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サイエンスコミュニケーター宣言(144)

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▼昨日の朝、でかける前にどうしてもあの「霜柱の模様」の「ふしぎ!?」が気になったもので、その現場に行ってみた。やっぱり判断は微妙である。模様ができつつあると見るのは、思い込みがすぎるのだろうか。
長期に渡っての継続観察ともう少し実験的なはたらきかけが必要なようだ。決着は来年まわしだろうか。
今日で2月も終わりである。
▼日本の理科教師126年の歩みからを続ける。
(2) 実践記録を綴るという作風。
のつづきである。
授業の記録がいろんなかたちで残っている。まとまった「授業実践記録」として雑誌に記載されたり、書籍になったものはもちろんであるが、それ以外にもメモ書き、覚え書き程度のものを含めて多く残っている。
そのはずである。それは私たちの大きな財産である。
 とりわけ「失敗」の記録などというものは貴重である。同じようなことを発想し、おなじような失敗を繰り返しているのである。これはまたまた繰り返しになるが、私たちの実践データベースづくりは重要である。
これまでの取り組みでつくりあげてきた実践を記録するという作風は、これからますます重要な意味をもってくるのである。その貴重な記録も今までであれば、多くの人に知られることなく消えてしまっていたものも、これからであれば工夫しだいで生きてくる可能性がでてくるのである。
▼三つ目にはやはり
(3) 実験・観察の工夫、アイデア
 126年の歩みのなかで、日本の理科教師が開発した教材(実験・観察)の数はおびただしいものがあるだろう。
まとまった画期的実験などというものばかりでなく、ちょっとした実験の工夫・アイデアなどというものを含めると膨大なものとなるだろう。それは大きな財産である。これらを生かす道はないものだろうか。
▼このことは、別に展開している「教材試論」と関係するが、教材を授業で「仕上げる」ことを提言する故大竹三郎先生の言葉を思い出すのである。

やはり、自分の中に、それだけの必然性がなくてはなりません。そうした必然性は、果実の熟するのに似ていて、ある期間の熟成を待たないと、具体的に現れてこないようです。それもなにかのきっかけが必要です。わたしの場合実験改善の必然性も、新しい実験の発見も、そのきっかけは、授業における子どもの発言です。また、授業をした先生のつまずきです。(『理科実験法の再検討~教材論的研究~』(大竹三郎著 明治図書 1980.10.5) P120より)

教材をめぐってのこのかまえ、姿勢はぜひともこれからも引き継ぎたいものである。
 
 


 
 

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サイエンスコミュニケーター宣言(143)

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▼実はあの「霜柱の模様」の「ふしぎ!?」は、今年はあきらめようかと思っていたのだ。いっきょに春めいてきてしまったから来年までおあずけかと思っていた。ところが昨日の朝はちがっていた、再び冷え込んでいたのである。あわててカメラを持って現場に行ってみた。確かに霜柱はできていた、模様は微妙である。かなり欲目にみると例の模様ができはじめているともいえるかも知れない。模様に関してのいくつもの「仮説」を立ててみた。
 家に帰るとなおさらはげしく白いものが舞ってきた。ネックウオーマーで受けて写真におさめてみた。それにしても「雪は天からの手紙」とはうまく言ったものだ!この手紙には何が書かれているのだろう?
▼「日本理科教育史」の最終章だ。
「これからの理科」を語っていこう。
 日本に「理科」教育がはじまって126年!この126年の歩みのあいだに日本の理科教師たちは何を生み出し、何を遺してきたのだろう。どのようなことを「作風」としてきたのだろう。
「これからの理科」に有効なものは何だろう。
 浅学無知な私は、外国の科学教育についてはくわしくどころかほとんど知らない。
だから、今から述べる日本の理科教育の特徴だと思っていることは、私がそう思い込んでいるにすぎないことなのかも知れない。
▼ひとつめは
(1) 『自然は最高の教科書!』とする自然観・自然科学教育観
である。
 「自然のことは自然そのものに学べ」「自然のことは自然に訊け」とする発想は、表層では見え隠れするが、脈々と引き継がれてきている。
 典型は、あの
●1941年(昭和16) 「国民学校令」「国民学校令施行規則 低学年理科「自然の観察」新設
である。
 この「自然の観察」は教科書はないのである。指導書だけである。
「自然は最高の教科書」なのに紙の教科書で間に合わせることになってはまずいという判断である。
デジタル教科書が本格的に検討される時代になっている。
だからこそ、今一度 この日本の理科教師の作風を。
▼ふたつめは、
(2) 実践記録を綴るという作風。
 日本には「生活綴り方教育」の伝統がある。戦後においても、それは大いに有効であった。
見たこと、体験したことを「ありのまま」に綴り生活を見つめ直す。
見たことありのままに書くには、そのとき自然と「概念くだき」がおきる。
それは自然科学教育の基本的概念形成とかかわって、これからも有効かも知れない。
ここで言おうとしているのは、その子どもたちの方ではなくて教師側のことである。
教師の書く、綴る実践記録のことである。

もう少し詳しくは明日つづける。

<つづく>

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【Web更新2/26】12-09 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

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咲き継ぐや 誕生の梅 人知れず
 12/02/26 (日)撮影@福崎


■楠田 純一の【理科の部屋】12-09
週末定例更新のお知らせ
 2月最後の週をむかえた。2月はほんとうに「逃げる」ように行ってしまった。今年になって9回目の週末定例更新のお知らせだ。2月から3月へ橋渡しの週を俯瞰してみる。
 淡々と粛々と自分にできることを繰り返すのみである。誰でもできること誰もできないほど繰り返し続けるのみそれが私流ということだろう。

◆表紙画像2012 人里の植物シリーズ 紅梅
 樹木はいいな。もうその存在自体に歴史を持っている。いくつもの「物語」を内包しつつそこに立つ。ときには何百年何千年の歴史を持つものまである。そんな樹木はどれほどの「物語」を知っているのだろう。
とっておきのひとつを聞かせてもらいたいものだ。
 私は、その木のことを恥ずかしながら昨日の朝まで気にしていなかった。その老木は東の畑の北縁の隅に立っている。だからそこへ意識的に出かけて行かなければ見えない位置である。
 私の誕生を記念して親が植えてくれた梅の木だ。だから61年は経過したという老木である。
その紅梅に花が咲き出した。
 ほんとうに毎年こうして咲いていたのだろうか。記憶にないというのがなんとも申し訳ないという気分になる。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新
 ここのところ、こればかりを書いているような気がする。
「日本理科教育史」も最終章、「これからの理科」に入った。3.11までにはひとつの区切をつけたいものだ。

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サイエンスコミュニケーター宣言(142)

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▼特別のあたたかい日射しがあるわけではない。かろうじて雨粒が落ちてこないぐらいの天気だ。
でもなにかが変化してきている。いや、ちがう何かもが変化してきている。
 空の色、風のにおい、光の明るさ…すべてが徐々に春がやってきていた。それは、蓮根の植え替えから45週目をむかえる大賀ハス観察池の水面においても同じであった。
▼変化というものは、季節の変化だけでなく螺旋的に変化することが多い。「日本理科教育史」という歴史も螺旋的な変化を繰り返して今日に至った。
 「これからの理科」について5つのことを語りはじめた。
蛇足を危惧しながらもつづけておこう。どうしても語りやすいところからはじめる。

(4) クラウド時代にふさわしい教材整理(教材研究)をしていこう。

(5) 授業は教育実践の最前線であることを自覚し、授業研究のすすめ方を再検討しよう。

のふたつからはじめる。
▼もう何年になるだろう。森山和道さんのこの文章にふれてから。
◆森山和道『ネットワークと教育』
 まえがきに95年の夏に書き、公開したのは96年3月といわれているから、それから16年の年月が経過していることになる。今読みかえしてもまったく色褪せることのない核心をついた提言がいろいろある。
 こんなネット環境の変化がめまぐるしい時代にあって16年前は「大昔」のはずなのだが、驚くばかりである。
いくつもある「提言」のなかで、ここがいちばん気に入ってずっとずっとWebページの表紙からリンクさせてもらっている。いつでもそこを読み返すことができるように。

そういう風に考えていくと、別に教育現場にコンピュータ・ネットワークなんか必要ないんじゃないか──そんな風に思えてくるかもしれない。しかし、それは違う。各人が全く違う目的で蓄積したデータベースや、全く違う目的のために造られたネットワークがシームレスに繋がっていくのが「ネットワーク時代」である。全く違う知識・思考方を、全世界規模で共有することができるのだ。

例えば、それぞれの教師が自分の授業ノート・データベースを構築し、公開する。それは巨大な授業のデータベースとなるだろう。それだけで、全く違う授業が生まれるかもしれない。(森山和道『ネットワークと教育』より)


▼なんと示唆的であることか!!
私は「これからの理科」を考えて行くうえでもきわめて有効な提言であると思っている。
森山さんがこう言ってから16年が経った。
ネットワーク環境は大きく変化した。森山さんが提言したことが比較的簡単に具現化できるように変化してきたのではないだろうか。
 誰もが比較的簡単にWebページ・blogをつくり情報発信をすることができるようになり、各種のMLが存在し自分で選択して参加することもできるようになってきている。
 さらには多様なソーシャルメディア(Twitter、Facebook、mixi等など)が、多様な可能性を与えてくれている。
これらを活用しない手はないだろう。

ひょっとしたら、すでにこの取り組みはいろんなところではじまっているのかも知れない。
いやちがう!
 理科教師126年の歩みのなかで確実にはじまっていたのだ!!

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サイエンスコミュニケーター宣言(141)

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▼その空はなんと言えばいいのだろう?曇っているのではない、だって雲はないのだから。しかし、なにかが違う。そんな目にははっきりと見えないが大気のなかに何かが存在するのである。それは小さな水滴だろうか、それとも…。花粉情報と黄砂情報も調べてみた。前者は可能性がありそうである。
 いずれにしてまちがいなく春の空がやってきているのだ。
▼「日本理科教育史」を追う最後の作業にとりかかろう。
(3) 私たちの「理科」はどこに向かうのか。
を考えるのである。今、今読みかえしてみるとけっこう他人まかせの客観的な表現だ。
それは他人事のようでもある。少し表現を変えた方がいいのかも知れない。
ともかくはじめよう。「これから理科」を語ることを。
▼思いつくままに箇条書きにしてみる。
(1) 文化としての「科学」を学ぼう。教えよう!!

(2) コンテンツに右往左往するだけでなくコンテクストを紡ごう。

(3) 21世紀の科学にふさわしいカリキュラムの作成を。

(4) クラウド時代にふさわしい教材整理(教材研究)をしていこう。

(5) 授業は教育実践の最前線であることを自覚し、授業研究のすすめ方を再検討しよう。

▼どれもが、もっともっと具体性をもっていなければ意味をもたないし、有効でもない。
あまり蛇足にならない範囲でこれから少しずつ語ってみたい。
「日本理科教育史」を追いかけていて気づいたことであるが、日本には日本独自の「科学教育史」があるということだ。アタリマエ!!
  他国の「科学教育」から学ぶべきことは大いに学ぶべきであるし、それらから切り離したかたちで「科学教育」を考えることなんかできない。
 それを充分に認識したうえで、なおかつ問いたい。
「日本独自の…」とは。
 


 

 

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ファラデーラボに理科ハウスがやって来る!!

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▼昨日からほんと空気に「あたたかさ」を感じるようになった。空は曇っているんだが、その雲も私には見分けることできないが、春仕様にかわりつつあるのかも知れない。「雲見」の定点がほぼ固定化しつつある。生野峠をにらむ北の空だ。
 「春一番」のニュースが流れてきて、あの「もうすぐ春ですね …♪」のメロデーが聞こえてくる季節になった。
▼そんな春一番のお出かけにふさわしい科学イベントがある。
ファラデーラボにあの「理科ハウス」がやって来るのだ!!
■2012年3月10日(土) 9:30~

科学好きにはたまらない企画だ!いや科学嫌いも科学好きになれる企画である。
くわしくは
◆ファラデーラボ便り
を参考にして欲しい。
▼「科学を楽しみたい人」「これからの科学を考えたい人」全員集合だ!!。
科学お楽しみ広場が午前にも午後にもある。
そして、なりよりも楽しみなのは、あの世界一小さな科学館・館長 森裕美子さんが、貴重な資料をもとに祖父「石原純」を語ります。
これはめったにない機会ですよ。
理科ハウスの登場で、あの理科ハウスの科学を楽しむ「空気」の「おすそ分け」がきっともらえるはず。
さあ!

「もうすぐ春ですね 科学をしてみませんか ♪」

 

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サイエンスコミュニケーター宣言(140)

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▼私はとんでもない勘違いをしているのだろうか。それとも、アタリマエすぎて誰も問題にしなかった「大発見」をしているのだろうか。それは、あの「霜柱の模様」だ。ひとつは昨日の朝でかける前に気づいた。昨日の朝は、霜柱ができるほど寒くはなかった。なにのやっぱりあの模様はあったのだ。あのホウキで掃いた跡のような筋がみられたのだ。霜柱とは関係ないのだろうか、あの筋は。それとも霜柱ができるときにできてそのままが保持されているのだろうか。それは霜柱ができるメカニズムとかかわっていたりして…。
 夕方、帰宅してもういちどその場所に行ってみた。やっぱり筋はあった、数カ所に見られる筋は、みな同じ方向を向いている。「ふしぎ!?」は深まるばかりである。
▼これまでの「私の科学」を「日本理科教育史」のなかに位置づけていく作業の途中であった。
続ける。
今度は、【等身大の科学】である。
20世紀の後半から21世紀のはじめにかけて「科学」があまりに巨大化してしまった。また反対に生命科学など極小な世界の話になってしまった。「超」をつけて語られる世界の科学ばかりになってしまった。
 それは、もちろん「理科」にも影響を与えていた。
【等身大の科学】という言葉がいつごろから使われるようになったのか。誰が最初に使ったのか私は知らない。
それだけをくわしく機会があれば調べてみたい。
80年代の最初に出された『等身大の科学』という書籍があるぐらいだから、70年代ぐらいから使われていたことはまちがいなさそうだが。
 身の丈にあった科学、日常のなかみられる科学それは、今だからこそなおさら私には魅力的である。
これからも、大事にしたい「私の科学」のひとつである。
▼去年ぐらいから使い始めた【デクノボーの科学】は、はじめはいつ頃のことなんだろう。
宮澤賢治が「雨ニモマケズ」を書いたのは、1931年(昭和6)のことである。
「デクノボー」のはじまりはそれであろうが、【デクノボーの科学】というのはごく最近かもかも知れない。
私自身も、『科学者としての宮澤賢治』(斎藤文一 平凡社新書2010.7.15)で知ったばかりなのだ。
 これからさらにくわしく知りたい科学の一つである。
▼こうならべるだけでは、けっきょくふりだしにもどっただけのように見えるが、それはけっしてそうではなかった。
「日本理科教育史」を俯瞰してみることにより、「私の科学」の立つ位置が少しずつみえてくるのである。
もう少し、現在地の確認に時間をとってみよう。
 

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サイエンスコミュニケーター宣言(139)

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▼昨日の朝も、一昨日の朝散歩道で見た「霜柱の筋模様」が気になってしかたなかった。それはたまたま見た偶然であったのだろうか。そこで、それを夜が明けたら確かめたかった。しかし、それまで待てなかった、外に出る日だったから。暗がりのなかその筋模様の存在だけを確かめにそこまで行ってみた。間違いなくそれは昨日の朝もあった。
▼昨日帰宅してからも、その「霜柱の筋模様」が気になったから少し調べてみたくなった。そのとき思い出したのがあの『立春の卵』ですっかり気に入ってしまった中谷宇吉郎のことだった。
確か中谷が霜柱のこと書いた文章があったはずとさがしてみた。あった!『「霜柱の研究」について』である。
これは、自由学園の女生徒5,6人の共同研究「霜柱の研究」にふれての文章である。「科学研究のすすめ」を中谷らしいみごとな文章で語っているのである。益々、中谷宇吉郎のファンになってしまうのである。
こうだ!!

 何でも予期せぬ不思議な現象に当たったら、それを逃さぬようにすることがひとつのこつであるということは、もちろんいうまでもないことであるが、よく心得ておくべきことである。なるたけたくさんにそのような奇妙な現象にぶつかるには、この研究者たちのやられたように、何か思いついたことがあったらおっくうがらずに「ちょっとやってみる」ということが大切である。思いつきというものは、一度手をつけておけば忘れないが、  そのままにしておくと、どんどん忘れてしまうものである。(中谷宇吉郎『「霜柱の研究」について』1940年8月より)

私も、「霜柱の筋模様」の「ふしぎ!?」についてなにか「ちょっとやってみる」ことにしたい。
▼そう、この「ふしぎ!?」の謎解きこそが、科学の醍醐味である。
それこそが「理科」そのものではなかったのか。あれ!?これでは「ふりだし」にもどってしまう。
もういちど、「私の科学」を「日本理科教育史」のなかにプロットしなおしてみよう。
まずは【常民の科学】だ。
 これは日本教育史以前から、常民のなかに存在しときどき顔を出してきている。諭吉が『究理図解』(1868)
で提言したかったのは、「常民の科学」とは別の科学が存在することだったのかも知れない。そして、それこそがこの世界に生きる人々の必須の「学問」であることを言いたかったのかも知れない。
 西洋の「科学」が入って来ても、もうひとつの「科学」である「常民の科学」は人々のなかに生き続けた。
それは、今日まで続いている。これについては機会をあらためよう。
▼作業を続ける。
【ファラデーの科学】はどうだろう。これについてはすでに見てきたようにすごいスピードで日本に入ってきていた。
●1860年 ファラデー『ローソクの科学』
●1874年(明治7) 文部省 市川盛三郎訳 『小学化学書』(一.二.三)
タイムラグはたった14年だ。日本の「理科」はまだ誕生(1886)していなかった。
【ファラデーの科学】こそは、これまでもそうであったようにこれからも、日本理科教育に示唆を与え続けてくれるだろう。
 一応年代順を意識してみようか。ならば【熊楠の科学】ということになる。
南方熊楠が土宜法龍宛書簡に「南方マンダラ」を書いたのは、1903年である。熊楠は南方マンダラで「萃点」の存在を説き、「ここからはじめよ」と説いた。それから一世紀以上たっているが、これはこれからも有効だと思っている。寧ろエコロジーの先駆者「熊楠」は、まちがなく「これからの人」である。

<つづく>

 

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サイエンスコミュニケーター宣言(138)

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▼「雨水」は過ぎていた。昨日の朝の散策はゆっくりしていた。まだまだ寒かった。今しか見ることができないものがあるはずそれを見逃すまいとひとつひとつゆっくりと「デジカメ自然観察」をやりながら歩をすすめた。
最初は、霜のなかのジュズダマだった。なんともきれいな輝きだった。アザミの葉の霜もきれいだ。なんとも「ふしぎ!?」なもの見た!それはアタリマエのことなのかも知れないが私には不思議でしかたない。
それは、霜柱を踏みつけながら川の土手で見た「霜柱の模様」だ。まるで竹箒で掃いた跡のようなこの模様はなんなのだ?
▼「日本理科教育史」を追うにいよいよ幕だ。
そこで、最初の3つを自分なりにまとめておこう。その3つを再々度だ。
(1) 私たちの「理科」はどこから来たのか。
(2) 私たちの「理科」はどこにいるのか。
(3) 私たちの「理科」はどこに向かうのか。

順番にいこう。「私たちの「理科」はどこから来たのか。」からはじめる。
▼そのとき、ずっとずっとつきまとってきた疑問がある。
「理科」=「科学」はアタリマエか?
という疑問である。2012年の今、世の中の多くの人に聞けばどんな答えが返ってくるだろう。
このアタリマエは「常識」だろうか。
 私は、この「日本理科教育史」をみていくなかでこの「アタリマエ」がそうではなかった史実を見てきた。
そうはしないという意図すらみてきた。
 そもそもはじまりからしてそうだった。
●1868年(明治元年) 福沢諭吉『訓蒙 究理図解』
で、「科学」教育ははじまったかに見えた。しかし、それは「理科」ではなかった。
「理科」教育誕生は
●1886年(明治19) 学校令「小学校の学科及びその程度」
まで待つ必要があった。それも、それまでの「科学」教育の流れと逆行するようにはじまったのだった。
では、本来の「理科」教育が意図したものとはなんだったのだろう。
▼「理科」教育がはじまって126年。
何度何度もこのアタリマエは吟味されてきた。
「理科は自然科学を教える教科である」ことを唱えて、いくつものすぐれた取り組みがあった。
それは今も、進行形だ。 
 それとは別に私には、「科学とは?」の疑問がセットで頭をかすめる。
 
<つづく>

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【Web更新2/19】12-08 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

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エノコロや 火も近くなり 畔焼きの
12/02/18 (土)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-08
週末定例更新のお知らせ
 ふっと口をついて出てきたコトバ。「ナルヨウニナルの法則」!!
ほんとうにそんな法則があるのかどうかすら知らない。理科教師らしからぬコトバであるが、そんな気分になることがある。それはなにも「諦観」から来ているとは限らない。
 自分ではけっこう積極的な姿勢で使っているのである。
自らの動きを静かに停めて、「観察」をしていると観察の対象が「ナルヨウニナル」のを観ることができる。
これも謎解きのひとつの方法かもしれない。

◆表紙画像集2012 人里の植物シリーズ エノコログサ
 田の畦焼きのシーズンである。私は「アデヤキ」という、そう言わなければそれをイメージできない。
最近はすっかりそんな風景を見ることできなくなってしまったが、ずっと以前はこの季節の休日にはそこかしこの田や畔から煙りがあがっていた。今年は、家の周辺は「ほ場整備」でなおさらである。畔や田の風景は一変しているのである。ところどころに昔の畦道が残っており、そこのススキやエノコロが去年のいのちの営みの残骸のまま立っていた。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新!
 長きにわたった「日本理科教育史」を追う旅であったがそろそろ終えるつもりである。
最後にはやっぱり自分だけの「日本理科教育史」にしたい。
より一般的な「日本理科教育史」は、それにふさわしい人にまかそう。私は私にしか書けない「日本理科教育史」を書いておきたい。そしたらいつかのそんな無数の「日本理科教育史」がつながっていくときが来るかも知れない。
 

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サイエンスコミュニケーター宣言(137)

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▼昨日も寒い土曜日であった。ときどき生野峠を越えて雪雲がもれてくるようだ。定例観察の大賀ハスの観察池にも白いものが見られた。大賀ハスは今期蓮根の植え替えから44週目であった。
その大賀ハス物語の歴史ならはっきりとわかる。
●1951年(昭和26) 大賀一郎先生68歳 3月30日、千葉県千葉市検見川の泥炭層から約二千年前の古蓮の実を得る。

これが「大賀ハス」のはじまりである。大賀一郎氏はすでに68歳だったである。
それから61年の歴史を経て数々の「大賀ハス物語」をつくり今日にいたったのである。
ここにもその「物語」のひとつがあるのである。
▼「日本理科教育史」にも数々の「物語」があるのだろう。
仮に
●1886年(明治19) 学校令「小学校の学科及びその程度」
において「理科」は誕生したとするなら、今年で126年である。
67年の「戦後日本理科教育史」は、その半分を越えているのである。
それを今俯瞰するとき、67年の間にきわめて注目に値するふたつの論文がある。
書いたのは同じ人物である。庄司和晃氏である。
▼そのひとつは1965年に発表された。
●1965年(昭和40) 「理科教育における「予想・仮説」着目史」(庄司和晃著『仮説実験授業』国土社刊) 

今回、読みかえしてみて、驚いてしまった。なんとすごいことを言っているのだろう。戦後20年の時点で、その後の日本理科教育史を予見しているのである。あまりにすごいので、せめてその目次だけでも引用させてもらう。

「理科教育における「予想・仮説」着目史」
はじめに
§1. 仮説実験授業を発想したひと
§2. 着目史その1 - 新学習過程
§3. 着目史その2 - 理科実践論
§4. 着目史その3 - 予想実験をさせる授業
§5. 着目史その4 - 理科ノート方式
§6. 今後のことなどを含めて

▼もう一つはそれから約30年後の1994年に書かれているのである。
●1994年(平成6) 「伝承的な知恵と科学 - 「湯と共に赤子まで流す」の愚をさけるべく-」(庄司和晃著『全面教育学入門』明治図書刊)

こちらの方も、引用するならすべてを引用させてもらいたいぐらいだ。この時点で「日本理科教育史」全体を見通して、「これから」も含めて提言の数々がある。何度でも読みかえしたい文章である。
これも、せめて目次だけでも引用させてもらって文脈を追ってみる。

「伝承的な知恵と科学 - 「湯と共に赤子まで流す」の愚をさけるべく-」

一 近代科学というものの伝来と摂取

二 「西洋流の人」にせんとする雄叫び

三 推理ラインの自覚的な予想行為の勝利

四 「理科」の特設は思想史的な一事件

五 「ミミズの身になって」という歴史的批判

六 伝承的な知恵と科学との合体の創造

七 正当なる擬人主義を堂々と推進したい

八 知恵の本質を“知恵”的に説く昔の話

九 常民の自然教育の一角を担った方法論

十 伝承的な知恵を学ぶための積極面の発見


▼「記念碑的」というか、「標識的」というか。
なんともすごい説得力をもつ二本の論文である。いや「提言」である。
ふたつ目から、もう20年近くたとうとしている。
3.11以降の「これからの理科」を考えるとき、ぜひ多くの人に読んでもらいたい文章である。

私自身としては、ぜひともお会いして直接お話聞かせてもらう機会があることを切に願うところである。

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サイエンスコミュニケーター宣言(136)

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▼今年の冬から加わったお気に入りの「風景」というものがいくつかある。それは、家の周辺がほ場整備によって大きく変わったからでもある。しかし、なかには変わらずに昔からずっとつづいて来た風景なのだが、今年になってやっと私が気づき「お気に入り」登録した風景もある。ここのナナミノキの赤い実と凍てつく青空のある風景はそのひとつである。なんと美しい風景だ!!
▼「日本理科教育史」を追う旅も終盤である。追うだけで終わっては、なにをしたのかわからない。
あくまで「これから」に目を向けなければ意味がない。
 最新学習指導要領に目を向けてみる。

●2008年(平成20) 3.28 文科省『小学校学習指導要領』告示。領域を「物質・エネルギー/生命・地球」に二分。粒子概念を重視し、手回し発電機を導入。09年前倒し実施し12年全面実施。理科の授業時数は各学年90/105/105/105時限。計405時限。前期の350時限より増加。

・3.28 文科省『中学校学習指導要領』告示。理科の授業時数は一年週3時限、二三年4時限に増加し、1989年の水準に復帰。

●2009年(平成21) 3.△ 文科省『高等学校学習指導要領』告示。
4.1 『学習指導要領』の算数理科を前倒しして実施。

▼明きからに変化しているのは授業時間数である。理科の時間数は増えるのである。そして、やっと「粒子概念の重視」である。中学校では「原子」のつくりも復活である。
原子論的物質観はどうなるだろう。
 21世紀の理科授業、なにが期待されての学習指導要領の改訂だろう。
これから現場での授業実践をしながら明らかにしていく課題も多い。
 これまでも多くの人が言ってきた「理科は科学を教える教科である」、このアタリマエは…。
▼この改訂の流れは、2011.3.11以前からのものであった。
3.11以降の「理科」はどうなんだろう。
変える必要はないんだろうか。吟味すべきことはなんなのだろう。
もう少し頭のなかを整理してみよう。

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サイエンスコミュニケーター宣言(135)

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▼あいかわらず、「雲見」を楽しむ。「雲見」の面白さは、雲が刻々とすがたかたちを変えるところであり、見えなかった水蒸気が見えてくるところである。その変化には一定のルールがあることは間違いないが、くわしくは今なおわからない。それこそ「雲をつかむ話」なのである。
▼「日本理科教育史」も最終章に入ろう。
最後の10年だ。ずっとベースにしてきた年表のことに再度ふれておこう。
『増補 日本理科教育史』(板倉聖宣著 2009.4.10 仮説社)の付録「年表」である。
この『日本理科教育史』の原著の初版は1968.3.1である。だから年表も増補版で1968年以降については付け加えられたものと言えるだろう。2009年の時点での視点にたっての選択だろう。
21世紀に入ってからの年表にとりあげられている書籍は、著者それから仮説実験授業関係以外のものは少なくなってしまっている。
 なるほどと思ったのは次ぐらいであった。

●2008年(平成20) 4.22 池内了著『擬似科学入門』岩波新書

▼21世紀に入ってからの理科教育関係の雑誌のことがこの年表にはふれられていないが、自分でわかる範囲で追加しておく。
 21世紀に入って、いよいよネットの時代が本格化し、Web2.0と言われる時代、そしてソーシャルメディアの時代・クラウドの時代。別に理科教育関係に限らず、雑誌というメディアはなかなかきびしい時代に入っていた。
そんななかでも新しい雑誌が誕生した。それは特筆に値するだろう。

●2007年(平成19) 4.1 『RikaTan』創刊 星の環会発行(当時)

また、逆に長い歴史を閉じた雑誌も出てきた。寂しいかぎりである。

●2010年(平成22) 3.1『楽しい理科授業』 廃刊 明治図書

▼21世紀に入ってからのことは、学習指導要領のことなどももふくめて、身のまわりにおこったこと、さらに等身大に語ってみようと思う。

それは、すべて現在進行形のことであるのだから。
何度でも繰り返そう!!

「過去」は変えることできなくても、「未来」なら変えることが可能なのだから。


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サイエンスコミュニケーター宣言(134)

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▼昨日夕方になってやっと青空をバックにした「雲見」ができるようになった。とてもありがたく、うれしかった。
それにしても私にとって「雲見」という楽しみは最高である。
 特別のなにか道具がいったり、特別の知識・技能が必要なわけでもない。ただ空を見上げるだけで、大気の壮大なる物理実験を観察することができ、かつこの世でもっとも美しい芸術作品を鑑賞できるのである。
「雲見」の言葉をはじめて知ったのは、名著『空と色と光の図鑑』(斎藤文一、武田康男著 草思社 1995.10.11)によってであった。言葉の発案者は宮澤賢治だった。その斎藤文一さんに誘われるようにして、昨年の夏、宮澤賢治を訪ねたのだから、「雲見」というのは私にとってはちょっとした因縁のコトバである。
▼21世紀に入っての「近代科学・技術に関する出来事年表」を続ける。
いよいよもう最後である。

●2006年(平成18) 冥王星が惑星から準惑星に分類しなおされる。核実験の発表(北朝鮮)。山中伸弥ほか(京大)、トムソン(米ウィスコンシン大)がそれぞれiPS細胞(人工多能性幹細胞)生成技術を発見。

●2007年(平成19) ペルー地震。

●2008年(平成20) 南部陽一郎(素粒子物理学における自発的対称性の破れの発見)、小林誠・益川敏英(CP対称性の破れの起源の発見)の三名が物理学部門で、下村脩(緑色蛍光タンパク質GFPの発見)が化学部門でノーベル賞を受賞。

●2010年(平成22) ハイチ地震。チリ地震。日本など太平洋沿岸各地に津波。渡航移植の自粛と金銭を介した臓器提供の禁止を勧告(WHO)。「はやぶさ」帰還。

●2011年(平成23) ニュージーランド地震 3.11東日本大震災と東京電力福島第一原発事故。

以上である。
▼終わりにあたり、もういちど紹介をしておく。この年表は、『人間にとって科学とは何か』(村上陽一郎著 新潮選書 2010.6.25)の付録「近代科学・技術に関する出来事年表」(p195)を引用させてもらってきた。従って2010年、2011年については私が勝手に追加させてもらった。
 何回も引用させてもらい参考にさせてもらったことあらためてお礼を申し上げたい。
年表にあげておられる項目は、この本文との関連で選択されているのだろうと思う。
 同じような年表が、いろんな立場・視点から出てくることを望む。
▼さあ、今度はいよいよ「日本理科教育史」最後の10年である。
「これからの理科」を射程に入れて、できるだけいろんな角度でこの10年をみていきたい。
個人の視点では限界があるだろうが、まずは私がどうみているかを等身大で語ってみたい。

さあ、どうなるやら…。


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サイエンスコミュニケーター宣言(133)

▼「日本理科教育史」を追うというような作業をはじめて、けっこう日がたってしまった。
サイエンスアゴラ2011の参加がひとつのきっかけになっているから、昨年の11月のおわりであるはじめたのは。(サイエンスコミュニケーター宣言(78)
 そのとき、この作業のねらいは3つのこと知ることとした。
(1) 私たちの「理科」はどこから来たのか。
(2) 私たちの「理科」はどこにいるのか。
(3) 私たちの「理科」はどこに向かうのか。

▼その作業もやっと最後の10年となった。例によってまずは21世紀に入っての科学・技術史からみてみよう。
例の「近代科学・技術に関する出来事年表」からピックアップする。

●2001年(平成13) 野依良治がキラル触媒による不斉合成でノーベル化学賞。ヒトゲノム解読結果の第一稿が公開(米)。エルサルバドルで地震。ペルー沖で地震。

●2002年(平成14) 田中耕一(MALDI・TOF質量分析法)、小柴昌俊(ニュートリノ天文学)と化学と物理学両部門でノーベル賞受賞。

●2003年(平成15) ヒトゲノムプロジェクトが解読完了を宣言(米)。NASAコロンビア号空中分解事故(米)。中国初の有人宇宙船神船5号打ち上げ。メキシコ南部で地震。SARS(重症急性呼吸器症候群)が世界的に流行。

●2004年(平成16) 世界初の民間有人宇宙飛行船(スペースシップ・ワン)開発(米)。
土星探査機カッシーニが土星周回軌道に到着(米)。カリフォルニア州パークフィールド地震(米)。

●2005年(平成17) カッシーニから射出探査機ホイヘンス、衛星タイタンに着陸。地表の画像を撮影(米)。はやぶさ、小惑星に着陸。(日)。

▼今日は、ここまでとする。こうしてならべるともうそれは、昨日の出来事のように思えてくる年の前後もあゆふやになる。生々しく「現代」そのものなのである。
 昔、若い頃によく思ったものだ。
「歴史」を古い順番に学ぶのはどうしてだろう、と。新しい順番に学んでいけば、今の自分との関係もわかりやすのではないか、と。
 しかし、今考えてみるとあまり至近距離の「歴史」はかえってみえにくいということもあるなと思いだした。
 そのたった「今」の歴史は、このあとだ。

<つづく>

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サイエンスコミュニケーター宣言(132)

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▼私がいちばん長く意識的に観察しているものと言えば、やはりヒガンバナだろう。10数年来の定点観測地Aの引っ越しをしてはじめての越冬である。ずっと光を独り占めである、それは続いているのだがシロバナヒガンバナ(写真右)の方の葉の先の方が少し黄色みを帯びてきた。それは春が近いということを教えてくれているのだろうか。春になって周りの植物たちが伸びてくれば自分たちは地上から退散するのだから、その予兆でもあるのだろう。
▼「日本理科教育史」の方は、1990年代終わりまできていた。
21世紀に向けての「学習指導要領」がまたしても改訂になった。それをもう少しくわしくみておく。

●1998年(平成10) 12.14 『小学校学習指導要領』改訂。「総合的な学習の時間」特設。<ゆとり/生きる力>重視。小4の<重さとかさ>などは中学校へ移動統合し教材を削減。理科は三~六年生に年70/90/95/95時限、計350時限に激減。
・12.14『中学校学習指導要領』改訂。<ゆとり/生きる力>重視。「総合的な学習の時間」特設。理科では小項目を81→50へと大幅に削減して高校に移す。三年生の授業時限は前期の105~140から80時限に激減させる。

●1999年(平成11) 3.29文部省『高等学校学習指導要領』改訂。<ゆとり/生きる力>を重視。総合理科を廃して各2単位の「理科基礎/理科総合A/B」を新設。各3単位の<物/化/生/地>Ⅰと<理科基礎/理科総合A/B>のうち2科目必修。2008年度実施。

▼1947年(昭和22)に「試案」というかたちで発表した「学指導要領」は、ほぼ10年ごとの改訂を繰り返してきた。その変遷は戦後の「日本理科教育史」語るときはずことできない資料である。
 「生活単元学習」「問題解決学習」→「系統学習」「教材の精選」→「探求の学習」「科学の方法」→「ゆとりと充実」→「教育の個性化・多様化」「生活科」「選択履修幅の拡大」→「ゆとりと生きる力」「総合的な学習の時間」
と大ざっぱに見ていくとき、どんな方向性が見えてくるだろうか。
これは、このあとの課題としておく。
▼21世紀に入っての10年、ながく続けて来た「日本理科教育史」を追う旅もこの最後の10年にかかろう。
まずは、今日まで来てしまってもう一度全体をふりかえることにする。

さあ ゆっくり急ごう!!

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【Web更新2/12】12-07 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

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赤さ増し 春遠からじ いばら道

12/02/12 (日)撮影@福崎

■ 楠田 純一の【理科の部屋】12-07
週末定例更新のお知らせ
 昨日、21年前に卒業した生徒の同窓会があった。またたくまに21年と言う時間がタイムスリップした。実に楽しかった。こんなときはタイムスリップは意図も簡単にできるのだが、だからと言って「過去」は変えることはできない。変えれるのは「未来」と「自分」だけだ。
 また、新しい一週間がはじまる。何をどう変えることができるだろう。

◆表紙画像集2012 人里の植物 ノイバラ
 いつもの散歩道の脇に気になる野イバラが飛び出していた。気になるのは、その赤い実のせいでもあった。
この「赤い実」にどんな意味があるのだろう。けものみちにはびこってきたであろう野イバラ、その「棘」には、その「赤い実」には、どんな物語があるのだろう。私は知らない。
 赤みというより赤黒さが増してきたようだ。それが「春遠からじ」を教えてくれているようだった。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新!
 「日本理科教育史」を追う旅もいよいよ今世紀に入る。ほんとうの「現代」となる。
それは同時に「これから」を語ることとなるだろう。
「これから」については、そんな大きなことでなくていい、小さなことでいい。
いやむしろ「小さなこと」の方が、これからにはふさわしいのだから。
実現可能な「小さなこと」いっぱいみつけていこう。

「日本理科教育史」は、今週中にどこまでいくだろう。
ゆっくり 急ごう!! 

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サイエンスコミュニケーター宣言(131)

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▼毎週土曜日は大賀ハス定例観察日とは言っても、花の咲いたのは昨年の7月、8月だ。年すらかわっている、そんなものの観察を続ける意味がどこにあるのかと問われれば答えに窮するばかりである。
 生命の営みというものは「連続」していることを観察によって明らかにしたいと言えば、少しばかりこじつけが過ぎるかも知れない。大賀ハスは、蓮根の植え替えから43週目であった。
▼1990年代の「日本理科教育史」の大まかな流れを見た。手前味噌に【理科の部屋】の歴史をそこに重ねてみた。もう少し【理科の部屋】にこだわってみようと思う。
 もうすぐ開設から20周年になる【理科の部屋】は、日本理科教育史における一大パラダイムシフトである。
と言えばそれは誇大妄想が過ぎるだろうか。
この間、長きにわたり「日本理科教育史」をずっと追いかけてきての実感なのだ。
▼なぜそう感じるのだろうか。
すでに紹介した、【理科の部屋】編集本のなかの案内文を読みなおしてみる。
◆情報は発信するところに集まる。~【理科の部屋】とは~
大きく言えば2つある。
ひとつは、当時の合い言葉「情報は発信するところに集まる」が示すように、【理科の部屋】の出現によって情報の流れが変わってきた。それまでの一方的な情報の受信者が情報発信者に変わっていったのである。
 そして、いちばん欲しい情報は、自ら情報を発信することによって得られるものであることに気づいたのである。
そのことは当時の初参加者に向けたメッセージでもよくわかる。
****************************************
日本の理科教育情報発信基地
             
       【理科の部屋】へようこそ        
                                
    (^o^)/ あなたもここで情報発信者に\(^o^)   

 情報は、発信されるところに集まる。

 あなたがノックされるところがドアです。

 時空を超えて響きあい・学びあい・高めあう世界を

******************************************
▼もうひとつは、「授業」へのこだわりである。
すでに90年代の年表で見てきたように「青少年のための科学の祭典」の盛況ぶりが示すように、「理科」が学校の理科室から外に出て行った時代でもあった。
 一方では、学校の「理科」の授業はどんどん削減されていった時代でもあった。なんという時代の皮肉であろう。
 そのなかで【理科の部屋】は、学校外との取り組みとも連携しながら「理科」の授業にこだわっていた。
それは、21世紀がスタートしたころの【理科の部屋】紹介文をみてもわかる。
◆【理科の部屋】の紹介

このふたつのことは、「これから」に大いに示唆を与えてくれていると言えるのではないだろうか。

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サイエンスコミュニケーター宣言(130)

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▼あれから11ヶ月目の朝だ。もう一ヶ月で3.11から一年である。
どこか気が急き、それまでにと思ったりはするが、不可能なことにあこがれてみてもしかたない。できることを着々と歩みをすすめるしかない。
 昨日も夕方に「雲見」をしたんだ。「雲見」の新しい定点をいまだに決めかねているんだ。いつでも簡単に雲見ができて、雲見の面白さを存分に味わえる場所だ。もう少し迷うかも知れないが、とりあえず冬場は生野峠の方を向いてみようときめた。雲見をしながらもやっぱり、あの言葉の真似をしてみる。
「ねえ君、不思議だと思いませんか?」
▼1990年代の科学・技術史に続いては、「日本理科教育史」だ。
これまでいちばんベースとしてきた『日本理科教育史』(板倉聖宣著)の「年表」から離れる部分も出てくるが並べてみる。

●1991年(平成3) この年、第一回「青少年のための科学の祭典」開催

●1993年(平成5) 11.23NIFTY教育実践フォーラム【理科の部屋】開設

●1995年(平成7) 8.31インターネット版【理科の部屋】開設

●1996年(平成8) 7.△ 中央教育審議会第一次答申「総合的な学習の時間」の新設と「環境教育の改善・充実」を提言<ゆとりの中で自ら学び自ら考える力などの生きる力の育成>を基本とする。 

●1997年(平成9) 7.25『科学であそぼう なるほどの森』(森裕美子著 草土文化)
・8.10 『私の【理科の部屋】活用法』(NIFTY SERVE 教育実践フォーラム【理科の部屋】編 )

●1998年(平成10) 12.14『小学校学習指導要領』改訂。『中学校学習指導要領』改訂。
              (別途くわしく)
●1999年(平成11) 3.29文部省『高等学校学習指導要領』改訂。

●2000年(平成12) △.△ 青少年のための科学の祭典開催、全国70大会に46万人参加。

▼こうして手前勝手にならべて見た!!
見えてくることがある。
いよいよ【理科の部屋】の時代が始まるのである。それは今見るときわめて必然のような気がしてくるのである。
「青少年ための科学の祭典」の歴史を見てもわかるように、教室の「理科」は外に飛び出していったのである。
いちばん肝心の部分にきた。
もうすこしていねいていねいに追いかけてみよう。

ゆっくり 急いで!!


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サイエンスコミュニケーター宣言(129)

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▼昨日9日、夕方帰宅してから、あの部屋に行ってみた。そしたら、例の「立春の卵」が3個立ったままだった。いちど立ってしまえば、ずいぶん「安定」しているもんだ。前は冷蔵庫に卵ぎれで3個でストップしたが、昨日はちがっていた冷蔵庫には新しい卵パックケースが入っていた。
 せっかく3個が立ったままなのだからと、新しいケースから2個をもって来て立てようとした。4個目は、ほんと瞬間と言っていいぐらい簡単に立った。ところが5個目は少し手こずった、と言っても数分だ。5個も卵が立った姿はたかが卵と言え圧巻である。
 「立春の卵」の中谷宇吉郎の先生、寺田寅彦の口癖を真似たくなってきた。

『ねえ君、不思議だと思いませんか?』

▼『日本理科教育史』のピッチをあげる。
もういっきょに1990年代、20世紀末に入ってしまおう。
例によって「近代科学・技術に関する出来事年表」からピックアップする。
【19991~2000年】

●1991年(平成3) 雲仙・普賢岳噴火(戦後最悪の火山被害)、ピナツボ山火山(フィリピン)。

●1992年(平成4) ブラジル、リオデジャネイロで環境サミット。フロレス島地震(インドネシア)。

●1993年(平成5) 米国科学財団(NSF)インターネットを高速実用化(米)。北海道南西沖地震。【EU発足】。

●1994年(平成6) ユーロ・トンネル開通。

●1995年(平成7) 阪神淡路大震災。もんじゅナトリウム漏洩事故。エボラ出血熱の流行(ザイール)。

●1996年(平成8) BSEのヒト感染と疑われる患者が発生(英)。クローン羊ドリー誕生(英)。

●1997年(平成9) 温暖化防止・京都会議。日本で脳死・臓器移植法成立。国際インターネット電話自由化。

●1998年(平成10) トムソン(米)がES細胞(胚性幹細胞)培養に成功。

●2000年(平成12) フェルミ研究所でタウニュートリノ発見(米)。

▼ならべてまたまた驚きである。「歴史」というのを躊躇するぐらい「今」なのである。今も進行していることのはじまりがここにあったり、途中過程がここにあるのである。
 真ん中の1995年という年は、いろんな意味でも重要な年である。
▼「理科教育年表」とこの年表を重ねあわせる作業は次回にするが、この作業を繰り返しているうちに少しずつ少しずつ見えてきたことがある。

ゆっくり 急ごう。

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サイエンスコミュニケーター宣言(128)

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▼昨日は再び雪を運んでくる予兆の雲が北の空にあった。ひさしぶりの「雲見」は面白い。
雲はどれも同じように見えるが、ふたつとして同じものなんてない。大気の物理学実験室の実験の結果としての雲である。その結果が、次なる天気の変化を予想するデータとなるのであるから興味はさらに増してくるというものである。
 姿、かたち、高さ、どちへ向かうのか?「雲見」はいろんなことを教えてくれるのだ。
▼1980年代の理科授業はいったいどんな授業が一般には行われていたのだろう。
学校の授業にも流行と不易の部分がある。どちらの部分も要求されているのである。それが学校教育の宿命でありミッションであるのだ。
 だから、科学・技術史と関連するだろうし社会や時代の流れも大いに受けるものなのである。学校文化はそのように形成される。そして授業はある面で学校文化の象徴としてある。
▼80年代の最後の方に改訂された学習指導要領についてすでにふれたが、再度もう少し詳しくふれておく。

●1989年(昭和64平成元) 3.15 文部省『小学校指導要領』告示。一二年に「生活科」を新設、週各3時限。「理科」は三年生以上で週3時限となる。
・3.15 文部省『中学校学習指導要領』告示。理科は一二年週各3時限、三年週3~4時限となる。
・3.15 文部省『高等学校学習指導要領』告示。1994入学生から実施。理科の目標で<科学的探求心>を重視。<4単位総合理科>と<物/化/生/地>各2単位ⅠA/各4単位ⅠBのうち二科目を必修とする。各2単位の<物/化/生/地>Ⅱも置く。

 「日本理科教育史」のうえからみても「生活科」の新設の意味は大きい。時間数の削減されていく「理科」。
それは、80代の教育の大きな流れをうけてのものだったのだろうか。
では、その80年代の教育の流れとは。
▼これからも不易な部分にふれておこう。
「授業」である。
学校文化の象徴としての「授業」の位置は、これまでもそうだしこれからもきっとそうだろう。
さらに一歩踏み込み我田引水風に言うならば
サイエンスコミュニケーションの最高の場としての「授業」も、この時代から変わっていないことなのかもしれない。
それは、きっとこれからも…。

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サイエンスコミュニケーター宣言(127)

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▼昨日の朝2個の生卵を立てた部屋に夕方行ってみた。そしたら卵は2つとも立ったままだった。そこで、冷蔵庫からもう1個卵を持ってきて立ててみた。
 不思議なものだ。立つという確信があるから、そんなに時間がかからない。数分もかからないぐらいだ。ひときわ不器用な私がである。
 これが65年前には科学者をも巻き込んで世界中で大騒ぎした「物理現象」なんて信じられないことだ。誰がやっても いつどこでやっても 立つ。
 だからこそ「科学」なんだ。
▼考えてみると、1980年代の私も、そんな「科学」を求めてかけずり回っていた。
そのころいつしか身についていった学びの作風とは、徹底した「もの」へのこだわりであった。
思いつくままにリストアップしてみる。
・動物の頭骨(イヌ、ネコ、ブタ、ウシ、イノシシ、タヌキ、ミンク等など)
・つる植物
・シロバナタンポポ
・草木染め(タマネギの皮からはじめて紅花、藍染めまで)
・AT(姶良火山灰)
・磁石石
・天然磁石(磁鉄鉱)
・丹生
等などである。
▼そんな「もの」へのこだわりから私に生まれたのは2つある。
ひとつは私なりの教材論だ。後にまとめたものであるが次のようなものだ。
◆私の教材論
もうひとつは、「常民の科学」という考えだ。
いつしか「常民の科学」を授業で展開することこそ、私のライフワークと思い込むようになっていた。
今なお、それを断念したわけではない。
◆「常民の科学」を授業に!!
▼身についた学びの作風・学びの流儀は「もの」へのこだわりだけではなかった。それは「人から学ぶ」ということだった。このアタリマエにして、学びの最も大切なところだ。
 人は人から学ぶのである。人から学ぶことによって学び豊かにふくらむのである。
これからの学びは、学び合いとしてしか成立しないのである。
このころに教えてもらったこの鉄則中の「鉄則」はこれまでも、これからも有効であると思っている。


 

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サイエンスコミュニケーター宣言(126)

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▼今日2012年2月7日(火)の朝。朝起きてからふっと「立春の卵」を思い出したんだ。
立春の日のあれだけで終わらせてはいけない。なんかそんな気持ちになったんだ、そこで冷蔵庫から今朝は2個の卵を取り出したんだ。そして、例のテーブルの上で挑戦してみた。
一個目は自分でも驚くほど簡単に数十秒で立った!!
二個目は少し邪心が混じったか、数分かかった。!!
でも、アタリマエだけど、今朝だって立ったのである。
 ちょうど65年前の今頃である中谷宇吉郎をして、「それで人類文化史上の一懸案がこれで解決されたというよりも、現代科学に挑戦する一新規現象が、とつじょとして原子力時代の人類の目の前しに現出してきたことになる。」(「立春の卵」1947.2.12より)と書かせるまでこの卵を立てることだけで大騒ぎしていたのである。
 やってみればすぐわかることなのにである。怪しいと思ったら、今すぐ自分でやってみればいいだけの話だ。
もうそろそろ私たちは「科学」とのつきあい方を考えなければいけない時代になってきているのかも知れない。
▼「過去と人は変えることができないが 未来と自分は変えることができる」ずっとひとに向かって言ってきたことだ。今、やっと自分でそのこと意味を深く考えられるようになってきた。
 未来と自分を変えるために「日本理科教育史」の「歴史」を追いかけてみよう。
1980年代である。
「近代科学・技術に関する出来事年表」からのピックアップは済んでいた。
次は、『日本理科教育史』(板倉聖宣著)の「年表」からである。

●1983年(昭和58) 4.3 仮説社『たのしい授業』創刊

●1985年(昭和60) 12.5 板倉聖宣著『原子とつきあう本』仮説社刊。

●1988年(昭和63) 5.15 愛知・岐阜物理サークル『いきいき物理わくわく実験』新生出版刊。

●1989年(昭和64平成元) 3.15 文部省『小学校指導要領』告示。
・3.15 文部省『中学校学習指導要領』告示。
・3.15 文部省『高等学校学習指導要領』告示。
(学指導要領については別途くわしくとりあげる。)

これまでにくらべると「年表」からピックアップする数もずいぶん少ないのである。
▼そのことの理由のひとつとして、80年代に入って自分なりの
・学びの流儀
・学びの「作風」
と呼べるようなものが少しずつ確立しはじめていたのかも知れない。
それではそのころの「私の科学」は、どこにいたのだろう。
「授業」とはどんな関係にあったのだろう。

<つづく>

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【Web更新2/5】12-06 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

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立春や 木の芽にもまた 陽宿らん 12/02/04 (土)撮影@福崎
■楠田 純一の【理科の部屋】12-06 週末定例更新のお知らせ  また新しい一週間のはじまりである。 一週間後の着地点を決めてから離陸しよう。 もちろん「想定外」のところに着地するかも知れないが、それもまた楽しい!! である。それが道楽的!!

◆表紙画像集2012 人里の植物シリーズ コナラ
 前の山が、定例散策コースの中心になって時間がたってきている。ずっとずっと何十年とながめてきた山だ。でも行くたびに、「新発見」がある。いったい何を見てくらしてきたのだろうと自分でも不思議なぐらいである。
まったく手を入れていないので何十年と荒れ放題だ。
 その里山で樹木の冬芽を見ていた。
暦の上だけとは言え春だ。冬芽にも立春の陽が宿っているように思えた。
この赤い鱗のような冬芽はコナラだろうか?

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新!
 いつのまにやら、シリーズで進めているなかでは、この「サイエンスコミュニケーター宣言」がいちばん回数が多くなってしまった。
 「日本理科教育史」は、1980年代に入ってきた。70年代でも「現代」がはじまっていたと感じたぐらいだから、80年代はなおさらであろう。
 80年代の「理科」はどうなっていったのだろう。
そのなかで、「私の科学」はどうだったんだろう。
「これから」へのヒントはあるのだろうか。少しゆっくりと見ていきたい。

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サイエンスコミュニケーター宣言(125)

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▼知ってしまえばなんということはないアタリマエのことが、最初に見たときはなんとも「ふしぎ!?」に見えたりするものである。それを大賀ハスの観察池に見たのははじめてであった。観察池の表面に「たんこぶ」のようなふくらみが、それはひとつではなかった。大小あわせて3~4個ある。恐る恐るさわってみると氷のようだ、だとすると先週見たあの「扁妙の滝」のように動いている途中に凍り付いてしまったのだろうか。気泡が出て膨らんでいる途中だったのだろうか。気泡の正体は…「ふしぎ!?」は続く。大賀ハスは蓮根の植え替えから42週目であった。
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▼昼頃になって外出から帰った。
そして、あの「立春の卵」に挑戦したくなった。冷蔵庫にある卵をひとつとって仏壇のある居間に向かった。
そこに我が家のいちばんのテーブルがあるからだ。
 集中すること7~8分であっただろうか。立った!!
これまたアタリマエのことであるが、自分でやってみてこそやってくる感動である。
いつでも、どこでも、誰がやっても立つ!!
だからこそ「科学」なんだ!!
と65年も前に科学者・中谷宇吉郎はいいたかったのだろう。
▼そうその「科学」とは何なのだろう。とりわけ私にとっての「私の科学」とは何なのだろう?
これを明らかにすることは、「日本理科教育史」を追うことのひとつの目標でもある。
「歴史」を追うことを立ち止まることなく続けよう。
時系列で追っていこう。1980年代に入ろう。
ここも「近代科学・技術に関する出来事年表」からはじめる。

●1981年(昭和56) エイズ確認される(米)。IBM「PC化」を選択(第四世代コンピュータ)。スペースシャトル実用化(米)。

●1982年(昭和57) CD実用化(日・オランダ)。人工心臓の移植に成功(米)。日航機羽田沖墜落事件。国際捕鯨委員会が86年以降の商業捕鯨全面禁止を決定。

●1983年(昭和58) 日本初の体外受精児誕生。日本海中部地震。

●1984年(昭和59) インド・ポパール市で化学工場事故(米ユニオン・カーバイド社)。エイズ・ウィルス発見(米仏先陣争い)。

●1985年(昭和60) カール(米)ほか炭素元素同位体フラーレンC60の発見。オゾン・ホールの確認。
ネバドデルルイス噴火(コロンビア)。メキシコ地震。日本人初の宇宙飛行士。日航ジャンボ機墜落。国内初のエイズ患者報告。

●1986年(昭和61) ベドノルツ(独)ほか高温超伝導物質。チェルノブイり原発事故(ソ)。チャレンジャー1号爆発(米)。最初のBSEに感染した牛が発見される(英)。伊豆大島噴火。
サンド社(スイス、バーゼル近郊)火災でライン川汚染。

●1987年(昭和62) 超新星1987Aから世界初のニュートリノ検出(日・米・ソ)

●1988年(昭和63) 青函トンネル開通(世界最長約54キロ)。H2ロケット打ち上げ。瀬戸大橋開通。アルメニア地震。

●1989年(昭和64 平成元年) 常温核融合事件(米)。アラスカでタンカー座礁・石油流出。サンフランシスコ地震。

●1990年(平成2) ADA欠損症に対する初の遺伝子治療(米)。ハップル宇宙望遠鏡打ち上げ(米)。イラン地震。

▼こうしてならべてみるとより鮮明になる。これは自然災害(火山、地震など)の歴史であり、人類のあくなき自然へのはたらきかけの歴史でもある。
 この「歴史」とともに、教室の「理科」はどんな「歴史」を歩んだのだろうか。
それを次にみていく。

<つづく>


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サイエンスコミュニケーター宣言(124)

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▼立春である。朝起きて、外に出てみたが幸い雪は当地には降っていないようだ。昨日の生野峠の向こうの様子を思い出すと、日本海側では積雪量を増してはいないか心配である。少しはおさまっていることを願うのみである。そんなこと考えているあいだに、頭の中で連想ゲームをはじめてしまった。
「立春」→「雪」、雪と言えば「雪は天からの手紙」の中谷宇吉郎。中谷宇吉郎で「立春」といえばあの名エッセイ『立春の卵』である。今どきはやりのニセ科学、都市伝説レベルでない世界中巻き込んで擬似科学がまかり通っていたのである。
 「立春にだけ卵が立つ」という擬似科学が二十世紀の半ばまで人類は思い込んでいたのだ。
そんなことないことは、自分でやってみればすぐ確かめられることなのに。
▼そう言えば、新任の頃、なにかでそのことを知った私は、生卵を買い込んできてHRで「卵立て」をやっていた。
まるで自分が大発見をしたみたいに。
 「日本理科教育史」1970年代を続ける。この時代どんな「理科」が展開されていたんだろう。教科書はどんなだったんだろう。まだ簡単にしか「学習指導要領」に触れていなかった。「年表」からもう一度ピックアップしてみる。

●1977年(昭和52) 7.23 文部省『小学校指導要領』告示。<ゆとり>の時代、総授業時数の縮小。理科は一二年週2時限、三四五六年3時限。<繰り返し教材>を減らす。
・7.23 文部省『中学校学習指導要領』告示。理科の時数を一二年3時限、三年4時限に縮小。公害問題に対処。<身近な事物現象>で興味関心を高めたという。

●1978年(昭和53) 8.30 文部省『高等学校学習指導要領』告示。1982年入学者から順次実施。一年「理科Ⅰ」「二三年「理科Ⅱ/物/化/生/地」とする。

▼70年代から80年代の「理科」は変わろうとしていた。
「探求の学習」が、「科学の方法」に固執するあまり、「日常」からかけ離れてきているのではいう批判が出てきていた。過度な学習負担がおこっているのではと、「ゆとり教育」の時代に入る。
 目に見えての変化は、授業時間数の削減だ。
このときに中学校から「原子の構造」「放射線」は消えるのである。 
▼科学・技術の進歩と「理科」に深い関係があることは今さら確認するまでもないことだ。
しかし、その「関係」の仕方は一様ではない。
「時代」の影響を大きくうけるものなのである。

では、これからの「時代」おける「理科」とは…。

もう一度、中谷宇吉郎『立春の卵』にもどる。中谷は最後に書いた。

 人間の盲点があることは誰も知っている。しかし人類にも盲点があることはあまり知らないようである。卵が立たないと思うぐらいの盲点は大したことではない。  しかし、これと同じようなことが、いろんな方面にありそうである。そして人間の歴史が、そういう瑣細な盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである。  立春の卵の話は著、人類の盲点の存在を示す一例と考と、なかなか味のある話である。  これくらいうまい例というものは、そうざらにあるものではない。  (中谷宇吉郎『立春の卵』1947.2.12 より)  

さあ、久しぶりに今日、明日と卵立てに挑戦してみるかな。

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サイエンスコミュニケーター宣言(123)

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▼今日は節分だ。それにして今朝も冷え込んでいる、一昨日来の寒波はすごいものである、生野峠の向こう側では2m近くの積雪のところもあるという。その幾分かがこちらまでやってきたか。光独り占めのヒガンバナに白いものが舞っていた。
▼1970年代後半の「年表」からのリストアップを続ける。

●1976年(昭和51) 4.1 高橋金三郎/細谷純編集代表『わかる授業』明治図書創刊。~78.11 まで14集発行。
・4.1 高橋金三郎/細谷純/熊沢文雄編『理科教育をどうすすめるか』全五冊明治図書刊。~10月。

●1977年(昭和52) 5.5 板倉聖宣『科学的とはどういうことか』仮説社刊。
・7.23 文部省『小学校学習指導要領』告示。文部省『中学校学習指導要領』告示。

●1978年(昭和58) 4.5 板倉聖宣著『模倣と創造-科学・教育における研究の作法』仮説社刊
・8.30 文部省『高等学校学習指導要領』告示。

●1980年(昭和55) 板倉聖宣著『磁石の魅力』仮説社刊

▼そもそもなんでこんな作業をしているのだろう。
何度でも襲ってくる疑問だ。自分史を書きたいのだろうか。
年寄りの繰り言、数少ない自慢話、帰ることのない思い出話…
そう考えているとなにかむなしくなってくるのだが、それらを全面的に否定しきれない自分がいる。
単なる一般的な「日本理科教育史」なら、それなりの人にまかそう。
ここでは、「我田引水」をわがままに推し進めよう。
私は、1975年に中学校理科教師になった。「年表」にあらわれた「歴史」の渦中にいた。
▼駆け出しの理科教師は拙い実践であろうと「記録」することが大切と思っていた。
T(教師)-C(生徒)のかたちで授業を記録しようとした。一言も聞き逃すまいとテープ起こしをしていた。
今、読み返すと赤面するばかりである。
ありがたいことに、いろんな経緯があって一部残っている。
◆はじめての実践記録

30数年前の「授業記録」を読みかえしているうちに、私は、「これから」のヒントがここに(この事実に)あるような気がしてきたのである。

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サイエンスコミュニケーター宣言(122)

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▼2月に入った。今身のまわりでもっとも元気な植物と言えば、我らが「ヒガンバナ」かも知れない。他の草花が冬枯れで元気をなくしている今こそ、ヒガンバナの葉の季節なのである。定点観測地のヒガンバナだけでなく、見かける田んぼの畔、土手で光を「ひとりじめ」だ。たっぷり吸い込んだ光で栄養をいっぱいつくり、地下の「栄養タンク
」(鱗茎)に貯め込んでいることだろう。
▼よし、ヒガンバナに負けてばかりおれぬ。『日本理科教育史』を追うを続ける。
もうすでに1970年代の科学・技術史の主だったところはあげた。今度は本命の理科教育史である。それを例の『日本理科教育史』(板倉聖宣著)の「年表」から、少していねいに、自分との関わりと興味を優先させながらピックアップしてみる。
●1971年(昭和46) 3.5 クーン(1922~1996)著/中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房刊。原著は1962刊
・3.20  上田誠也著『新しい地球観』岩波新書刊。大陸移動説紹介。
・8.1   板倉聖宣著『科学と仮説-仮説実験授業への道』野火書房(のち季節社)刊。
・11.25 板倉聖宣著『もしも原子がみえたなら』/『空気の重さをはかるには』国土社刊。
●1972年(昭和47) 1.25板倉聖宣著『科学の形成と論理』季節社刊
・5.20 板倉聖宣著『ぼくらはガリレオ』岩波書店刊
・7.10 科教協東北地区協議会編『やさしくて本質的な理科実験(1)』評論社刊
●1973年(昭和48) 1.5 太郎次郎社『ひと』創刊/板倉「科学新入門」の連載を開始
・2.10 板倉聖宣著『火曜日には火の用心-暦に残る昔の人々の知恵と迷信』国土社刊
・4.30 岩波洋造著『植物のSEX』講談社ブルーバックス刊。花粉はブラウン運動しないことを指摘。
●1974年(昭和49) 3.20 高橋金三郎/細谷純編『極地方式入門』国土社刊
・6.29 仮説社『仮説実験授業研究』創刊。全12冊の季刊誌。

▼ここまでピックアップするだけで、その当時のだいたいの「理科教育」の様子が見えてくるのではないだろうか。
「仮説実験授業」「極地方式」の時代。とくくってしまうのは少し乱暴すぎるだろうか。
この翌年に私は、理科教師になったのだった。

<つづく>


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サイエンスコミュニケーター宣言(121)

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▼さあ、2月である。ひと月たって、今年の抱負を思い出す。
それは、
「道楽」「道楽的」!!
であった。もういちど仕切り直しだ。「道楽的」思考最優先で行かねばと心に決める。
▼「日本理科教育史」を追うもそれで行こう。
1970年代に入る。1971年~1980年までを今回は「近代科学・技術に関する出来事年表」からプロットするところからはじめてみる。

●1971年(昭和46) 米・ソ相次いで火星探査機を打ち上げ。マイクロコンピュータ開発(LSIによるCPU機能の実現)。CTスキャナー開発(英)。
●1972年(昭和47) グールド、エルドリッジ(いずれも米)生物進化の「断続平衡説」を提唱。喫煙の害公認。
第一回国連人間環境会議(ストックホルム会議)開催。ユネスコが世界文化遺産・自然遺産保護条約を採択。
●1973年(昭和48) ホンダ、米国大気汚染防止法適合エンジン(CVCC)開発。ワシントン条約採択。【第一次石油危機】
●1974年(昭和49) ポケット型計算機発売(米)。ホーキング(英)ブラックホールについての新理論。
●1975年(昭和50) 米ソ宇宙船初のドッキング。ウィルソン(米)「社会生物学」提唱。

ここまで書いてわかる。時代は地球環境に目が向けられている。そして、そのなかでの『石油ショック』だ。
人々が「宇宙船 地球号」の乗組員であることを自覚しだした時代である。
▼後半を続けよう。
●1976年(昭和51) コラナ(米)転移RNAの一部の合成に成功。米探査機火星に着陸。スーパーコンピュータ開発(米)。コンコルド就航。
●1977年(昭和52) 高速増殖炉「常陽」完成。MRI実用化(米)。
●1978年(昭和53) 世界初の体外受精による出産(英)。日本語ワードプロセッサ(東芝)登場。宮城沖地震。
●1979年(昭和54) 欧州宇宙機関の宇宙ロケット(アリアン)打ち上げ。日本初のパーソナルコンピュータ発売(NECのPC8001)。ウォークマン大ヒット。スリーマイル島原発事故(米)。
●1980年(昭和55) ボイジャー一号土星を探査(米)。天然痘根絶宣言(WHO)。

「スパコン」「ワープロ」「パソコン」「体外受精」「高速増殖炉」「原発事故」と並べば、現代と地続きと言うより、「現代」そのものではないか。「現代」はもうはじまっていた。 
▼では、その時代の「理科」はどうなっていたのだろう。
より具体的に見ていくことにする。
 後半には、自分自身も理科教師として教壇にたっていたのだから。

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