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「俳句」という科学の方法について

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▼旅から帰った翌日の朝、いつもの散策コースを歩いてみた。いちばん驚いたのはスギナ林だった。それは林を通り越してジャングルのようになっていた。私のスギナ(つくし)の胞子を育てるという挑戦は今のところ芳しい結果でていない。それに比して自然の方はどうだ、みごとに仲間をふやしていくではないか。目を見はる成長を続けるではないか。自然のからくりをもっともっと知りたいと願うのは必然である。
▼角川の『俳句歳時記』(第三版)の序は次のようにはじまっている。

「歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である」と詩人寺田寅彦は言った。

さすが寅彦である。みごとな定義づけである。ここでは科学者・寺田寅彦ではなく「詩人」寺田寅彦なんである。
あまりみごとな言い切りであり、定義づけなものなので、その出典が知りたくなった。
どんな文脈のなかで語られたものか知りたくなったのである。キーワードをいろいろ変えて検索をかけてみるがなかなかわからない。その趣旨に近い文章があった。
◆俳句の精神(青空文庫より)
である。
▼第二回オンライン「寅の日」の「日本人の自然観」と関連して、たいへん興味深い寅彦の俳句観である。
日本人は西洋人のように自然と人間とを別々に切り離して対立させるという言わば物質科学的の態度をとる代わりに、人間と自然とをいっしょにしてそれを一つの全機的な有機体と見ようとする傾向を多分にもっているように見える。少し言葉を変えて言ってみれば、西洋人は自然というものを道具か品物かのように心えているのに対して、日本人は自然を自分に親しい兄弟かあるいはむしろ自分のからだの一部のように思っているとも言われる。また別の言い方をすれば西洋人は自然を征服しようとしているが、従来の日本人は自然に同化し、順応しようとして来たとも言われなくはない。

と言い、つづけてここまで言う。
この自然観の相違が一方では科学を発達させ、他方では俳句というきわめて特異な詩を発達させたとも言われなくはない。

ここまで言われると、自ずと「俳句」に興味がわいてくる。
 これまで私はWebページ更新するたびに、表紙の画像貼り替えそこに「俳句もどき」のようなものを貼りつけてきた。その「もどき」を考えながら思った、これはなかなか面白い「科学の方法」であると。
▼とは言っても、これまでに「俳句」に関してなにも勉強したことがない。いつものように無手勝流である。
いちど初歩の初歩を勉強してみたくなった。
そこでNHK学園通信講座「はじめての俳句」を申し込んでみた。先日そのテキストが着いた。
「60の手習い」である。どこで投げ出すかわからないがちょっとやってみよう。

「私の科学」の方法にはいくつもの方法があっていいような気がする。
・「実験」という方法
・「観察」という方法
・「写真を撮る」という方法
・「育てる」という方法
・「食べる」という方法
などなど

そんな方法のひとつに「俳句」があってもいいかも知れない。と言えるようになりたいな、いつの日か。

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コメント

先生の考え方に大賛成です。俳句を授業の中に取り入れたりはなさらないのですか?

投稿: 小山正見 | 2012/04/27 18:10

小山正見さん
賛成ありがとうございます。
初心者が無謀にも俳句結社「寅の日」の会をたちあげようと思います。また、いろいろ教えていただければうれしいです。
今のところ理科の授業のなかで直接あつかうことは考えていませんが、その考え方なりは取り入れていきたいと思っています。
 言われてみて気づきましたが、野外観察のときなんか「吟行」よろしくやってみるのも面白いかも知れませんね。

投稿: 楠田 純一 | 2012/04/27 19:04

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