に一度しか閲覧されない資料を、どんどんどんどん蓄積していく時代なのかもしれない。

そういう風に考えていくと、別に教育現場にコンピュータ・ネットワークなんか必要ないんじゃないか──そんな風に思えてくるかもしれない。しかし、それは違う。各人が全く違う目的で蓄積したデータベースや、全く違う目的のために造られたネットワークがシームレスに繋がっていくのが「ネットワーク時代」である。全く違う知識・思考方を、全世界規模で共有することができるのだ。

例えば、それぞれの教師が自分の授業ノート・データベースを構築し、公開する。それは巨大な授業のデータベースとなるだろう。それだけで、全く違う授業が生まれるかもしれない。

この17年のあいだに状況はどう変化したのであろうか。
17年の「歴史」の渦中にいたことはまちがいない。
だから、少し自問自答をしてみる。


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今なぜ「日本理科教育史」なのか?(2)

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▼ロンドンオリンピックが近づいてきている。先日テレビで体操界のエース内村航平の強さの秘密徹底解剖!
と称して、彼の驚異の「空中感覚」のことについてやっていた。ひじょうに興味深い内容であった。
 彼は空中にあって、瞬時に自分の「現在地」を把握することができ、それをもとに自分自身の身体をコントロールしているのだという。その「空中感覚」は必ずしも天賦の才だけでない人並み外れた猛練習の努力で獲得していっているのだということだ。
▼その「空中感覚」!!
そんな天才的感覚の話ではなくアタリマエ感覚として重要なことを教えてくれているのではないだろうか。
自らの座標軸を設定して、「現在地」を把握する。
 それは、すべてのことに通用する。「これから」を考える営みの第一歩にやるべきことだ。
今なぜ「日本理科教育史」なのか?の答えのひとつがここにあるような気がする。
歴史を知ることとは「現在地」を把握する営みそのものなのだ。
1993.11.23にスタートした【理科の部屋】は、今年で19年の「歴史」をもつ。来年で20年である。
その詳細なる「歴史」は別にみていくことにして、はじまったころによく引用させてもらっていた高橋金三郎氏の文を再び使わせてもらう。

この理科通信サークルは次のような動機で始められました。

1.理科教育研究は現場の教師を主体にしなければならないが、教師は研究者として認められていないために、相互交流の機会が少ない。年一回の大会では不十分である。

2.大会自体の運営がおかしく、現場の実践をおしすすめるためのきめこまかなものになっていない。もっとザックバランに何でも話し合えるサークル的雰囲気がほしい。

3.創造的な教育研究をやろうとすると、どうしてもひとりぼっちになるし、失敗も多くて、くじけてしまう。どこかで仲間が絶えずはげましていてほしい。

4.研究をそのまま発表するのでなく、それ以前にチェックされたり、援助されたりして、できるだけレベルの高いものにして発表したい。
 
  (中略)

 こうした事情を見聞するにつれ、どうにかして手軽な手段で最初に書いた願いを満たすものをという気持ちが段々強くなりました。そして思いついたのが、この通信サークルノートの回覧です。そのBack Groundには次のようなことがありました。
1.東北大学で理科の通信教育に従事して非常に有益だったが、同時に受講者間の交流がないために無駄な労力が払われた。
2.第一線の科学者は航空便や電話で国際的に日常の研究を交換している。学会はその決算日にすぎない。現場の教師でも手紙を出す暇はあるだろう。
3.1:1の手紙の交換(ラブレター方式)は有効だし、これからもすすめられねばならないが、研究集団組織を強化していくためには、semi-publicのノートの回覧の方が有効である。多くの変わった角度からの意見が出る。
4.ひとつのサークルに沢山の人をいれていけば、その人が中心になって多くのサークルができてくるだろう。
5.学生時代のクラブ活動で、部屋に厚いノートがあり、各人が勝手なことを書いているうちに連帯感が強められたし、普通の勉強では得られぬ多くのことを学習した。

ここで呼びかけられている理科通信サークルはなんと今から半世紀以上前1960年からスタートしたのでした。
▼ある面で、私は【理科の部屋】の原点はこの「通信ノート」にあるのではと思っている。
この文章を今も読み返していると半世紀の時空を超えて響き合うものがあるのがわかる。
できることがある。
ここ半世紀間の「日本の理科教育史」を可能な限り知って見よう。
それは内村選手の「空中感覚」と同様に「現在地」把握の大きな助けになりそうな気がする。

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8月オンライン「寅の日」は #traday

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▼昨日夕方のテレビニュースで言っていた。
「近畿地方の梅雨が明けた!」と。
確かに空の青さに変化があった。そこにボリュームのある雲が浮かんでいた。
 そんな日の夕方、何気なく自分の部屋から網戸越しに外を眺めているときだ。網戸の「さん」の水平と見比べてみることによりその「ふしぎ!?」が久しぶり前面出てきた。
 私は生まれてこのかたずっと60年以上同じところに住まいしている。何度かこの「ふしぎ!?」はあらわれては消えていった。
「彼方に見える山はなんであんなにも平らなんだろう!?」
「大地の動きを探る」を自分で授業しだしてからも何度か顔を出してきた「ふしぎ!?」だ。
 きっと市川河岸段丘形成、六甲傾動運動に関連するような大地の動く物語の結果なんだろうと思い、またいつか確かめてみたいと思いつつ「ふしぎ!?」は保留され今日まできてしまった。
 あまりの水平さにあの寅彦の言葉を発してみたくなった。
「ねぇ君、不思議だと思いませんか?」
▼そんな口癖をもつ寅彦に学ぼうとしたオンライン「寅の日」。
7月、8月は夏休み特集で「自由研究」に関連して寅彦が「研究」について書いた文章を選んで読もうとしていた。
7月分は、あと一回を残すのみになっている。
8月分は、まだであったので私案をあげておく。異論無ければこれでいきたい。
▼8月は2回である。
◆第11回オンライン「寅の日」 8/9(木) 「備忘録より「線香花火」「金平糖」など」
 「線香花火」「金平糖」ともに、大人も子どもも一緒になって楽しめる文章である。「研究」というものについて深く教えてくれる。

◆第12回オンライン「寅の日」8/21(火) 「からすうりの花と蛾」
 カラスウリの花の観察からはじまって、「科学」そのもののあり方についてまで話は及ぶ。8月に読みたい作品である。
▼こうして、寅彦の書いたものを我流では次々と読んでいくと益々寅彦のすごさがわかってくる。
けっして、これは「過去」の文章であると思うものはない。
どれもが、きわめて今日的なのである。
たった今、書かれたものと言われても「さもありなん!」と了解してしまいそうなものばかりである。
今風に言うならば、すぐれた最前線のサイエンスライターなのである。
そして、まぎれもなく日本の元祖サイエンスコミュニケーターは寺田寅彦であると確信するのである。

8月も「元祖」に学ぼう!!

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【Web更新7/15】12-29新・「自由研究」のすすめ試論 更新!

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ヤイトバナや 石垣のぼり 訪ね来ん 12/07/15 (日)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-29
週末定例更新のお知らせ
 オンライン「寅の日」のために一日遅れてのお知らせである。7月も半ば過ぎて、気分は夏休みである。
いくつかの夏休みの「宿題」にかかっている。
あまり欲張りすぎないで、ゆっくり ゆっくり 急ごう!!

◆表紙画像集2012 人里の植物シリーズ ヘクソカズラ(ヤイトバナ)
 先日から、家の周りの草ひきをしている。梅雨のあいまの炎天下は暑い!!
この作業も「植物観察」の一環と考えればなかなか楽しい作業である。けっこう面白いものにであったり植物だけでなく土壌動物たちとも出会って楽しい。
 家の周りと一概に言っても多用である。朝日のあたる東と西日のあたる場所とちがうから面白い。
東の石垣にいつしかできあがったツタなどでつくる草むら、定家葛やヘクソカズラなどもからまっている。
ヘクソカズラが石垣をのぼってきて顔を見せるようになれば、梅雨が明け本格的な盛夏である。

◆「自由研究」のすすめ試論 更新
 まずは、私自身の「自由研究」をすすめながら、また気づいたところを書きあげるようにしたい。

◆【大賀ハス観察日記】 更新
 第10大賀ハスの「あこがれの4日間」が昨日(16日)に終わった。
今のところ観察池には新しい花芽もみられない。だからしばらくは、花托の成長の観察、今年発芽処理をした次世代の大賀ハスの観察レポートとなるだろう。

さあ、また新たな一週間のはじまりである。
 

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本日、第9回オンライン「寅の日」!! #traday

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▼昨日は、第10大賀ハスの開花三日目であった。今のところ次なる花芽がたちあがってきてはいない。したがってこの第10大賀ハスが、今年最後の大賀ハス開花の観察になるかも知れない。
 まだまだ「ふしぎ!?」は残したままであるが、それらは保留をしておこう。それにして何度見てもきれいなものである。花托の部分はまるでそこから光を放っているかのようである。
 暑さの方もどんどん暑くなり、この夏一番の猛暑日となった。
▼なんでこんなに暑いんだ!?
あの強烈な雨はどこへ行ったんだ!?
梅雨明けはまだなのか!?
そんな「大気の物理学」の「ふしぎ!?」を身近な例をあげながらみごとに解き明かした名文がある。
それが、今日第9回オンライン「寅の日」で読む次の文である。

◆「茶わんの湯」(青空文庫より)

▼私のうっすらとした記憶では、この文に最初に出会ったのは国語の教科書であったように思う。
寅彦の名文も数々あるが、そのなかでもお気に入り一編である。

 ここに茶わんが一つあります。中には熱い湯がいっぱいはいっております。ただそれだけではなんのおもしろみもなく不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまの疑問が起こって来るはずです。ただ一ぱいのこの湯でも、自然の現象を観察し研究することの好きな人には、なかなかおもしろい見物(みもの)です。

こんな書き出しからはじめていつのまにやら、大気の物理学の不思議の謎解きをやってみせる。
できるだけ身近な気象現象をとりあげながら。
 それはまるで高名な手品師のワザを次々と見せられているときのような気分になる。
「へぇーそうだったのか」とあらためて目から鱗なのである。
でも、全部種明かしをしてしまうわけではない。ちゃんと最後には読者にふってくるのである。

 次には熱い茶わんの湯の表面を日光にすかして見ると、湯の面に虹(にじ)の色のついた霧のようなものが一皮かぶさっており、それがちょうど亀裂(きれつ)のように縦横に破れて、そこだけが透明に見えます。この不思議な模様が何であるかということは、私の調べたところではまだあまりよくわかっていないらしい。しかしそれも前の温度のむらと何か関係のあることだけは確かでしょう。

と言った具合である。
▼寅彦の文章を読んでいると、例の彼の名セリフ「ねえ君、不思議だと思いませんか?」が聞こえてくる気分になるから不思議だ。
 さらには「これからの理科」での「科学読み物の可能性」も信じたくなってくるのである。
平成の寅彦よ出現せよ!!
科学者を自認する人々よ。自らの「科学」を「科学読み物」というかたちの物語にしてくれ!!

もうひとつある。寅彦の文章を読んでいると「自由研究」のヒントがいっぱいつまっているのだ。
たった一杯の茶わんの湯からでも、これだけの「研究」の可能性が広がっていくのである。
「研究」とはこんなものだ!!
 というのがここにはある。この文章を映像化するだけでも大研究が成立するのだ。

 

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映画『グスコーブドリの伝記』を観た!!(続)

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▼昨日は、大賀ハスの蓮根の植え替えから15週目であった。第9大賀ハスは開花四日目、第10は開花二日目だった。夜半からの雨のためであろうか、第9の花びらと大半の雄しべは落ちてしまっていた。
雨があがってくると第10には虫たちもあつまってきていた。第9の雄しべを例によって回収し数えてみた257本あった。さあはたして子房部はふくらんでくるのだろうか。
▼一昨日観た映画「グスコーブドリの伝説」の続きである。映画館に行く前に高橋金三郎の文を読んでいったことは昨日書いた。
 実はあわせて青空文庫で原作「グスコーブドリの伝説」にも目を通していった。
 そして思った。まちがいなくブドリとは賢治そのものだ!!と
▼またしても、昨年の夏の終わりのイーハトーブへの旅のことと重なってしまっていた。
イーハトーブの世界→「遠野物語」の世界→「3.11」の世界。そして再び賢治の世界へ。
再び賢治の世界に辿り着いたところは
◆石と賢治のミュージアム
 この日のことをこの日記に書いていた。
 そうだ、この場所こそ「グスコーブドリの伝記」を語るのにもっともふさわしい場所なのである。
現に賢治がこの自伝的作品を書き上げたのは、この砕石工場で働いてころなのだろう。
館長さんがていねいに案内してくださった旧砕石工場のなかの夏なお冷たいきもちのよい空気を思いだした。
そして、思いだした。
あの言葉、デクノボーの「科学」!!
それこそが賢治が希求した「科学」であった。
だからこそ、賢治の分身であるブドリはデクノボーの「科学」の実行者であったのだろう。
▼映画では、原作にはないところで、あの「雨ニモマケズ」に挿入していた。
それが映画作品のできとどう関係するのか。成功なのか不成功なのか、映画に不案内な私にはわからない。
確かに言えることは、残されたブドリの手帳にメモ書きのように書かれた詩であることは間違いない。

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

あの花巻の街のひとつの通りからふたつの「科学」が生まれた。
ひとつは賢治のデクノボーの「科学」であり
もうひとつは高橋金三郎のめざした高いレベルの「科学」である。(「すべての子どもに高いレベルの科学をやしく教える」と言うときの高いレベルの「科学」である。)
 まずは一緒に語られることなどはないだろうふたつの「科学」、まったく次元の違う話と人は笑うかもしれない。
しかし、なぜか私にはふたつの「科学」が交叉し、同じように見えることもある。
なんとも映画からかけ離れてしまったようである。
しかし、これが私の文脈のなかで観たということになる。


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映画『グスコーブドリの伝記』を観た!!

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▼第10大賀ハスが開花第一日目であった。第9大賀ハスの開花三日目とかさなって二つの花が開花した状態だった。観察池には、第7~第10までが勢揃いである。ならべて観察するとわかるが、あきらかに第一日目と第三日目とでは色にちがいがある。開花の日にちが進むに従って花びらの色は薄くなっていくようだ。
 第10の開花一日目の目覚まし時計は5時55分にセットされているという私の予想ははずれた。昨日は5時40分には開花していたのである。どう仮説を修正すればいいのだろう?
▼昨日の夕方ずいぶん久しぶりに劇場へ映画を見に出かけた。
前に劇場で見たのがいつなのか、またどんな映画だったのかも思い出せないぐらい久しぶりである。
見たのは
◆宮沢賢治原作映画『グスコープドリの伝記』
である。
 私は、これがロードショー公開になるのを楽しみにしていた。変な言い方であるが、私は「私の文脈」のなかでこの映画を見たかった。
 宮沢賢治と言えばすぐさま思い出すのが、昨年の8月27日、彼の115回目の誕生日の日のことである。私は花巻にいた。
このとき賢治の生誕の地に立つと同時に、高橋金三郎の生家にも辿り着いたのだった。
▼高橋金三郎は賢治について次のように書いた。

 偉大な作家には神話や虚像はつきものである。賢治は偉大な社会思想家、農民の指導者、ヒューマニスト、そして「日本のアンデルセン」といわれるらしいが、私にはひどく「いずい感じ」がする。ほかのだれともくらべられないイワテにしかうまれようのない童話作家だったと思うし、それ以外のものであってほしくない気がする。同一町内には住んでいたが、小商人である私の家と宮沢家には特別の交際もなかった。当時子どもの私は賢治が作家であることは知らなかったし、現在でも童話しかよんだことのない私は賢治について何も知っていないといってよい。同時に花巻町民で宮沢一家をよく知っていないものはないという意味でよく知っている。
(初出 「くさむら」からの宮沢賢治 『国語の教育』1971.3 『学校のしごと・教育のしごと』(高橋金三郎著 評論社)P117より)

 私は、その地に立ってみて、金三郎の言う「いずい感じ」というのがなんとなくわかるような気がした。
ここにも書かれているが、賢治と金三郎とは同郷の「よしみ」なのである。想像していた以上に二人の生家は近くであった。通りひとつ隔てて向かい合っている。まさに目と鼻の先である。
同じイワテの「空気」を吸っていたのだ。
▼映画を見に出かける前に、私はもういちど高橋金三郎のこの文章を読みなおしてみた。
彼は、この文章で

私の「宮沢賢治」はこうなのだといいたいのがもやもやとあるのである。(同上P114)
 
その「もやもや」を語り、賢治を教材としてとりあげることすすめるのだった。
今から41年も前のことである。
私はなぜかこの「もやもや」に共感してしまうのである。
なぜか自分でも不思議なくらいである。
だから、ついつい高橋金三郎が、今この映画を見たらどう言うだろうと考えながら観てしまったのだ。
それが、「私の文脈」で見るということの第一歩だった。

<つづく>

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トンボ撮りの日々!!

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▼昨日の夕方は予想された強雨はのがれたというものの異様な蒸し暑さであった。今年の夏一番の不快な暑さだ。もう薄暗くなりかけてからであったがトンボを追いかけて観察地へ散策にでかけた。
やっぱりハグロトンボが何匹かパオパオと飛んでいた。シオカラトンボもいた。
 思い起こしてみると私は、「昆虫少年」だった記憶がない。ずっと田舎暮らしで、環境的には申し分ない環境にいたはずであるが、昆虫にはまった記憶がない。まわりにいてアタリマエであり、それら標本にしたりする感覚がわからなかった。
▼一眼レフデジカメを手にしてから少し事情がかわってきた。ファインダーを通してみる「昆虫たち」は実に面白かった。新鮮であり、そのファインダーの向こうにある彼・彼女たちの世界に入り込んでいくような錯覚を覚えてしまうのであった。ついつい声をかけてしまっている自分に気づくのだった。
「トンボの身になって トンボを見る!!」であった。
▼いつのまにやら日に何十枚と写真を撮っていた。ときには何百枚ということもめずらしくなくなってきた。
それだけ撮ってもそこはシロウトの悲しさ、数枚でもみれるものが撮れていればラッキーである。
でも、それを見るのも楽しいものである。
 シャッター押しているときには気づかなかったこともいっぱい「発見」するのだった。
「昆虫では目玉にピントあわせるのが鉄則だ」(海野和男著『デジカメ自然観察のすすめ』P140)の教えを忠実に守ろうとするが、初心者にはなかなかハードルの高い鉄則なのだ。
でも、それがまた面白い。
▼徐々に道楽的にトンボと仲良しになりつつある。
片思いに終わるかも知れないがそれもまた楽し!!である。
「昆虫少年」になれなかった私は今、「昆虫老人」を楽しむのである。

「ばっかり病」も複数併発すると忙しい。
第9大賀ハスは開花三日目である。ひょっとしたら第10大賀ハスが…。
まもなくその時間だ!!

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新・「自由研究」のすすめ試論(45)

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▼「早朝5時55分」これが大賀ハスの目覚まし時計にセットされた時間のようだ。
今年になって四つ目の大賀ハスが「あこがれの4日間」をむかえた。第一日目の開花がはじまる時間はきまっているのではと思いだしたのは、途中からであった。第7と第8がほぼ同じ時刻だった。そして、この第9も数分と違わず同じだ。この目覚まし時計はどこにセットされているのだろう?
 去年の4つの花もおなじだったのだろうか?
▼「ふしぎ!?」はどんどんふくらみ面白くなっていく。
そんなとき、研究の方法としてとても大事なことにきづく。今さらのことばかりであるがあげておく。
(1) 「記録」化
 研究にとってはいのちである。データを記録する。
メモを残して置く。デジカメなら自動記録してくれることも多々ある。先の大賀ハスの目覚め時刻についてであれば、デジカメで写真を撮りまくっているはずだから、自動的にその時刻も「記録」されているはずである。

(2) 「仮説」化
 また、研究をすすめるにあたっては、必ずその段階ごとに「仮説」をもってすすめることだ。
観察・実験はあくまでその「仮説」を検証するためにするのである。
どんなに幼稚で拙いものであっても、それはかならず「ふしぎ!?」を深化させることになるはず。
・5時55分にセットされた目覚まし時計
・目覚まし時計はどこに
・個体によってちがいがあるのか
・生物と時計(時間)の問題はどこまでわかっているのか。
▼「ふしぎ!?」を持続的に追いかけていくためには次のようなことも大切。
(3) 可視化
 「ふしぎ!?」を常に目に見える「かたち」にしておく。
自分が見えるだけでなく、他人が見てもわかる「かたち」にしておく。
明日の私は、他人なのだから。

(4) 共有化
 可視化は自然と「共有化」への道をひらいてくれる。
そして、ひとりの「ふしぎ!?」をふくらませ豊かにしてくれる。
これまでバラバラの「ふしぎ!?」をつなぐことになるかも知れない。
▼この「自由研究」のすすめ試論を書き始めてからでももう4年が経った。
この4年間のあいだにも急速度で変化していることがある。
クラウド時代は近未来ではなくもう始まっている。
クラウド時代の「自由研究」のすすめ方をみんなで考えていきたいものだ。

第9大賀ハスもまた雨にたたられたようだ。
開花二日目の今日も暴風雨のなかだ。

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新・「自由研究」のすすめ試論(44)

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▼「アンタなにしてんるんや」
「最近よう見かけるな」
「いあ、はあ、あの写真を撮らせてもらおうと思って…」
「ふーん?なんでや?」
「トンボのこと研究しようと思って…」
「それは、また暇なこと言うとるな」
「見たら年とっとるのに我々トンボのことあんまり知らんのか」
「はあ、よう見かけはしてきたけど、あんまり…」
「失礼なやつやな。ながいつきあいやのにか?」
「はあ、すんません」
「いろいろ教えて欲しいんですけど」
「何をや?」
「そうしてとまってはるとき、なんでハネをひろげてはるのか?」
「ハネのひろげかたになんか意味あるのかとか…」
「まあ、それは追々にな…」
「まあ、今日はじっとしとったるさけ、そのヘタクソな写真撮れや」
そのハグロトンボは10分ちかくそこにとまったままでいてくれた。
「ミミズの身になってミミズをみる」という名言をはいたのは故延原肇先生だった。
 また、それがきわめて有効な自然観察の方法であり、太古以来の我々が引き継いできた活用すべき知恵であると指摘したのは庄司和晃氏だった。(『全面教育学入門』「伝承的知恵と科学」)
 自由研究の「観察」にも、この方法を使おうというのが私の主張だ。
ハグロトンボの身になってハグロトンボをみていたら、「ふしぎ!?」に答えてくれるかも知れない。
▼第九大賀ハスが開花第一日目のようだ。
これも同じだ!
大賀ハスの身になって、大賀ハスみていたらこれまでの「ふしぎ!?」が解けるかも知れない。
試してみよう。
そうだ、もうひとつあったクマムシだ。昨年は、我が家の庭にもちゃんとクマムシがいることが確認できた。
今年の自由研究ではぜひとも顕微鏡での動画を撮りたいものだと思っている。
クマムシの身になってクマムシみつけようとしたら、発見のスピードアップになるかもしれない。
やってみよう!!
▼今年の自由研究の特徴として、情報発信を前提とする自由研究をよびかけたい。
同時に私自身もこころがけたい。
情報発信を前提とすることにより、研究のまとめ方やすすめ方もずいぶん変わってくるのである。
そもそも「研究」は、「ふしぎ!?」を共有するために行うのであるから、アタリマエのこと。

さあ、今朝もあいつのもとに出かけてみよう。
今日は曇り空だ。あいつの機嫌はどうだろ?雨降りの前は忙しいのかな?

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新・「自由研究」のすすめ試論(43)

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▼「スーパッパッー」と開くんだ!!それがここのところずっと追いかけていたハグロトンボのはハネの開き方なんだ。ハグロトンボは他のトンボのように猛スピード飛ばない。蝶の舞うようにとぶんだ。だからゆっくりした観察者である私に向いているのかも知れない。でも、ほんとうの姿を見せてくれるのまでにはだいぶ時間がかかりそうだ。いろんなトンボの「ふしぎ!?」を追いかけたくなって、闇雲に写真を撮りまくっている。よく知っている人にはアタリマエかも知れないが、私には大発見なんだ。ハグロトンボはハネをゆっくりといちどひらきはじめ閉じてまたパッパッ-と開くんだ。何をしているんだろう。仲間へのなにかシグナルをおくっているのだろうか。それとも自らの生理的な営みの一部なんだろうか。「ふしぎ!?」はつづく!!
▼まずはじっくりと時間をかけて「自然」とつきあおう。
そこからはじまるんだ。いきなり自然の「ふしぎ!?」をみつけよ!
それを自由研究のネタにって言われてもこまるんだ。アタリマエだ。
まずは「自然」とゆっくりとつきあうところからはじまるんだ。そのときの「自然」とはけっして特異な時空間を意味しない。自分が暮らしている「自然」だ。
 南方熊楠は、我が家の庭の柿の木から新発見の粘菌をみつけたんだ。
▼センスオブワンダーの先に、自分だけの「ふしぎ!?」が見えてくるんだ。
それが見えてくればそれを追いかければいい。それが自分の「研究」のテーマになるんだ。
それをみつけた後なんだ。他人の「研究」を参考にするのは。
他人の「ふしぎ!?」をいくら研究しても自分の「研究」にはならないんだ。
やりかた、すすめかたはいっぱい参考にしていい。でも「ふしぎ!?」まで借り物では研究の名に価しないんだ。
それが、研究の世界の暗黙の了解!!
▼「へぇーこんな面白いことがあるんだ!これは人に教えてあげなければ…」
それが基本にある。それが「研究」だ。
だから共愉的が基本なんだ。どうプレゼンすればこの面白さは伝わるのだ。
それを最初から念頭においておこう。

誰に向けてともわからぬ文が続く。読者はとりあえずは「未来の私」ということにしておこう。
今日はこれぐらいにしておこう。
また、ハグロトンボを追いかけてカメラもって出かける時間だ。

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【Web更新7/08】12-28新・「自由研究」のすすめ試論 更新!

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山ノ下 雨あがり咲く 牛蒡かな 12/07/08 (日)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-28
週末定例更新のお知らせ
 261日間。小さなナイロン袋のなかでエサもなく生きた小さないのち=コウガイビルが私の生命観を変えた。
幹細胞の渡辺憲二先生は言われた。「それは自分をつくりかえて生きたのだろう。自らのからだをエサに再生を繰り返したのだろう」と。
 そうだ!!生きるとは、自らをエネルギー源にしながら絶え間なく自らを再生し続けることにほかならない。

◆表紙画像集2012 人里の植物シリーズ ヤマゴボウ
 梅雨はまだ続いているのだろう。ちょっと中休みだろうか。
ほ場整備でまわりの風景は一変してしまったかに見えた。しかし、植物たちはいつしかもどってきつつある。
 梅雨のあいまの朝、昔の田の字名だけが残る場所を歩いてみた。土手には、あのヤマゴボウのちいさな愛おしい花が咲いていた。それも群落をつくろうとしていた。
 以前からそうだったのだろうか。今となっては確かめるすべもない。

◆新・「自由研究」のすすめ試論 
 大人と子どもの「自由研究」を別々に考えて、それらをつなごうと思っていた。
でも、それはちがうと思いだした。大人の「自由研究」も、子どものそれも本質的には同じなのでないか。
等身大の「ふしぎ!?」を追うのである。
今年は、「自由研究」の発表(プレゼン)のあり方に注目してみたい。

◆大賀ハス観察日記 更新
 私にとっての第9、第10の大賀ハスが花開いてくるだろう。
今年発芽処理したばかりの3つも順調に育ってきている。来年の夏には花開くやもしれぬ。

◆オンライン「寅の日」更新! 
 寅彦の「研究」のお手並み拝見をしている。
今度は第9回オンライン「寅の日」 7/16(月)である。
読むのは、あの有名な「茶わんの湯」である。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新
今、なぜ「日本理科教育史」なのか。
考えつづけておきたい。

さあ、一週間がはじまる!!
ゆっくりと「再生」を繰り返すのみ!!
 

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新・「自由研究」のすすめ試論(42)

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▼木星・金星・大賀ハスがみごとに一直線上にならんだ。それを月明かりが照らす。
なんとみごとな光景だ!!
今朝、東の空にそれをみながら、ふっとあの言葉を思いだした。
「道楽的…」
それは、2012年の私の第一の抱負でありキーワードであった。
2012年の折り返し点を過ぎて一週間以上がたとうとしていた。
▼昨日は、第八大賀ハスの開花四日目であり、大賀ハス蓮根植え替え14週目であった。
一昨日夜半からの激しい雷雨、暴風雨は、開花四日目の花のすべてをたたき落としていた。たたき落とされた花びらは池から少しはなられたところに飛んでいたものもあった。
すべてを回収して黒画用紙のうえに並べてみて撮影をした。花びら自体も過去最高の大きさである。
雄しべの回収は少し苦労した。可能なかぎり一本たりとも未回収がないようにしたかった。
これも例によって10づつならべて、黒画用紙に貼りつけた。なんと最終的に271本の雄しべを確認した。
「なんのために」と問われれば、答えに窮する。
これぞ、道楽的!!
▼一昨日の夕方、きわめて唐突であったが、かねてよりずっと会ってみたいと思いつづけてきた人に会いに行った。そのひとの名は、「むらの鍛冶屋」さんだ。
ずいぶん以前からいろいろ教えてもらっている。鉄のプロフェッショナルだ!!
それだけではない、この人こそ尊敬すべき道楽の人であった。
その究極の道楽ぶりは、「鉄のふしぎ博物館」を見せてもらえばわかる。
 展示物をいろいろ触らせてもらいながら話を聞かせてもらった。究極の道楽ぶりは想像以上であった。
一度ではとてもではないが堪能できない。今から何度も訪ねてみて少しずつ楽しませてもらおう。
「鉄のふしぎ博物館」開館3周年記念イベント(8/3(金)~8/5(日))の計画もあるようだ、ぜひ…。
 と書きながら、たった今、Webページをみせてもらいながら、とんでもない大発見をしてしまった。
それは、関連リンク集のいのいちばんに萩谷さんの「砂つぶの地球科学」「石からわかる地球の話」があがっているのだ。今の今までまったく気づかなかった。なんというツナガリ!!感動である!!
 こんど「むらの鍛冶屋」さんにあったら、ここから話をはじめよう。
▼昨夜は「ホタルウォーク」に行ってヒメボタルの点滅する光を堪能させてもらった。
なんと自然とは面白いものなんだ。
自然科学の「自由研究」のテーマなんてそこらじゅうにゴロゴロころがっている。
自然は「ふしぎ!?」に満ちているのだ。

さあ、今日も私は、私の「自由研究」をさらに「道楽的」を意識しながらすすめていこう!!

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今なぜ「日本理科教育史」なのか?

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▼激しい雷雨であった!!昨日開花三日目を雨に耐えて二枚の花びらが落ちただけだった第八大賀ハスもこの昨夜の雷雨にはかなわなかっただろう。「あこがれの4日間」をコントロールする時計は物理的にこわされてしまっただろう。
▼「ヒッグス粒子」発見のニュースが、いろんなところで取りあげられている。ポンコツ頭では一度や二度、ニュースの記事を読んだぐらいではそれがどれほどの大発見であるのかわからない。
寧ろこの大発見でアタリマエと思っている「質量」のことがわかってくるなんて、そのことに驚いてしまうのだ。
これは世紀の大発見として二十一世紀の科学史にまちがいなく記録されることだろう。
子どもたちはこの大発見をどう受け取っただろう。
そんなこと考えていたら、自分が子どものころの科学技術史が気になり出した。
●1964(昭和39) 10.1 東海道新幹線スタート。10.10 第18回オリンピック東京大会。
●1965(昭和40) 10.21 朝永振一郎ノーベル物理学賞受賞
●1969(昭和44) 7.21 人類初の月面着陸、アポロ11号。
▼つまりそれは、1960年代のことである。
私は、私自身の自由研究とあわせて課題研究の宿題も自分に課していた。
・現代と「これから」につながる日本理科教育史に学ぶ
「これから」の理科教育を語ろうとすると、どうしてもその地続きの「日本理科教育史」が知りたい。
それも遠くの話でなく、もっともっと身近なかたちで知りたい学びたい。
70年代以降なら自分が見聞きしてきたものをつなぎ合わせればいくらか見えてくるだろう。
それ以前について文献資料にたよらざるを得ない。
できればそのころの理科教師の生の声を聞きたい。そして、そのころの理科教師の願いや思い・実践から大いに学びたい。
▼その願いがこの夏実現する。
8/1ファラデーラボ 夏の学び舎 -科学教育研究の歴史を学ぶ-
【理科の部屋】でいつもお世話になっている中村敏弘さんに、「ファラデーゼミ」の取り組みとあわせて1960年代の「日本の理科教育」について語っていただく、夢のような企画が実現する。
それまでに
私のなかでも「今なぜ「日本理科教育史」なのか?」をまとめておきたい。

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新・「自由研究」のすすめ試論(41)

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▼第8大賀ハス開花二日目であった。何度見ても開花していくハスを見ているとほんと感動してしまうのである。この第8については、ずっと観察を続けているわけにはいかない、限られた時間しか観察できない。朝の7時過ぎまでと午後に帰宅してからだけである。この花がとりわけ豪華に見えるのは、花托の上の雌しべが20もあるせいかもしれない。あの独特の香りも強いように感じた。この後の観察ができなかったのがとても残念である。
雨が降るまでに虫たちはやってきたのだろうか…。
▼自分の自由研究を進めながら、試論の方もすすめる。
同じようなことを繰り返すが、いちばん言いたいことだから。
●理科の自由研究が、「科学」をすべての人が楽しむきっかけに
●「科学」をすべての家庭に、「自由研究」はそのチャンス!!
今こそ、「科学」がすべての人のためのものであることを認識しよう。
▼デジカメやネット等は「自由研究」を共愉的に楽しむのにすぐれた道具であり、環境である。しかし、それはあくまで可能性であり、意欲的意識的にそれらを活用していかなければ、寧ろ安易な方向に逆行する可能性すらある。
▼「科学リテラシー」なんて待っていても与えられることはない。
自ら学びとっていくものだ。それも楽しみながらでなければ身につくわけがない。
「自由研究」で一生道具を手に入れよう。
茶の間で、音楽や映画を語り合うように、「科学」を話題にしよう!!

今日は近くで開花三日目の開閉を観察できる。
何を見るだろう。「ふしぎ!?」が楽しませてくれるかな。

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新・「自由研究」のすすめ試論(40)

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▼昨日早朝5時54分18秒デジタルカメラの時計がその時間を記録していた。第8大賀ハスが開花したのである。今年になって三度目の開花第一日目である。驚きである!!第7大賀ハスの第一日目の開花時間と数分とちがわず同じなのである。大賀ハスは間違いなくかなり正確な「目覚まし時計」を持っているのである。
「あこがれの4日間」を測る時計をもっているのではと思っていたが、どうやらまちがいなさそうである。
今年の大賀ハス研究では、そのあたりもう少し研究してみたいな。
観察池には、このあと第9、第10の開花予定の大賀ハスの花芽がある。
▼もうすでに私の「自由研究」ははじまっているようだ。それをすすめながら、試論もさらに展開してみようと思う。
まずいちぱんは研究テーマの決定である。
テーマ選びは、できだけ「身近な」なものから選びたい。
では、その「身近な」とはどんな意味があるのだろう。
私は、はじめに私の「ふしぎ!?」を聞いていた。
その私の「ふしぎ!?」、等身大の不思議にこだわって欲しい。いやこだわりたい!!これは大人も子どもも同じである。
 一度は、「自由研究」と言えば…、とすぐに頭に浮かぶ固定概念はちょっと置いておこう。
それよりも、まずふだんの生活のなかで「ふしぎ!?」だと思っていることのリストをつくってみよう。
そして「ふしぎ!?」マップをつくってみよう。
▼「身近な」とはそんな意味なんだ。他人の「ふしぎ!?」ではない、エライ科学者の「ふしぎ!?」ではない。
私の「ふしぎ!?」なんだ。
 ここでも寅彦はいっぱいヒントをくれている。
寅彦の研究がある。
「尺八の音響学」「藤の実が飛び散るメカニズム」「金平糖の角」「線香花火」「椿の花の落下」等々である。
小さな身近な「ふしぎ!?」から出発して、目から鱗の「科学」研究に仕上げてしまう。
それはみごととしか言いようのないワザである。
 7月のオンライン「寅の日」も少しそれを意識して読むことにする。
▼この「自由研究」の話題が家庭で、「科学」を語り合うきっかけになるといいな。
家族の「ふしぎ!?」を出し合って話し合うなんて楽しいではないか。
なにも、それは「やっつけ仕事」の宿題のためだけでなく、家族の「科学」を楽しむ機会になるといいな。
ぜひぜひのお薦めは大人の自由研究だ。!!
 自分が子どものころにやった自由研究の続きを今やるというのも面白いではないか。
仕事で忙しければ、その仕事がらみのことでテーマを選べばいいではないか。
ひょっとしたら、それが会話のきっかけになるかも知れない。
大人もはじめれば、大人、子どもの「自由研究」の連携・連動もはじまるのである。
日程をきめて家族で中間報告会なんていいかも知れない。

年寄りの繰り言になるがまたつづける。
開花二日目の大賀ハスがまたひらきはじめているようだ。

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本日、第8回オンライン「寅の日」!! #traday

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▼昨日の夕方、一日遅れることになってしまったが、第7大賀ハスの花の観察のあとの処理をした。とは言ってもシロウトの私がやることだ。ほんとうの科学者からすれば拙いママゴトのようなことだ。昨年度からやっていることだ。まずは花びらを黒い紙のうえで勢揃いさせる、写真を撮る。そしてパックに入れて冷蔵庫の冷凍室へ。(退去命令が出ている(^_^;))
 次に雄しべだ、これはあの「タンポポの研究」の舌状花の数を数える方法にヒントを得て、10ずつならべてセロテープで貼りつけていく。なんとも単純で地味な方法だ。「多くの雄しべ…」ですませるのでない、作業つづけるなかで大賀ハスの生命を繋ぐ執念のようなものを感じ取っていく。今回は193の雄しべがあった。
▼こんな作業をしていると寅彦の次のような言葉が妙にうれしくなるのである。

 しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事(さはんじ)の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須(ひっす)なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者(いなかもの)であり朴念仁(ぼくねんじん)なければならない。

 いつも無手勝流で、何に関しても興味はあるがものわかり悪いシロウトの私のような人間には、これが力強いエールに聞こえてくるである。
 こんな「科学者はあたまが悪くなければならない」というパラドキシカルな提言は、「科学者とあたま」のなかにある。これが、第8回オンライン「寅の日」で読む寅彦の文章である。
▼私は以前からこの文章がとても好きだ。
いつも「あたまの悪さ」で苦しんでいる私などには、自分にかわって「頭の良い人に」言い返してくれたよう痛快な気分になるのである。たとえばこんな調子だ。

 頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。これでは自然科学は自然の科学でなくなる。一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するというだいじな仕事を忘れる恐れがある。
 

それだけではない。寅彦はいつも、ではどうするかを示唆してくれていた。

自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉とびらを開いて見せるからである。

さらにこう言いきる。

 科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である

▼しかし、さすが寅彦である。そうそう一方的な指摘だけには終わらせない、そこがホンモノの科学者たる所以であろう。

しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
 つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。

最後の文章はさらに示唆的である。
 この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑えみをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。

80年前の寅彦の「挑発」を、21世紀の「科学者」を自認する人たちはどう受け取るのだろう。
あなたはどう読むのだろう。
私はどう読むのだろう。
今日、オンライン「寅の日」もう一度読んでみよう。
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大賀ハス開花4日目、散ってしまった!! #oogahasu

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▼私の大賀ハス観察池(そんなりっぱなものではないただのプラスチック桶)において第七番目に開花した大賀ハスは開花4日目をむかえていた。開花二日目三日目と雨にたたられさんざんであった。しかし開花4日目は天気も回復し、晴れた。形は少しくずれながらであったがりっぱに咲いた。
やがて花托もみえてきた。ほんとうにこれで今日散ってしまうのだろうかと疑うほどであった。
▼異変(それでこそアタリマエなのだが)が起きたのは10時20分ごろであった。花びらより先に雄しべが落ち始めた。しかし、ちょっと風が吹けばどさっと落ちるような状態でねばりにねばった。
そしてついにその時は来た。11時30分であった。花びらすべてと雄しべのほとんどがドサッと落ちた。花は散ったのである。「あこがれの4日間」は終わったのである。
「4日間」というルールはきっちりと守られた。それにしても「ふしぎ!?」だ。そのルールの記憶はこの大賀ハスのどこに埋め込まれているのだろう。
▼雄しべの残留組と花托がたっていた。花托をよくみると雌しべの先は黒ずんでいるように見える。はたして、これで受粉し受精したのだろうか。あの雨の中であったし、見る範囲ではそんな虫もやってこなかったし…。
 私がこれまで採取した種子で発芽処理をして発芽しなかったものは0である。すべてが発芽している、今年の三つはどんどん成長している。はたしてこの第7大賀ハスからも種子を手に入れることはできるのだろうか。
▼私は、私自身の夏の自由研究の最初のテーマにこの「大賀ハスの研究」をあげた。
もう次の第8もふくらみ、第9、第10の花芽ものびてきている。
私の仮説はただしいのか。
それだけでない。
観察をつづけておればづけるほど次々と「ふしぎ!?」が生まれてくる。

ゆっくり ゆっくり急ごう!!
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【Web更新7/01】12-27【大賀ハス観察日記】更新!

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うらめしの 雨はげしけり 大賀ハス 12/06/30 (土)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-27
週末定例更新のお知らせ。
 今回の週末は大賀ハス三昧であった。今日は「あこがれの4日間」の4日目である。過ぎてしまえばあっけないものである。この4日間を人間の人生にたとえて「少年」「青年」「壮年」「老年」と言っていた人がいたがなるほどと思う。それぞれのステージによって姿かたちを変えるのである。
 今日は「老年」、老年のめざめは早かった。明けの明星とともにさきほどから目を覚ましていた。

◆表紙画像集2012 更新 人里の植物シリーズ 大賀ハス
 これまであまり表紙に使って来なかった大賀ハスであるが、今回は使わせてもらう。
大賀ハスの専門家阪本さんに言わせると、むしろ曇りや雨の方が姿形はいいそうだが、シロウトの私には雨はうらめしいばかりであった。今年のはじめの開花は警報のだされるなかの開花であったし今回もそうだ。
 でも考えてみるとこの時期の開花が盛りとなるとなにか大賀ハスは防水対策を立てているのかな。

◆【大賀ハス観察日記】更新
 観察のあいまあいまにこれまでの私の「大賀ハス物語」に目を通してみた。
我田引水だが、けっこう面白いと思った。

◆オンライン「寅の日」 更新
 大賀ハスに夢中になっているあいだに6月が終わり7月になってしまった。
ルクレチウスがまだ理解できたわけではないが、また何度もここにもどることにしてオンライン「寅の日」としては次へ行く。
 7月は三回 7/4(水)、7/16(月)、7/28(土)である。オフライン「寅の日」も含めてどんなあらたな展開があるだろう。楽しみである。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新
サイエンスコミュニケーターとして2年目の夏休みの計画のアウトラインだけはできた。
後はできることから繰り返していこうと思う。


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大賀ハス開花2日目は雨だった!! #oogahasu

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▼大賀ハス開花2日目の昨日は、今期蓮根の植え替えから13週目であった。つまり91日が経過したということだ。100日も経たないあいだにこんな姿になるとは、やっぱり植物とは「ふしぎ!?」なものだ。
早朝より観察をつづけていた。早朝には金星も見えたと喜んでいたのに雲行きが怪しくなり9時11分に雨は降りだしてきた。途中に少し小降りになったものの断続的に雨は降り続けた。
 雨の日だからこその観察もありかと、気お取り直しながら終日観察三昧を楽しんだ。
▼興味の第一は雨の日の開閉運動である。
 雨が降るまでにほぼ全開状態になっていたので開くときの観察はできた。螺旋的開閉運動説はほぼ正しいのではないかという気がしてきた。最後の一枚が鍵をにぎると思っている。それは、少し他の花びらと形もちがっている。ちょうど花托にフタするようになっているそいつが開くこと全開を意味する。まるで一番大事な部分を保護しているようだ。閉じるときは、この逆でこいつが閉じ始めて順次閉じていくのである。
 ところ雨のため異変が起こった。それは開いた花びらに雨がたまり閉じようとするがその重みで閉じることができないのだ。それでなおいっそうよくわかったことがある。順番を越えて閉じることはなかった。
 時間はかかったが閉じるときの力もたいしたものだ。たまった水を杓で汲み出すような要領で外にだし傾きを変えていった。でも別の異変もあり最後まで元通りとじるということはなかった。
▼雨は、どのように寄ってくる虫たちに影響するのだろう。
雨ではあの「におい」は伝わらないのか。鼻を近づけてみると近くではあの独特に「におい」はかすかにする。
8時45分、まだ雨が降りはじめる前だった。一匹の甲虫(名前は知らない)が飛んできて雄しべの森にもぐり込んだ。こいつがこの後の異変の原因にもなるのだが。
 ほぼ同時にクマバチが低空飛行をしてきた。だが、その後遠くへ飛び去り二度と帰ってくることはなかった。
寄ってきた虫はそれだけである。
 先の甲虫であるが、雄しべの森のなかをゴソゴソ動き続けていた。そして雄しべの根元に目的物があるのか
そこに到達するためか雄しべをひとつひとつなぎ倒してしまったのだ。おかげで雄しべは花托から離れてしまった。
なぎ倒された雄しべは、降ってくる雨手伝って花びら閉じるのを邪魔をするつっかえ棒になってしまったのだ。
▼さらに雨でたいへんなことが起こった。それは雄しべ花粉が流出しはじめたのだ。
花びらの杓のなかに黄色ものがたまりはじめた。最初なになのか気づかなかった、どの花びらのなかにもたまってきた。そして、やっと気づいた。これが貴重な花粉であることに。
なんということだ!!一時は絶望的な気分になった。
 「待てよ、これほんとうに花粉なんだろうか」
「そう言えば、この大賀ハスの花粉が見たことないな」
「よし、これを顕微鏡で見てやろう!」
スポイドで吸い取って顕微鏡で観察してみた。最初100倍で見た。
なんだかパクパクマンが大きな半透明のボールを加えたような格好している。いや、あのお菓子の「ウグイボール」のようなと言った方がいいかもしれない。でも、これがほんとうに花粉なのか、今の私にはわからない。
ともかくこれがいっぱいあるのだ。よく見ていたいたら加えているボール離れてしまったようなものもある。
なにか容器がこわれて外に出てしまったようにも感ずる。
それってどういうこと?
▼まだいろいろあった。ともかく考えるのは後回しにして写真を撮りまくっていた。
夕方になっても「つっかえ棒」のせいもあってか何枚かの花びらは閉じなかった。甲虫(?)はついには住み処のようにして居座ってしまった。
 とんだ雨の日の観察になったが、それもよし!
雨でなければ見れないものを見たのかも知れないと自分に言い聞かせ第2日目の観察を終えた。
そうそううれしいことがあった!!第十の大賀ハスの花芽がたったのだ。

開花三日目の観察もはじめている。やっぱり雨だ!!
今日は何を見ることになるのかな。

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