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新・私の教材試論(69)

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▼またしても持病の「ばっかり病」が発症しそうだ。ときどき自分でも自覚症状のないまま気付いたらそれ「ばっかり」が気になってしかたないという病だ。これまでもこの病のおかげでずいぶん私にとっての「新発見」もさせてもらってきたのでまずいことばかりではないのだが、時間感覚とものごとの優先順序が攪乱されることは確かである。
では今発症しつつある病は「コケ・シダばっかり病」だ。
 世間が桜の花を愛でている最中だが、へそ曲がりにもその花よりも、シダやコケの今の方がきになってしかたいのだ。気になるだけではないなんとも美しくきれいに見えるのだ。
▼すぐれた教材の法則「3K(感動・簡単・きれい)1A(安全)の法則や「3H(ホット・本質的・ホンモノ)の法則をこちらの方がより満足しているように見えてくるのは発症している証拠なのかもしれない。
 新しい教科書を見た、この教科書より本格的に「コケ・シダ」が中学校教科書にもどってきていた。アタリマエだ、こんなものはずしておいて「植物の世界」を学ぼうというのがとんでもない話なのだ。
 他にもいくつもの「帰ってきた教材」が新しい教科書にはあった。
▼今早急にやりたい課題ができてきた。
それは「帰ってきた教材」をふくめて、すべての教材の一覧できるものをつくること。
そして、その教材を軸にして授業を構想しなおすことだ。
けっきょくは以前の授業に落ち着くのかも知れない。しかし、いったんはリセットする必要がある。
教科書があたらしくなっただけでない、私たちは「3.11」を経験した、いやしつつあるのだから。
以前と同じであっていいはずがない。
▼どうしてもやりたいことがある。
それは、教材の歴史を知ることだ。定番実験・観察にかぎらずすべての教材の歴史を知りたい。
すべての教材(実験・観察)には歴史がある。
 その歴史を知ること、ルーツを追うことは、その教材に込められた126年の理科教師たちの熱い思いや志にふれることになるのだ。
 それこそが「教材研究」の名に価する作業なのである。また「教材開発」への唯一の道なのである。

教材開発の大先達大竹三郎先生は授業で「教材を仕上げる」と宣言し、次のようなことばを残している。

わたしは、現在、学校で実施されている多くの実験が、なお教材として仕上げられていないと考えます。これらの実験が授業の課題にピタリ答えられるように、その内容、形式ともに仕上げられなくてはなりません。ところが、わたしたちは、もうこれ以上、変えようとしても変えられないものと受けとめています。とくに長い歴史をもった伝統的な実験に対してそうです。(『理科実験法の再検討~教材論的研究~』(大竹三郎著 明治図書 1980.10.5) P119より)

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