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【お薦め本】『科学と人間の不協和音』(池内 了著 角川書店)

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▼今日ではやくも一月も終わりである。あと40日ばかりで、あの3.11から一年である。
そうそれは、あの3.11からちょうど3ヶ月たった6月11日のことだった。福島の友人Yさんと十数年ぶりに再会したのは。再会した彼は、やっぱり以前のようにいっぱいいろんなことを教えてくれた。そして「これから」を語ってくれた。

・安全寓話に目をつぶってきたツケ
・自分の身は自分が守るしかない
・やりたい事、やるべき事、飽きずに、気長に、黙々と

さすがだ。示唆的であり、なんかモヤモヤしてきたものがすこしだけ晴れたような気分になった。
それから彼が言った「安全寓話」の言葉が少しずつ重みを増してきた。
彼は、そのとき「安全神話」とは言わなかったのだ。そのこと意味とは…。
▼彼の進言に従い、私も「やりたい事」「やるべき事」を「サイエンスコミュニケーター宣言」で追い求めてきた。
それももう120回になった。あと40日ばかりでひとつのくぎりをつけることはできだろうか。
私には、「これから」を聞いてみたい人物がひとりいた。池内了さんだ。
これまでも「等身大の科学」「新しい博物学」で、本を通してであるが示唆を受けてきた。
この人が、3.11以降どのように「科学」を語るのか興味があった。
雑誌等ではいちはやく語っておられたが、それらは断片的であった。もっとまとまったかたちで聞きたかった。
その要望を叶えてくれる本が出た。
◆『科学と人間の不協和音』(池内 了著 角川書店 2012.1.10)
である。
▼自らの文脈で、読んでみた。期待どおりであった。
自分のなかでモヤモヤとしているもの、それを「コトバ」にしてくれていた。
なるほど膝をたたくところをいくつか拾ってみる。
 やはり人々は、科学そのものの話題でなく、科学を巡る「物語」を待望しているのではないだろうか。
このことから、科学者と「素人」との乖離を修復する一つの方法は、科学の「物語」を回復することだと思われる。(中略)科学ジャーナリズムの仕事は、科学の成果の宣伝にあると思い込んでいるようである。しかし、市民は未来への空手形ではなく、人間の営みとしての「物語」を求めていると考えるべきではないだろうか。
それは市民の科学リテラシーを涵養することに直接つながらないように見えるが、科学との距離を小さくし、科学をより身近にすることにつながるだろう。日常の会話の中での科学者のエピソードが語られることが、科学の中身にまで話が及んでいくきっかけとなるからだ。(同書 P56より)

科学を巡る「物語」の有効性は科学教育においてはなおさらなのである。
もうひとつあげてみよう。

 つまり、科学と技術は本来別物であったし、またその役割も異なっていた(いる)ことをしっかり認識する必要がある。そして、科学は文化として役に立つのであり、技術は文明の手段として役に立つことを弁別しておかねばならない。(同書 P72より)
文化はあることが大事であってなければ寂しいものである。自然の真理を探る科学において、その営みが行われていることこそが人間にとって重要だと言えよう。(同書 P73)

「文化」としての科学 こそがこの本を一貫して流れる主旋律なのである。
▼第四章「科学という神話、科学という宗教」も、『擬似科学入門』(岩波新書)の著者だけに現状把握・分析は的確である。説得力をもつのである。「古代の神話」と「言説の神話」をあげての「安全神話」成立のからくりをあきらかにする論はみごとである。
 最後には「地下資源文明から地上資源文明へ」の提言もある。

ともかく、3.11以降の「これから」の「私の科学」と向き合おうとする人は必読である。
いろんな文脈での読み取りの感想聞いてみたいものだ。

私は、今度Yさんに出会うまでに、「安全神話」と言わずに「安全寓話」と言った意味を再度考えてみよう。

 

 


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【Web更新1/29】12-05 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

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赤き実や 顔ゆるみたり 寒のやま
12/01/29 (日)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-05
週末定例更新のお知らせ
 今年になって5回目の更新だ。今週末には2月になってしまう。
2012年も1/12は過ぎてしまうのである。なんというスピードだ!!
週のはじめには、今立っている位置と自分のスピード確認をして、一週間後を想定してみる。しかし、想定どおりだったことなんてまずない。それが生きていることなのかなと思ったりする。

◆表紙画像集2012 人里の植物シリーズ
 週末に扁妙の滝に行った。すごい風景にいっぱい出会った。出会ったすごい風景のひとつをここに貼りつけようと思った。しかし、それはやめにした。
 ここに掲げる画像は、特別のものでなくごくありきたりの「日常」のものにしたかった。そう思って、昨日朝からいつもの定例散策コースを歩いてみた。寒中の里山は色彩を失っていた。
 そんななか赤い実に出会うと、なんともほっとした気分になるのである。こわばった顔もゆるむのである。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新!
 「日本理科教育史」を追う旅も、少し強引だが1970年代に入る。
1970年代は、私自身が「教える側」に立ったときでもある。
よりリアルにその「歴史」を語れるかも知れない。これまでのいろんな資料の「整理」もかねながらすすめたいと思う。あくまでねらいは「これからの理科」の構想にある。
ゆっくり 急ごう !! 

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サイエンスコミュニケーター宣言(120)

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▼土曜日は、定例の大蓮ハスの観察日。蓮根の植え替えから41週目である。特別になにか大きく変化が見られるわけではない。しかし、画像記録としてあげておく。
Dsc_0216 滝にくわしい知人から、近くの「扁妙の滝」が凍っているという情報をいただいた。近くにいながら、まだこの滝の凍っている様をこの眼でみたことがなかった。昼近くの時間になってしまったが行ってみた。
はじめてこの目で見て驚いた。
 その自然の創り出す美しさ、迫力!!しばし、言葉を失った。
▼ここで「日本理科教育史」を追う作業も、自分ですごく面白く感じるときと、あまりそうではないときのムラが出てきた。ときに「なんで、こんな作業をしているだろう?」と疑問浮かぶときもある。
 そんなときは、自分で自分に命じるんだ。
・等身大で行こう。
・やって楽しいと思えること優先させよう。
・「○○すべき!!」よりも「○○したい!!」を優先させよう。
・道楽的だ!!
と。
▼1960年代でもっともっと追い詰めたいこともあるが、1970年代に話を移して行こうと思う。
どうしても必要なら、また60年代にもどってこよう。
1970年代の「歴史」のなかで、もっとも「記録」しておきたいのは
●1975年(昭和50) 公立中学校理科教師になる。中学1年理科を担当。
である。
 私自身の理科教師としての歴史がはじまるのである。
「教わる側」から「教える側」にかわるのである。
ここからは、自分自身の言葉と資料で語ることができるのである。
ありがたい!!
▼このblogで三つの「試論」を展開していた。
・新・私の教材試論
・クラウド「整理学」試論
・新・「自由研究」のすすめ試論
である。
 これらも同時並行ですすめながら、この「理科教育史」を追う作業をすすめたい。
責務としてでなく、道楽として…。

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ウィームシャースト起電機を見た!!

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▼私には、自覚しているだけでふたつの持病がある。
「ばっかり病」と「思いついたら病」である。自覚があるといっても発症しているときは、ほんとうはそうだとわかっていないのかも知れない。後でゆっくり考えてみると、そうだったのではないかとわかる程度の自覚である。
特に後者の「思いついたら病」はそうだ。今、考えるとわかる。昨日はこの「思いついたら病」が発症していたのだ。
▼昨日は、何を思いついていたかというと、「エレキテル」である。
私には、ずっとずっとこだわりを持ち続けている教材がいくつかある。そのなかでも「ピンホールカメラ」と「エレキテル」は特別である。教材試論の方でも「ピンホールカメラ」とりあげながら、そのままになっている。気になっている、絶体に忘れているのではない。もうひとつの「エレキテル」なんて、ほったらかしにしてずいぶん時間がたっている。こだわりはじめてからだと30年近く時間が経過しているかも知れない。
▼「日本理科教育史」を追いかけるなかでも、ちらっとでてきた。気になったが、それはまた別にやろうと思い保留しておいた。そのはずだった。
 ところがそれが、疼きはじめたのである。冬で「静電気の季節」だったからであろうか。それとも1960年代の理科の「教材」は?と、教材のことをかんがえていたためだろうか。
 ともかく私は、「エレキテル」のことが頭に浮かび、あのいつか自分の目で見たいと思っていた「島津の起電機」が急に見たくなったのだ。二代目島津源蔵が若干16歳(15歳という資料もあるが今回は確かめなかった。)で、つくりあげたという「ウィームシャースト起電機」のことは話に聞いて知っていた。
▼初任のころ理科準備室にほこりをかぶってねむっていたあいつだ。ひっぱりだしてきて電気を起こして遊んだ。面白かった。もちろん授業でも使っていっしょに遊んだ。はじめてその「ふしぎ!?」であい驚き感動もした。
その元祖が京都にある。
 「思いついたら」居てもたってもいられなくなった。家を出たのは8時30分頃であった。
「島津製作所 創業記念資料館」の前に立ったのは11時30分前だった。
ちょうどお昼前だった。このまま入れば、途中でお腹がすいて集中できなかったら、せっかく来たのに「もったいない」。コンビニ寄っておにぎりを三個買って、高瀬舟の船着き場(一之船入)でそれをほおばった。
これで万全であった。あこがれの起電機に出会える。
▼創業記念館に入った。入ってすぐのところにはX線装置がおいてあった。国産初の顕微鏡も…。日本初の有人飛揚の気球の話も面白い。…
 せっかく来たのだからどれひとつとして見逃したくなかった。
写真撮影はかまわないということだったので、写真をとりまくった。
お目当ての 「ウィームシャースト起電機」は二階にあった。びっくりした!!大きいのである!!あの理科準備室でみつけたやつより、ひとまわりふたまわり大きいのである。
さすがだ!!館の人に聞いたところではいくつかのサイズのものがつくられていたようだ。
このジャンボ起電機を使ってぜひ実験をやってみたいものである。
▼館内には、それだけでない理化学機器がところ狭しと展示してある。
なつかしい実験器具がいっぱいである。いくら見ていても飽きることはない、あのワクワク気分が堪能できるのである。あのノーベル賞の田中耕一さんのコーナーもある。
「思いついたら病」も少し癒された気分で外に出たときは15時近くになっていた。
▼せっかくだから、近くのもうひとつの場所にいった。
「京都市学校歴史博物館」である。
なかなかすばらしい博物館である。京都の人々の「教育」にかける情熱を感じさせる展示の数々である。
さすが京都の教育!!である。
 私にとっての驚きは、そこだけではなかった。あの「ウィームシャースト起電機」をここでも見たのである。
それも、二台もである。理科実験をしているところの写真もある!!
館をでるとき聞いてみた。こんな「起電機」が京都にはたくさん残されているのか、と。
ここだけでも4~5台あるようだ。他のめずらしい実験機器や写真も残っているようだ。
私は、それを聞いてさらに満足した。

さて、今度はどこで発症するだろう?
この「思いついたら病」。
自分でもわかっていないあいだに発症するから困ったものだ。

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サイエンスコミュニケーター宣言(119)

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▼いつしかきまった方向の空をみあげて、「雲見」をやろうとしている。そうだ まだ昔のように、決まった「雲見」の定点がなかったのだ。一度はこの方向にと決めたつもりでいたが、その方向は太陽の方向から考えてもいまひとつに思えてきた。だから、もう一度検討して見ることにしたのだ。今はまだ検討中!!
 それも空を見上げること多くなっている。安上がりの贅沢だ!!
一日でいちばんきれいな空の夜明け前、昼間の「雲見」、夕方の月と金星、凍てつく透明な夜空の星たち、…
24時間、いつでもどこからでも地球自然観察!!これを見逃すのは「もったいない」すぎる!!
▼その透明な空と相反して、「日本理科教育史」を作業は、きわめて透明度を失っていた。
もたついているのだ。自分が生きてきた時代だから、皮膚感覚でわかることがあるのではないか、「記憶」の断片が頭のどこかにあるのではないか、そんな見込みがいつしかこれまでの客観的視座を失わせていた。
「わかっているつもり」「知っているつもり」これがいちばん危険だ!!
▼主観的視座は今一度保留にしておいて、これまでと同じ作業をやってみよう。
1960年代の「科学」をもう一度、例の『近代科学・技術に関する出来事年表』(村上陽一郎著『人間にとって科学とは何か』より)からていねいにプロットしなおしてみよう。

●1961年(昭和36) ガガーリン(ソ)初の有人宇宙飛行。西独でサリドマイド禍発覚。
●1962年(昭和37) 東海村国産原子炉JRR3稼働。カーソン『沈黙の春』。世界初の通信衛星テルスター(米AT&T社)。富士ゼロックス国産コピー機。NEC国産大型電子計算機1号機完成。
●1963年(昭和38) プレートテクトニクスの実証。クエーサーと赤方偏移の発見。黒部ダム完成。水俣病の原因解明。
●1964年(昭和39) ゲルマン、ツヴァイク(いずれも米)がそれぞれクオーク理論。
●1965年(昭和40) ベンジアス、ウィルソン(いずれも米)宇宙の3K背景輻射の発見。集積回路(IC)をもつ第三世代コンピュータの開発(米)。国鉄電子化(緑の窓口)。カオ(米)通信用光ファイバーの実用化に貢献する提案。
●1966年(昭和41) ルナ9号(ソ)月面着陸。マンモスタンカー時代の到来。
●1967年(昭和42) 南アで初の心臓移植手術(なお人工心肺の開発・実用化は53年)。ワインバーグ(米)の統一場の理論。バルサーの発見。ソューズ・サリュート・プログレス計画(ソ)。
●1968年(昭和43) 「和田心臓移植」事件。ポケットベル実用化。水俣病公害認定。
●1969年(昭和44) アポロ11号月面着陸(ニール・アームストロングによる月面探査)。住友銀行日本初のATM。東名高速全面開通。B747実験飛行(ジャンボ時代)。インターネットの誕生(米国防省)
●1970年(昭和45) 国産衛星「おおすみ」打ち上げ。日本で光化学スモッグ認知。スモン病因解明。この頃から世界的に環境問題への認知が高まる。

▼やっぱりそうだ。こうしてみると60代の「科学・技術」が今日つながっていることが見えてくる。そして、その科学・技術の進歩が、当時の「理科」に何を要求していたのかが少し見えてくる。
「系統学習」から「探求学習」への必然はここにあったのだろうか。
理科室の「理科」を通して、どのように未来の「科学」は見えていたのだろうか。
もう少し時間をかけてみよう。


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サイエンスコミュニケーター宣言(118)

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▼そう それらは隊列を組んで生野峠の方から進軍してきているように見えたのだ。昔から言われてきた「生野峠越えるときは、弁当忘れても傘忘れるな」とは、この季節の話なんだろうか。ついには夕方には、少しだけ雪を落としたようだ。
▼「日本理科教育史」を追う、1960年代で少し立ち止まっていた。
「教わる側」の「理科」の記憶を思い出そうとしていた。しかし、何も思い出さないのだ。
これはどうしてなんだろう。そんなに優秀な生徒であったわけではないし、勉学に集中し努力をしていたわけではないので、それを言われるとそれまでなのであるが。
なぜだろう?そのこと自体が「ふしぎ!?」だ。
「鉄腕アトム」
「鉄人28号」
「新幹線スタート」
「アポロ11号」等々はどう「理科」とツナガッテいたのだろう。
▼このころの「理科」は、すでに「科学を教える教科」になっていたのだろうか。
まだ、日本の「理科」は「理科」のままだったのだろうか。
戦後の理科教育は、「生活単元学習」「問題解決学習」から「系統学習」へ。
さらには「探求学習」へと進もうとしていた。
 それは、あくまで「教える側」の「理科」の歩みであり、現実に全国の理科室での「理科」はどのように歩もうとしていたのだろう。それが知りたい。
 そのころの「理科」を記録したものが知りたい、見たい!!
▼我田引水だ。理科はほんとうに面白い教科である。
その知りたい「歴史」は、教材としてモノに記録されているのである。そのころに行われていた実験や教材をみれば、そのころの「理科」が見えてくるかも知れないのである。
そこで…。
  

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サイエンスコミュニケーター宣言(117)

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▼「雲見」という、自然観察はいちばん簡単にやれる。空を見上げればいいだけだ。でも、それはとても奥が深い!!面白い!!
 昨日の「雲見」そうだった。生野峠を越えてやってくる風は恐ろしく冷たかった。この大陸からやってくる冷たい風が日本海渡るときに…と考えていると、あの「上がるとザアザア(シンシン)」を久しぶりに思い出した。
「雲見」していると、次々といろんなことがツナガッテ見えたりする。それが面白い。
▼今朝も恐ろしく寒い。
1960年代の「理科」を追ってみる。昨日は、「教える側」の「理科」を、手にすることのできる書籍のタイトルでおってみた。考えてみると、私にとっては生徒として「教わる側」の「理科」であったのである。 
小学校・中学校・高等学校がすっぽりと60年代にはまってしまうのである。
●1964(昭和39) 10.1 東海道新幹線スタート。10.10 第18回オリンピック東京大会。
●1965(昭和40) 10.21 朝永振一郎ノーベル物理学賞受賞
●1969(昭和44) 7.21 人類初の月面着陸、アポロ11号。
などと年代を拾ってみると、それはそんな昔のことでなくなるのだ。
しかし、できの悪かった私は、特別の「科学少年」だった記憶がない。強烈に印象深くおぼえている実験・観察も咄嗟にはでてこない。
▼今すぐ、その当時の「理科」を物語る誰もが参照できる資料に例の学習指導要領がある。
1958年(昭和33)の学習指導要領についてはすでに見た。
「系統学習」「近代化」「教材の精選」「中学校2分野制」などがキーワードであった。
60年代の後半にはそれはまたかわるのである。
●1968年(昭和43) 7.11文部省『小学校学習指導要領』告示。理科では<内容の精選/集約>を実施。<卵の孵化>を採用。<ばねの釣り合い>の文章は不適切。

●1969年(昭和44) 4.14 文部省『中学校学習指導要領』告示。理科では<探求の過程>重視を強調。
<基本的な科学概念>の語の乱用。教材の精選のため小項目を大幅に減らす。

いわゆる「探求の理科」のはじまりである。
▼これだけでは、まだまだ見えてこない。
なにを願い、どんな教材開発していったのか。そして、なにより現代とどのように「地続き」であるのか。
さらに角度をかえてみてみよう。

さあ、明るくなったら路面はどうだろう。
雪はどうだろう。 


                  

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サイエンスコミュニケーター宣言(116)

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▼やっぱりそうだ。いつもの自然散策のコースから色が消えている。無彩色の風景が続いている。
そう思って周りを見渡しながら歩いていると、藪のなかに日が差し込んで、そこにパッと灯りがついたようにツバキの花がひとつ見えた。その瞬間気持ちにまで灯りがついたように思えた。
▼『日本理科教育史』を追う旅をつづける。
1960年代に入ろう。
・日本の理科教師たちは何をしてきたのだろう。
・日本の理科教師たちは何をしようとしてきたのだろう。
その「歴史」を追ってみよう。本来ベースとしていた『日本理科教育史』付録の年表にもどる。
その年表の1961年~1970年で
・手元にあっていますぐ読むことができる書籍
・それに関連しそうな出来事
をピックアップしてみる。
▼これはあくまで私の個人レベルの話で、別の人が見ればまったくちがうものをピックアップするだろう。
●1961年(昭和34) 9.11~15 PSSC関係者、日本の代表的物理教育関係者約50名にPSSCについての講義セミナーを東京で開催。
●1962年(昭和37) 2.△ 高橋金三郎『授業と科学』麦書房刊
・4.1 中学校新学習指導要領全面実施、理科は二分野制となる。
・6.△ 真船和夫『理科教授論-自然科学教育の内容と方法』明治図書刊 
●1963年(昭和38) 8.3 科学教育研究協議会大会で仮説実験授業を提唱
●1964年(昭和39) 3.1 板倉聖宣/江沢洋共著『物理学入門-科学教育の現代化』国土社刊。
●1965年(昭和40) 6.10 中原正木『科学をこう教える-自然科学教育の本質とその展開』国土社刊。
・10.26 板倉聖宣/上廻昭 『仮説実験授業入門』明治図書刊
●1966年(昭和41) 11.10 板倉聖宣『未来の科学教育』国土社刊(国土新書)
・12.△ 仮説実験授業研究会創立
●1968年(昭和43) 3.1『日本理科教育史(付年表)』第一法規刊
・4.△ 明星学園理科部著『自然科学の教育』麦書房刊。
・8.△ 中原正木『生物学教育論』国土社刊。
●1970年(昭和45) 4.15 明星学園理科部著『自然科学(1) 物質概念の基礎』麦書房刊。

▼ピックアップするだけの作業でずいぶんと時間がかかってしまった。
それぞれのなかみ、実際の授業については次からにする。
ゆっくり 急ごう!!

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【Web更新1/22】12-04 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

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春まだか ころがりたる実 つぶやくや
12/01/22 (日)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-04
週末定例更新のお知らせ
 ふっとこの頃思うことがある。なんで、私は同じようなことをこんなに永く続けているのだろう?と。
本来あきっぽい性格で、なんでも中途半端であまり長続きしなかったはずなんだけど、ことネットに関してだけはちがうんだ。ほぼ同じスタイルで20年以上つきあってきている。
 アクセスする時間帯までほぼ同じだからびっくりしてしまう。もうそれはすっかりライフスタイルのなかに溶け込んでしまっていた。今いちばん心がけていることは「やりすぎない」ことだ。
ついつい面白くなって「あきるまで」やろうとしてしまうことだ。
時間をきめてどうしても「やってしまう」ことだけに限定しようと思う。今週の「どうしても…」はなにかな?

◆表紙画像2012 人里の植物シリーズ ドングリ
 発想がそんなに豊かでない人間は、自然のなかでやっぱり心ときめくものと言えば、いろ鮮やかな花や実である。この季節はほんとそれが少ない。
 無彩色の世界、それがこの季節の魅力かも知れない。いつも散歩コースあるいていたら、あらたにできた川沿いの土手に、いっぱいドングリがころがっていた。ドングリたちが、「春はまだか」と会話しているようだった。
今年の秋こそ「どんぐり探検」やろうと決意する。

◆「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!
 「日本理科教育史」の旅も、今週はいよいよ1960年代に入る。
1960年代の日本の理科室では、どんな理科の授業が展開されていたのだろう。どんな実験・観察をやっていたんだろう。これはちょうど自分自身が生徒としてうけてきた「理科」でもあるのだ。
どんな展開になるのか自分でも楽しみである。 

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サイエンスコミュニケーター宣言(115)

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▼それは、大賀一郎が68歳の春だった。1951年(昭和26)三月三十日、千葉県千葉市検見川の泥炭層から約二千年前の古蓮の実を得たのは。
 それから61年経って、その末裔が我が家の庭の「大賀ハス観察池」にある。そこには、ここの大賀ハスだけがもつ固有の「歴史」があり、この大賀ハスの「大賀ハス物語」がある。それが面白いのだ。
 昨日は、定例大賀ハス観察日だった。蓮根の植え替えから40週目であった。観察池の水が少なくなってしまってどうしようかと思っているとき、冷たい雨が降ってきて貯めてくれた。地下の蓮根は水を欲しているのだろうか。
▼昨日は、またひとつの「歴史」がはじまった。
「日本サイエンスコミュニケーション協会」設立の記念シンポジウムが行われたのだ。
USTで参加できるというので、訪ねてみた。
最初は機器の調子がいまひとつでよく聞き取れなかった。途中から聞こえるようになった。それぞれ立場のちがう人々がこれからの「サイエンスコミュニケーション」を語っていた。
 話を聞いているうちに、あの昨年の11/20サイエンスアゴラ総括セッションに味わった疑問と違和感に見舞われた。
 それらに自分なりの答えをみつけたくてはじめたのが、今すすめている『日本理科教育史』を追う作業だったのだ。再度自問してみた。
・私はサイエンスコミュニケーターか?
▼私は、私のやりかたで「歴史」を追う作業をつづけよう。立ち止まっている暇はない。
ついに『教育実践検討サークル~創造する東北の教師たち~』 (中村 敏弘著 国土社 1975.11.5)と年表『あるサークルとゼミの歴史』年表を読み終えた。四回目であった、五回目はあるだろうか、今はわからない。
今回も学んだところいっぱいあるが、具体的なこれからの作業に結びつきそうなこととして、「年表」のことがある。
「あとがき」のなかで中村敏弘氏はこう言った。

 この仕事は、そのあとをついでいる私たち若いものがしなければならないことであるが、莫大なエネルギーを必要とする困難な作業である。そのためか、いまだに手がつけられないでいる。貴重な月日は刻々と過ぎ去っており、やがて歴史は埋もれてしまうかもしれない。いま、誰かが、どこからか手をつければ、それを足がかりとして、他の人が前にのばし、横にひろげることができる。この「歴史」はその役に立つであろう。(同書P590より)

 これまでに何度か決意し、いつしか心が萎えて断念してきたこと。
「年表」をつくる=「歴史」を時系列に記録する。
この作業にとりかかろうと思う。
▼できるだけ小さな等身大の「年表」づくりからはじめよう。
ひとりの作業ではなかなか困難な仕事も、共同でやれば可能かもしれない。
その作業をすすめるなかであらたな楽しみが生まれるかもしれない。
まずははじめてみよう。
来年で【理科の部屋】は、ちょうど20年の「歴史」をもつこととなる。
そこで
◆【理科の部屋】20年史作成
にとりかかりたいと思う。とんでもない困難が待っているかもしれない。
思わぬ挫折があるかも知れない。
 しかし、はじめなければすすまないのだから…。

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サイエンスコミュニケーター宣言(114)

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▼今日は大寒である。確か寒い。
朝起きてからもまだ続けていた。あの「あるサークルとゼミの歴史」年表を。
もうそろそろこの年表をながめ、チェックする作業も終わりが近づいてきた。
この年表は、3段になっている。
上から「サークル・ゼミ」「宮城県・東北」「その他」である。
「その他」のところにあげてあるのは、全国的な教育界の動きである。
面白いのは、この三段がインタラクティブに連動しているところである。
ほんとうの「歴史」は、一方通行だけでつくられるのではないということだ。
▼三段目の「その他」の最初と最後をあげてみよう。
●1951年(昭和26) 三.・五 無着成恭『山びこ学校』(青銅社)

●1960年(昭和35) 一一・△ 遠山 啓他 『水道方式の計算体系』

なんとも象徴的ではないか。
1951~1960年の10年間とは、そんな時期なのである。
脈々と引き継がれてきた「生活綴り方運動」、あらたにはじまった民間教育運動の展開。
すべてが動き始めていた。
戦後の理科教育も胎動をはじめた時期なのである。
▼そのころからの大きな課題であった。
「授業研究をどのようにすすめるか」
具体的に日々の授業をどのようにすすめるか。アタリマエとアタリマエのことである。
授業こそが、教育実践の最前線である。これは、時代を超えた真実である。
だからと言って、こんなことお題目のごとく何度唱えようと「授業」がうまくなるわけではなかった。
教える人間も、より多くを学ぶ必要があったのだ。
どんなかたちで学んでいったのだろう。この著『教育実践検討サークル~創造する東北の教師たち』の最後の方には、「実践検討会」のことがかなりくわしく触れてある。
・実践記録には何を書く必要があるのか。
・実践記録から何をまなぶのか。
・授業そのものの記録はどのようにするのか。
等など
▼読み進めるうちにちょっと唖然とした気持ちになる。
私の理科教師の歴史は1975年にはじまる。それがはじまる20年近く前からそんなことが課題になっていたのかと!!
 私は、この著を四回目読んでいる。
一回目と今回では、また違った読みができる。
今回の文脈での読みでは、「これからの理科」のヒント・アイデア集みたいなものだ。
今日中には読んでしまうことにしよう。

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サイエンスコミュニケーター宣言(113)

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▼60歳最後の日の昨日、冷たい雨が降っていた。道楽的の楽しみのデジカメ自然観察は思うようにはなかなかすすまない。しかし、レンズを向けるたびに、私にとっての「発見」があるのがうれしい。
 降った雨の水滴が、庭のナンテンの実から落ちる、その瞬間の姿を見たくてしばらく冷たい雨の中に立っていた。水滴が落ちるだけのことだが、とってもきれい見えた。この美しさは、新しい「発見」だ。
▼まだまだ、半世紀以上前の「記録」に目を通していた。
そして、ここでも新しい「発見」をしていた。かっ
「記録」者である中村敏弘先生が今度は「手紙の役割」について書いていた。
あまりの「大発見」!!に感動したのでながく引用させてもらう。

私たちが教育研究をすすめるときに、その場としてサークルを持ち、また教研集会や民教研の研修会に参加して実践報告をし、討論する。また、本や雑誌を読み、実践記録を発表をする。これらのことは、それぞれに大切であり、有効である。しかし、そうした方法の中で手紙の持つ役割というのは、意外に知られていないような気がする。
 その昔、学会や学術雑誌のなかった時代の、科学者たちの間に交わされた手紙をひきあいにして、その重要性・有効性をいまここで述べようというのではない。現実に、実践報告が綿密に検討されて意見が述べられたり、質問がていねいに答えられたりすることが、手紙によってなされているということを言いたいのである。高橋の手紙がその一つの例である。私たちは実践報告を読んだときに、せめてその感想をできれば問題点の指摘をして報告者に書き送ることを、しなければならないのではないだろうか。また、求めていいのではないだろうか。
教室で教えているうちに疑問に感じたこと、わからないことを、どんどん手紙で質問すべきでないだろうか。手紙を有効に使うにはもらった手紙をとっておくだけでなく、自分の書き送る手紙のコピーをとっておくことも必要である。
 (『教育実践検討サークル~創造する東北の教師たち~』中村敏弘著 P319より )

何度でも言おう!!事は半世紀以上前のことが書かれているのである。
なんという今日的提言であることか。今朝起きたら、メールボックスにこれがメールになって入っていてもなんの違和感もないだろう。いや、寧ろ状況判断の的確な「提言」と受け取るだろう。
▼この「提言」の実現ということでは、今日の通信状況は、これらをより豊かに安易に実現してくれる状況にあるのではないだろうか。かつての郵便の「手紙」のほうがよければ、もちろんそれも可能である。
「手紙」を「電子メール」と読み替えるなら、画像、動画を添付してということも比較的簡単にできるようになっているし、メールの共有をしながらということではMLの利用という方法も考えられる。
さらには、ソーシャルメディアを範疇に入れるならば、SNS、Twitter、Facebookなどの活用も考えることができるだろう。
 そんな場がない。あったがなくなってしまった。
すでにあるけど、ピタッと気に入るところがない。…
ならば、創ればいい!!
何度でも作りなおせばいい!!

261日もエサなしで生き延びたコウガイビルが教えてくれた。
生きるとは つくりかえること!!

              61歳をむかえた朝に思うこと。

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サイエンスコミュニケーター宣言(112)

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▼昨日の「一日でいちばんきれいな空」には、月のオマケもついていた。冷え込んでいるぶんそれだけ、空も透明度をましているのだろうか。朝に限らず、一日中空がきれいな季節だ。
 いつしか、最大の趣味にしていた「雲見」を忘れる日々をおくっていた。こんな「もったいない」ことしたら、人生の半分の楽しみ損してしまう。「雲見」の定点観測地がまだ固定されないんだ。以前のような絶体的「定点」がまだみつけられないんだ。
▼面白いことと言えば、「雲見」に勝るとも劣らないのが、ヒューマンネットワークが構築されていくさまを見ることである。「あるサークルとゼミの歴史」の最高に面白いのは、そこである。
 それまではまったく知らない者同士が、あることをきっかけに「出会い・響き合い・学び合い・高め合う」のである。この人と人がつながりあらたなネットワークが構築されていくさまは、まるで「新世界」の始まりである。
▼多くのヒューマンネットワークの流れが、このあたりを源流として流れだそうとしていた。
それはヒューマンネットワークの流れだけではなかった。戦後の理科教師の物質観・科学観の源流もこのあたりにあったのだろう。
 この年表にもしばしば登場する田中実氏は、できたばかりの科教協で「物質不滅の法則」を核とするような物質学習を唱ていた。原子論的物質観のはじまりである。物質観・科学観の源流がここにあったといってもいいだろう。
▼ちょっとだけ時間を飛躍してみる。
その田中実先生は、最晩年子ども向けに書かれた『原子の発見』(田中実著 ちくま少年図書館43 科学の本 1979.8.25)の最後に次のように書かれた。

このようにして、現代の化学の土台がつくられた。それ以来70年間の化学の進歩のことは、べつに勉強してほしい。 原子の結びつき方の研究は、どのように進められたか。 原子・分子のじっさいの姿は、どのようにたしかめられたか。 これらの知識は、工業の上で、どのように利用されるようになったか。 原子のなかみの研究から、どのようにして原子力の利用の糸ぐちがつかまえられるようになったか。 生命の秘密は、化学によって、どのように解かれようとしているのか。 化学の産業上の応用がひろまった結果、どんな社会問題が起こったか。 このように、たいせつな、おもしろいたくさんの問題が、きみたちの勉強をまっている。 (『原子の発見』、付録P17より)

この宿題は、子どもだけに発せられたのではない。
遅れてやってくるすべての理科教師に向けて発せられた宿題だったのかも知れない。
それから数えても、もう30年を越えていた。
今を生きる理科教師よ!!
ゆっくり 急ごう!!


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サイエンスコミュニケーター宣言(111)

▼今朝起きて、外に出て見たら凍てつく寒の空に月がとってもきれいだった。月の姿かたちが変わっていくのを見るたびに、月日が確実に過ぎていっているのを感じるのである。
「日本理科教育史」を追いかけ始めてもだいぶん時間がすぎていた。
 まだ1951~1960年の10年間を「あるサークルとゼミの歴史」年表で追うこと続けていた。
ほんとうにいろんなことが詰まりすぎていて、先へはなかなかいかないのだ。
▼なかでも古典ゼミの記録は圧巻である。
・ファラデー『蝋燭の科学』(7回)
・ガリレオ・ガリレイ『新科学対話』(20回)
・ダーウィン『種の起源』(47回)
・パスカル『科学論文集』(12回)
科学古典ゼミだけで、通算86回である。これは、古典ゼミにかぎっての回数である。別途サークル例会はもたれている。1956年1月から1960年5月までの約5年間のあいだにである。
驚異のペースである。現職の教員がである、当然そこに大きな「学び」「学び合い」があった。
なによりすごいのは、古典ゼミで学んだことと日々取り組んでいる授業と結びつけようとしているところだ。
▼久しぶりに「近代科学・技術に関する出来事年表」のこの1951~1960年の10年間をリストアップしてみる。

●1952年 福井謙一フロンティア電子理論。アメリカが初の水爆実験、ソ連(53)、イギリス(57)、中国(67)と続く。
●1953年 ワトソン(米)、クリック(英) DNA二重らせん構造の発見。
●1954年 カラーTV放送開始(米)。
●1956年 ビデオテープレコーダーが発売(米)
●1957年 バーディーン(米)ほか超伝導理論。ソ連がスブートニック打ち上げ(大陸間弾道ミサイル・ギャップ論争)。東海村に「原子の火」がともる。
●1958年 江崎玲於奈、半導体におけるトンネル効果。ジェット機時代(DC8、707、コメット4型などの開発・就航)。
●1959年 リーキー(ケニア)によってアフリカ猿人の化石が発見される。IBM1401を基本モデルとする第二世代のトランジスタ・コンピュータ開発(米)。
●1960年 経口避妊薬の開発(米)。レーザーの発明(米)。気象衛星(米)。セービン(米)によるポリオワクチンの開発。
今日につながる科学・技術の歴史が着々と進んでいることがわかる。そして、それらは「理科教育」に影響しないわけがなかった。
▼科学・技術史と少しのタイムラグがあって、理科教育が変容していくのがわかる。
そのタイムラグの大きさを決めているものはなんだろう。
知れば知るほどいろんな疑問がわいてくる。

もう少し「日本理科教育史」の方もすすめていこう。


 

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あれから17年の歳月が!!そして…

▼1995.1.17の朝も、私は今と同じようにパソコンにこうして向かっていた。すでに、パソコン通信【理科の部屋】はたちあがっていた。1993.11.23に【理科の部屋】はスタートしているから二度目の正月をすぎ、ますます情報発信が盛んになるころであった。この日あの瞬間から、既存のメディアが復旧するまでに時間がかかった。
 そのとき、まだまだ盛んだったパソコン通信が活躍した、そしてインターネットがいっきに注目されだした。だから、この年をイーターネット元年とも呼ばれる。その年の夏の終わりにインターネット版【理科の部屋】ははじまった。
▼それでも、私自身はしばらくのあいだ、ネットへの書き込みをひかえた。なかなかその気持ちになれなかったのだ。「哀しみを超えて」と発信を再開したのはしばらく後であった。
情報発信再開と同時にやりはじめたことがある。
『変動する日本列島』(藤田和夫著 岩波新書)をテキストにしたオンライン学習会だった。
半年つづけた。(95.4~95.10)  そのなかで、あらためて私は学んだ。
「地震は自然の営みのアタリマエとしおこる。あの山も海も大地も、そのアタリマエの結果としてある。」
「科学は「くらし」とつながっていなければ意味がない」
ならば、理科教師としてなすべきことはなにか。
この自然の営みのアタリマエを「科学」として、授業で扱い教えること。
▼そこで多くの人から学んだをことを集積して、自分で納得できる授業をつくりあげようとした。
授業【大地の動きをさぐる】
がそれである。まだ、まだ道半ばである。
より具代的に、リアルに「くらし」のなかでと思っていた。
そして、あの3.11があった。
▼今度は、今を生きる理科教師として、なすべきことを「サイエンスコミュニケーター宣言」に込めた。
今、はじめたばかりとも言えるが、それでも急がねばならないこともある。
今しかできないこともある!
もうすぐ3.11から一年になるのだから 

「1.17」、「3.11」を体験した理科教師にはぜひとも今、やっておかねばならないことがあるはず。
もうすぐ、17年前のあの時間だ!!
合掌 そして… 

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【Web更新1/15】12-03 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

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小正月の 陽も届くや 棘の芯
12/01/13 (金)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-03
週末定例更新のお知らせ
 また、新しい一週間のはじまりである。今週の終わりには誕生日が来て61歳となる。
だから、今週は60歳最後の週ということになる。今なお、ずっと「整理」を続けている。
「空間の整理」・「情報の整理」である。愕然とすることがあるそれは同じような「失敗」を懲りもせずに繰り返しているのである。でも、少し見方を変えればそれは、そのことに強い「こだわり」を持っているということであろう。
「同じ失敗」のように見えることも、詳細に見ると、時間が経過するとまたちがった方法でリベンジしているのである。そうなんだ、これが「結果」だと見るから失敗なんだけど、これがプロセスだと見ると、「よし今度は、この方法で…」とはじめての「挑戦」の途上に見えてくるのである。

◆表紙画像集2012 人里の植物 タラノキ
 「人里」というのは、なんともいい響きだ。人工の自然でもなく、手つかずの自然でもなく、適度なひととの関わりのなかの「自然」。その「適度な」のものさしはあるのだろうか。
誰もが共通の認識としているような「ものさし」だ。不勉強な私はそれを知らない。我流の「ものさし」を勝手につかっているだけだ。
 去年の春に、その存在に気づいたタラノキ、寒中は棘まで凍り付いているようだった。
タラの芽のみどりが見えるのはいつのことだろう。今年こそは…。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新!
 「日本理科教育史」を追うは、年代的には足踏み状態だが、なかみとしては、この作業の最も核心部にきているように思う。このあとどのようにして自分が理科教師だった年代につないでいくか。
 まだ、自分でもよくわかっていない。ただ予感として、多くの人との共同作業が有効なのかも知れないと思っている。アーカイブはいろんなところに眠っているように思う。


 

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サイエンスコミュニケーター宣言(110)

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▼昨日の夕方は「とんど」だった。しめ縄などを燃やした、もちを焼き、ぜんざいをよばれた。2012年もこれで「小正月」をむかえていた。昔ながらの行事である、私の知るだけでも時代によって少しずつ規模もかたちも変えていた、しかし火を焚きモチを焼きは変わらない恒例の行事である。こんな「不易と流行」を繰り返しながら歴史はすすむ。
▼私の、『日本理科教育史』を旅は、ピタリと時を止めたかのようである。
「あるサークルとゼミの歴史」の1956年・1957年あたりで止まってしまっているのである。いや、それは正確ではない。「記録」があまりにも豊富で、それを読み取るのに時間がかかってしまっているのである。
私自身は、その「記録」から20年以上後にならなければ教師にならないのだが、私自身が体験したようなことがいっぱい書いてあるのである。ひょっとしたらその「不易と流行」は今も繰り返しているのかも知れない。
▼「記録」から学ぶことは、またここへもどってきてあげることにして、時代を先にすすめておくことにする。
例の「年表」は
●1960年(昭和35) 10.1 中村、白石中より角田女子校に転任
で終わるのである。
「歴史」においては、いつも「終わり」は次なる「はじまり」であった。
はじまったのは『理科通信サークル』である。
▼私が大事に大事にしてきた資料に『代謄写 中学校理科サークル通信ノート』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲがある。少しオオバーに言わせてもらうなら、戦後の理科教育史上、最も貴重な資料である。
このはじめに書いた高橋金三郎氏の「呼びかけ」の文章は半世紀の時空を超えて、今も「理科教師魂」をゆさぶるのである。

この理科通信サークルは次のような動機で始められました。

1.理科教育研究は現場の教師を主体にしなければならないが、教師は研究者として認められていないために、相互交流の機会が少ない。年一回の大会では不十分である。

2.大会自体の運営がおかしく、現場の実践をおしすすめるためのきめこまかなものになっていない。もっとザックバランに何でも話し合えるサークル的雰囲気がほしい。

3.創造的な教育研究をやろうとすると、どうしてもひとりぼっちになるし、失敗も多くて、くじけてしまう。どこかで仲間が絶えずはげましていてほしい。

4.研究をそのまま発表するのでなく、それ以前にチェックされたり、援助されたりして、できるだけレベルの高いものにして発表したい。
 
  (中略)

 こうした事情を見聞するにつれ、どうにかして手軽な手段で最初に書いた願いを満たすものをという気持ちが段々強くなりました。そして思いついたのが、この通信サークルノートの回覧です。そのBack Groundには次のようなことがありました。
1.東北大学で理科の通信教育に従事して非常に有益だったが、同時に受講者間の交流がないために無駄な労力が払われた。
2.第一線の科学者は航空便や電話で国際的に日常の研究を交換している。学会はその決算日にすぎない。現場の教師でも手紙を出す暇はあるだろう。
3.1:1の手紙の交換(ラブレター方式)は有効だし、これからもすすめられねばならないが、研究集団組織を強化していくためには、semi-publicのノートの回覧の方が有効である。多くの変わった角度からの意見が出る。
4.ひとつのサークルに沢山の人をいれていけば、その人が中心になって多くのサークルができてくるだろう。
5.学生時代のクラブ活動で、部屋に厚いノートがあり、各人が勝手なことを書いているうちに連帯感が強められたし、普通の勉強では得られぬ多くのことを学習した。



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お薦め本 『情報の呼吸法』(津田大介著 朝日出版社)

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2011年11月20日(日)、私はサイエンスアゴラで東京・お台場にいた。そして、2時間近く至近距離(2~3m)にいて、この人が吐き出す「情報」を誰より真っ先に吸った。テーマは「検証・原発震災報道 メディアはどうリスクを捉え伝えたか」であった。彼の発言はきわめて冷静で的確だった。もっとも本質的なところをすでに見た来たような発言をした。それはソーシャルメディアを代表しての発言だった。3.11以降すぐさま「自分にできること」「自分にしかできないこと」をあきらかにして動いた。動いてきた人間の誠実さとリアリティが、彼の発する情報にはあった。
ホンモノの津田大介は予想通り魅力的な人間だった。
▼前著『Twitter社会論』において、これは後の世でTwitterとはなんであるあるかを語るときの「原典」となるだろうと感じた。このときから、私は津田大介という人のファンになった。いつかは、生のこの人にあいたいと思っていたのが実現したのが、昨年のサイエンスアゴラだったのである。
今度は、その人の新刊が出たというのである。読まないわけにはいかないだろう。
◆『情報の呼吸法』(津田大介著 朝日出版 2012.01.15)
昨日の夕方に届いた。やっぱり予想通り面白い!!いっきょに読んでしまった。
共感するところが多い。「共感する」とエラソウに言うのも恥ずかしいが。ポンコツ理科教師と今や「時の人」と、同次元で語るも変な話しであるが、それをなんなくやってしまうのもこれまた「ソーシャルメディア」のなせることとしておこう。
▼私は、Twitterをはじめて今日で、844日目になる。
ある時期から、Twitter的を強く唱えるようになった。
Twitter的=「リンク」「シェア」「フラット」「等身大」「リアルタイム」
5つのキーワードをミックスしたような概念、哲学、方法をTwitter的とよんだ。それは必ずしもTwitterそのものをあらわすものでなく、ソーシャルメディア総体をさすものかも知れない。
ひょっとしたら、「未知」のメディアかもしれない。
この度、この著読みながら私は、Twitter的に、もうひとつの6番目のキーワードをつけたくなってきた。
それは、「行動」または「アクティブ」というような言葉だ。
▼目次だけを追うだけでも、この人の文脈が見えてきそうだ。
第1章 情報は行動を引き起こすためにある
第2章 情報は「人」を回路にして取り込む
第3章 情報は発信しなれば、得るものはない
第4章 ソーシャルキャピタルの時代がやってくる

「情報は発信しなければ、得るものはない」なかなかいいフレーズではないか。表紙にも使われているところを見ると、きっとお気に入りのフレーズなのだろう。
そして、それは「情報呼吸法」の最大の鉄則とみられたのだろう。
これぞ、私たちがずっと唱えてきた「情報は発信するところに集まる」ではないか。共感である!!
最後には、構築してきたソーシャルキャピタル(人間関係資本)のうまい「棚卸し」を呼びかけておられる。
 その呼びかけに応えて、私もいよいよ長年のソーシャルキャピタルの「棚卸し」の時期だ。
ゆっくり 急ぎたいと思う。


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サイエンスコミュニケーター宣言(109)

「あなたは空気に重さがあることを知っていますか?」
「あなたは、その空気の重さを測る実験をしたことがありますか?」
今朝起きてから妙な衝動にかられている。このふたつの質問を日本国民すべての人に聞いてみたい。
いったい何%の人が「はい」と答えるだろう。もっとも身近な物質「空気」はモノとしてとらえられているだろうか。
特に知りたいのはふたつ目の実験についてだ、何%の人が「空気に重さがある」ことを認識する実験をやっただ
ろうか。それが無性に知りたい!!
▼なぜ、そんなことを思ったかというと、やっぱりあの『教育実践検討サークル~創造する東北の教師たち~ (中村 敏弘著 国土社 1975.11.5) 』であった。1957年(昭和32年)3.24第20回でガリレイゼミを終えている。いくつもの成果と一緒に「反省点」をあげている。そのなかに「空気圧入法」で空気の重さを測る実験のことが出てくるのである。(p187~p188)
それを少しなぞってみるとこうだ。
●1960年(昭和35) 『中学校理科サークル通信ノート』 高橋金三郎自己紹介でお便り紹介というかたちで「佐藤信正さんの自転車のチューブのバルブをビールの空き缶に半田付けした方法」を紹介する。
●1961年(昭和36) 1961年2月『理科教室』に報告。全国に知られた。
●1972年(昭和47) 『やさしく本質的な実験集1』(科教協東北地区協議会1972.7.10 評論社)鈴木清龍「13.空気の重さ」(圧入法による) p46 明星学園 遠藤豊氏の方法も紹介

 「実験法の改良ひとつとっても、そのアイデアの生まれる素地、必然性がある。教科書の教材をかえのは安易なことではないが、圧入缶の歴史にも理科教育のひとつの断面があらわれていて、興味深い。(鈴木清龍、同書p50より)

▼鈴木清龍氏が言うとおりなのである。教材史は、理科教育史のひとつの断面を表しているのである。
だから、私は理科が好きだ!!
最後はモノがあるんだ!!具体的なモノ(教材)があるんだ。
その教材の今を知ることは、理科教育の今を知ることでもあるのだ。
だから、私は最初の衝動をおさえることができないのだ。
「科学リテラシー」を云々するのもよかろう。
しかし、それよりも私は、日本理科教育の今、ふたつの単純な質問で知りたい。
なんとか知る方法はないものだろうか。

                


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サイエンスコミュニケーター宣言(108)

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▼あれから10ヶ月目の昨日も、私は仕事だった。帰ってから例の「あるサークルとゼミの歴史」の「記録」に目を通していた。
結果的に昨日目を通したのは1956年(昭和31)一年分だけであった。かけた時間は2時間近かったのにだ。
「研究授業」の記録、日々の教師歩み、ゼミの記録(ガリレオ・ガリレイ『新科学対話』をテキストにして)、ゼミでの疑問、わかったことはまとめてサークル誌として発行。それに応えて科教協(田中実先生などが多い)からの応答、アドバイスの便り、夏の第三回科教協総会参加、つづいての教科研全国研究集会参加の様子等などがほんとうに濃度濃く記録されているのである。
 そこに熱く学び成長するものだけが放つ「輝き」があった。時間の経過はけっしてその「輝き」を色褪せさせるものでなかった。寧ろ逆に時間の経過は「輝き」をより深く豊かなものとしたのかも知れない。
▼私は、少し唐突にあの寺田寅彦の言った「科学魂」という言葉を思い出した。
科学者寺田寅彦は、よく理科教師たちにエールを送っている。
◆「雑感」寺田寅彦 (昭和三年十一月『理科教育』)
この「記録」を読んでいると、この「科学魂」をもった理科教師群像が浮かんでくるのだった。
▼しかし、実はちょっと不安があった。
この調子だと、「日本理科教育史」を追う作業はいつ終わるのだろうと。
この作業は、この作業自体が目的ではない。目的は、ここから「これからの理科」をみつけることだ。
この後は
●1975年(昭和50) 中学校理科教師となる。
●1981年(昭和56) ひめじ理科サークル(地下茎舎)はじまる
●1993年(平成5)  【理科の部屋】がはじまる。

とつながり今日までいくから、自分が直接経験してきたことでもあるからわかりやすい。と思っているが…。
▼まあ、でもやっぱりゆっくり行こう。
こんな作業をすることは、生涯もうないかも知れないのだから。
一応のメドを立てた。
2012.3.11 この日までを第一目標にすすめる。

また、今日もあの「年表」にもどる。


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サイエンスコミュニケーター宣言(107)

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▼… 『…』
半沢 『じゅうぶんな注意をもって実験させる。習慣化させる。たとえばアルコールランプの扱い方。』
村上 『自分で実験やっているから、そうした細心の注意ができる。生徒がやる実験以外に教師がどれだけやっているか。本を読んだだけではできない。』
中村 『ファラデーは、実験を準備するところも見せている。』
楠田 『それがすごい!!できあがったものだけを見せようとしているのではない。「ふしぎ!?」に思ったことは、こうして追いかけるんだと実際にやって見せてくれた。やっぱりファラデーこそサイエンスコミュニケーターの元祖だ!!』と発言してしまって少しだけ恥ずかしかった。

 そうなんだ。半世紀以上前の東北のある町でのことだったのだ。
年表によれば、ときは1956年(昭和31)3.23(本文では25日どちら?)午後 半沢 宅 
である。私は5歳だ。
 私は、いつしかタイムスリップして、諸先輩を前に勝手な発言をしていた。
▼「日本理科教育史」を追う作業は、「あるサークルとゼミの歴史」で完全にスローダウンしていた。
ひじょうにみごとな「記録」によって、半世紀以上の時空を超えて、いつしか自分もファラデーゼミに参加してしまっていたのである。
 次は、ガリレイゼミであるという。楽しみである。
▼私は、この本を記憶するだけでも3回読んでいる。
理科教師として節目節目に読んでいる。そして計り知れない多くのことことを学んできた。
言わば、一生懸命ここに書いてあることを、何周遅れかに「追体験」しようとしてきたのだ。
▼過去3回とも読んだときは、これは単なる過去の「歴史」ではないと思った。
今回も同じだ。
極めて今日的なのである。これからのヒント集なんだ。
3.11以降の「これからの理科」もこうして創造していかれるはずである。
副題「ー創造する東北の教師たちー」は、偶然とは言え示唆的である。

この本が、ひとりでも多くの「これからの理科」を考える人たちに読まれることを願う。

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サイエンスコミュニケーター宣言(106)

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▼道楽的デジカメ自然観察はつづく。別にあらかじめ用意されシナリオがあるわけではない、気の向くままにまわりの草花に、樹木にデジカメを向ける。そして、一日に撮ったものを翌日の朝、これを書くときにながめてみる。
そのとき気づかなかったものが画像におさまっている。ともかく「美しい!!」。こんな美しいものを造り出す意図はどこに…。科学はその謎解きをはじめているのだろうか。
▼『日本理科教育史』を追うは、『教育実践検討サークル~創造する東北の教師たち~』 (中村 敏弘著 国土社 1975.11.5)と年表を読むところでスピードダウンをしていた。
 なんともへんな感情が自分のなかに生まれているのに気づく。それはこの「あるサークルとゼミの歴史」年表iにある1951年~1960年までを簡単に過ぎてしまうのが「もったいない」という感情だ。
本を読み進めるとすぐにきづく、何もないところから人々がつながり新しい学び合う集団がつくられていくときのエネルギー!!その熱き思い、波及的に広がっていく喜び。
徹底した事実の「記録」が、半世紀以上の時空を超えて今に伝わるのである。
だから、いっぽうで「歴史」をすすめながら、つづけてこれを読み続けていこうと思う。
▼「生活単元」は、いろんな面でその批判を受けていた。
「生活」に密着した「ふしぎ!?」の謎解き、それ自体は今なおも大事にされるべき部分である。
ところが、その学びはつながらなかった。個々がバラバラであったのだ。
そのような指摘のなかから生まれた、次の「理科」は1958年(昭和33)に発表された。

●1958年(昭和33) 文部省,『小中学校学習指導要領』を官報告示(中学校職業・家庭科を廃し技術・家庭科を新設、小学校は昭和36年、中学校は昭和37年度から全国実施)。
◆小学校学習指導要領(昭和33年10月1日施行)
◆中学校学習指導要領(昭和33年10月1日施行)
「系統学習」の時代が訪れたのである。
そして、現場はどう変化していったのだろう。これはもう少し時間をかけてみよう。
▼ひとつだけ、今日的にみて気になるところなのでみてみる。それは、中学校の内容のなかにあった。
<中学校3年生>

ウ 原子の構造
 (ア) 真空放電

a ネオンサインなどでみられるように,希薄な気体中に真空放電が起ることを知る。
b 陰極線の性質から,ブラウン管の原理を知る。

 (イ) 原子の構造
a 原子は,原子核と電子とからできていることを知る。

b 原子核は,陽子と中性子とからできていることを知る。

c 放射性元素は,放射線を出すことを知る。

d 人工的に元素を変換できることを知る。

もうひとつある。

 ウ エネルギー資源
a おもな燃料の使用上の特性を知る。

b 水力,風力および太陽熱の利用について知る。

c 原子力の特性の大要を知る。

これが、1958年の学習指導要領である。私たちは「歴史」を遡行することはできない。
しかし、「歴史」の事実だけは知っておかねばならない。
未来の「歴史」をつくりだすためには…。


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【Web更新1/8】12-02 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

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ハゼの実の ゆれてさむきや 寒のかぜ
12/01/07 (土)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-02
週末定例更新のお知らせ
 はやくも、2012年2回目の定例更新である。また一週間を展望するときだ。
なすべきことを手帳でチェックする。そして思い出したんだ!今年の抱負である「道楽」「道楽的」を。
「なすべきこと」と「やりたいこと」をならべてみる。最大限「やりたいこと」を優先させる。
それが、今年のやりかただ。ところが困ったことがある。「やりたいこと」はまだ手帳にはリストアップされていないんだ。そいつはしばしば唐突にやってくるのである。フレキシブルに対応して「道楽的」を通すためには、かまえだけをつくっておくしかない。

◆表紙画像集2012 人里の植物シリーズ ハゼ
 今年2枚目も前の竹藪からである。ハゼの実が藪をはみ出すようにしてたくさんぶら下がっている。いつだったか、四国の友人がこのハゼの実を「和蝋燭づくりのマニュアル」つきで分けてくれたことがあった。
里山にこれがぶら下がっているのを見るたびに、「蝋燭づくり」をやらなければと思いつつ何十年と過ぎてしまった。「今年こそ」の今年があるあいだになんとかしなければ…。

◆「サイエンスコミュケーター宣言」 更新
 年が変わってもやっぱり『日本理科教育史』を追っている。いよいよ戦後になった。
私自身が生きてきた時代に突入である。
ありがたいことに比較的簡単に生の「証言」にも出会える環境も整いつつある。

多くの人の知恵を借りながら、「これからの理科」をあぶり出していこう。
ゆっくり 急ごう!!
 

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サイエンスコミュニケーター宣言(105)

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▼年が変わったからといって大賀ハス観察の年度は替わっていなかった。蓮根の植え替えから38週目であった。
 観察池には氷が張り枯れた花茎と葉がのこっているだけさして変化があるわけではない。地下の蓮根たちはどんな活動をしているのだろう。想像してみると楽しくなってくる。
▼戦後の理科教育史を追っていて、当時の理科教師の思い・願い・動きの具体的事実が知りたくなってきた。著名な実践記録や組織・団体の「歴史」の記録(もちろんそれらの価値は充分に認めるが)でなくて、当時の理科教師たちの日常の生の喜怒哀楽や息づかいまでもが蘇ってくるような「歴史」それが知りたかった。
 私の理科教師人生にとっては、重要な意味をもつ一冊の本がある。その本と付録の「年表」にそんな「歴史」が残っていた。
■教育実践検討サークル~創造する東北の教師たち~ (中村 敏弘著 国土社 1975.11.5)
◆「あるサークルとゼミの歴史」年表
▼この年表は1951年~1960年までの「教科研・刈田のつどいと科学の古典ゼミ」の10年間の歴史を記録したものである。かなり細かく日常の取り組みが記録されている。行間から教師の喜びや願いが伝わってくる。
もちろん全国の教育・理科教育の様子もあわせて記されているので社会や学校のようすもよくわかる。
これまでも、何度も見てきたが、今一度「日本理科教育史」を追うという視点で見直したとき、とても重要な「年表」に思えてきた。これまで参考にしてきた年表に加えてこの「年表」を重要資料とする。
▼この「記録」から私は、大きくふたつのことを学んできた。
(1) 教師が実践「記録」を書くことの重要性について

 『もうひとつ、記録を書くことと、思想性を高めることを統一して行う仕事がある。それは、自分の認識の変化を書くことである。子どもの認識をどのように変えようと思って、自分の認識がどのように変わったか-自分が先生になった時から、どういうことがあったからどう変わったか、自分の記録を書くことである。
 実践を検討したり、批判したりするもと(基準)は、教師としての生活であり、それがこうすることによって、はっきりさせることができるのである。』
(上記著 P423より)

もうひとつある。
(2) 「最もよく学ぶものが最もよく教える」ということ
 上記年表に記されたゼミは1956年1月から1960年5月まで、約5年間続き、それは通算86回もたれという。
似たようなことを試みた人なら、これがどれほどのことを意味するかすぐわかるだろう。
ファラデー『ロウソクの科学』、ガリレオ・ガリレイ『新科学対話』、ダーウィン『種の起源』、パスカル『科学論文集
』と続いている。広範囲にわたり学ぼうとしているのである。この「学び」があるこそ魅力的な授業の創造にむかえたのだろう。この後の著者たちの実践がそのことを証明している。
▼ここまでで終われば、尊敬すべき先達たちで話は終わってしまう。
が、これで終わらないのだ。!!
この「歴史」は地つづきで「今日」までつづいているのである。
「半世紀の時空を超えて」は実現しているのである。
folomy【理科の部屋】へ行けば、今朝も中村敏弘さんからの情報が届いているのである。
きれいな画像をもともなって…。

 
 

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サイエンスコミュニケーター宣言(104)

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▼昨日から寒に入った。里山・庭の木々もこの寒い冬を乗りきる戦略をもっていた。アジサイの冬芽の戦略を知っていたく感動したのは、去年の冬のことだった。
 アジサイの頂芽は一見無防備だ。だって葉脈がそのまま見えているんだから裸ん坊ということになる。しかし、ここに驚くべき工夫があった。ぶ厚い毛皮のコートを着たり、固いシェルターのなかにあるというのではなく、ここを流れる液に「不凍液」を仕込んでいると言う。なんという…。
▼『日本理科教育史』をつづけよう。戦後の理科教育のスタートは、まだまだ混乱していた。しかし、その状況のなかでも現場ではいろんな動きが起こっていた。
●1958年(昭和33) 文部省,『小中学校学習指導要領』を官報告示(中学校職業・家庭科を廃し技術・家庭科を新設、小学校は昭和36年、中学校は昭和37年度から全国実施)。

ここまでを一区切りとして、昭和20年代後半~昭和30年代のはじめ、理科教師の現場にどんな動きがあったのか概観してみる。
▼例のベースにしている年表からピックアップしてみる。
●1953年(昭和28) 「理科教育振興法」公布 (翌年4月1日施行、理科教育審議会を設置し、理科教育振興のための経費の2分の1国庫補助を定める)。

●1954年(昭和29) 科学教育研究協議会結成(昭和33年10月『理科教室』を編集発行)
●1955年(昭和30)科学教育研究協議会第1回大会、「理科学習の系統性とは何か」を討議。「すべての教師にできる標準授業プラン」の作製問題を採り上げる。
●1958年(昭和33)科学教育研究協議会、『理科教室』(国土社)
科教協のことだけひろってもこうだ。
個々にはもっともっと興味深い「歩み」がはじまっていたのだろう。
▼このころの資料、文献ということになるとけっこう残っているようである。
さらには、その気になれば生の「証言」にふれることも可能だろう。
繰り返すが、私は「日本理科教育史」の研究をしようとしてしているのではない。
「これからの理科」の方向を知りたいのだ。

 私が理科教師になったのは、1975年(昭和50)であるまだまだ先のことだった。

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サイエンスコミュニケーター宣言(103)

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▼今日は寒の入り(「小寒」)である。ほんとうに寒い、この暦の季節の先読みには今さらのごとく驚くばかりである。昨日の朝も、ふるえあがる定点観測地のヒガンバナにも白いものがうっすらと覆いさらに寒そうであった。
▼今日、1月6日(金)のカレンダーを見ていたら、さらい興味深いことが書いてあった。
「1912:ウェゲナー、大陸移動説を発表・100年」
そうなんだ、このサイエンスコミュニケーター宣言でも、何度かふれている年代だ。
南アメリカ大陸の東海岸線とアフリカ大陸の西海岸線のデコボコが似通っているのではというような単純な発想が元になっているという「大陸移動説」。それをドイツの学会ではじめて発表したのが今日なんだ。
なんとそれからたった100年なのだ!!
▼「日本理科教育史」の方は60年ばかり前のところをウロウロしていた。
どうも、そう簡単に次に行けないんだ。
「生活単元学習」「問題解決学習」の時代と簡単にくくってしまい、それらの時代の課題を克服して今日に至っているのだろうか。もう少していねいにこの時代をみたいと思う。
もう一度、三つの学習指導要領に目を通して見る。
◆学習指導要領 理科編 (試案)昭和二十二年度 文 部 省
◆小学校学習指導要領 理科編(試案)昭和27年(1952)改訂版 文部省
◆中学校・高等学校 学習指導要領 理科編(試案)昭和26年(1951)改訂版 文部省

特に私が興味深く見たのは、上記ふたつにみられる「科学とは何か」という問いかけである。
それから60年経った今、この問いにどんな答えをもって「理科」を教えているのだろう。
▼この時代のことを高橋金三郎は次のように書いていた。

昭和20年代の指導要領はひどくまずかったが、現実の授業は30年代よりもすぐれていたと思う。物資は不足していたが、研究と良心の自由は現在とくらべものにならぬほど豊富であった。未来に生きる子どもたちに、もっと価値あるものを教えようとした教師の願いは、豊富な実践記録としてあらわれた。(高橋金三郎著『授業と科学』むぎ書房 P235より)

このするどい指摘は、時空を超えて今日まで届いてくる。
次の時代に移る前に、そのころの理科教師に学ぶことを考えてみようと思う。
またまた ゆっくりのペースになるが…。

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サイエンスコミュニケーター宣言(102)

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▼昨日4日、朝から「とんど」の準備に行った。いつもの散歩にでかけるころにはなんと雪が舞っていた。明日は寒の入りだ、納得である。なんとみごとな読みだ!!
 雪の舞う中、すべてが震えあがっているのかと思ったら、東の畑のホシノヒトミが「うす目」をあけていた。
▼「日本理科教育史」は、戦後教育史に入っていた。
「生活単元学習」の時代だった。いろんな意味で引き合いにだされる時代だ。
子どもたちの生活環境・学習環境のことを想像しながら、今一度、試案の「理科」の目標をひとつひとつみていく。
今から見ればアタリマエのことにも、その一文にも深い意味が込められているのかもしれないと吟味しながら。
▼それから、忘れてはならないのは、「理科教育史」年表だけでなくもうひとつの年表(『人間にとって科学とは何か』より)を重ねあわせてみることだ。
●1942年 アメリカで初の原子炉建設。カナダ(45)、ソ連(46)、イギリス(47)、フランス(48)がこれにつづく。

●1945年 アメリカが初の原爆を使用。ソ連(49)、イギリス(52)、フランス(60)、中国(64)、インド(74)が核保有国となる。

つまり「ヒロシマ」「ナガサキ」後の日本の理科教育がはじまっていたのである。
今だから見えてくる「歴史」があるのかも知れない。
▼ここからはじめて、もう一度「戦後理科教育史」を吟味していくことは、不可能な歴史の遡行をしようとするものではない。これからの理科教育を模索することなのである。
これまでにもいくつもの試みがある。
そこから大いに学ぼうと思う。しかし、簡単になっとくしてしまうのはやめようとおもう。
「ふしぎ!?」は不思議として保留しつづけよう。

<つづく>

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サイエンスコミュニケーター宣言(101)

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▼三日目の昨日もやはり、朝の定例コースでの「デジカメ自然観察」からはじめた。
これはほんとう面白い、病みつき状態が年を越しても続いている。レンズを通してみることで新しい世界の発見がその場である。それだけでない、撮った画像を後で見て、「へーそうだったのか!!」とまた違った発見をする。その「発見」したこと確かめに翌日またでかける、その繰り返しだ。
▼それを楽しんだ後、恒例の大学のOB会で大阪まででかけた。毎年のことながら、これも楽しいものだった。
異業種の友人たちの話を聞くのは、新鮮でありこれまた「発見」がいっぱいある。
 今年は、それぞれの友人の近況報告から、3.11以降のその人の「私の科学」を読み取ろうとした。
なるほどと学ぶことが多かった。
▼そうだ、それぞれのひとの「私の科学」がどこからやってきたのか。それを知りたいのだ。
『日本理科教育史』を追う理由はそこにある。
OB会などでは、比較的年代が近いので、思考・発想も似通っている。
『日本理科教育史』を追う作業の再開を1941年を起点とすることは昨日述べた。
起点に立ち止まっていては、起点の意味も見えてこない。歴史をすすめる。
●1945年(昭和20) 敗戦 アメリカ占領軍 占領政策 教育の民主化 
「戦後教育」のはじまりである。
これ以降の「理科教育史」を語るときに必須の資料がある。
それが「学習指導要領」である。もちろんそれで全てを語れるわけではない、必要条件である。
◆学習指導要領データベース
ありがたい!!大いに活用させてもらおう。
▼戦後最初の学習指導要領(試案)(1947年)を見てみる。
 そこでの「理科の指導目標」は次のようになっている。

第一章 理科の指導目標

 

理科の指導目標は

 すべての人が合理的な生活を営み,いっそうよい生活ができるように,児童・生徒の環境にある問題について次の三点を身につけるようにすること,


1. 物ごとを科学的に見たり考えたり取り扱ったりする能力。

2. 科学の原理と応用に関する知識。

3. 眞理を見出し進んで新しいものを作り出す態度。

であり,この目標はさらに次の通りに分けられる。


1. 自然に親しみ科学的な作品に興味を持つ態度。

2. 自然界の物と現象とを観察する能力。

3. すじ道の通った考え方をする能力。

4. 機械や器具を使う能力。

5. 生きものをかわいがり育てる態度。

6. 健康を保つ習慣

7. ねばり強く,助けあい,自ら進んで科学的な仕事や研究をする習慣。

8. 眞理にしたがい,進んで未知のものを探ろうとする態度。

9. やさしい科学の本を読む能力。

10. 身のまわりの物ごとの間の関係や性質を知るための科学の主な原理と応用に関する知識。

11. 自然の調和,美しさ,恵みを知ること。

12. 科学者の仕事の尊さを知ること。

13. 更に進んだ理科学習への準備と職業上必要なものの準備。

この後、理科は「生活単元学習」「問題解決学習」へ向かうのである。

<つづく>

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サイエンスコミュニケーター宣言(100)

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▼昨日、2日は我が家恒例の初詣にでかけた。もう半世紀以上つづけている我が家の「恒例」だ。能勢の妙見山にでかけた。家を出る前の天気は少しあやしかった、一時は雨も降ってきた。標高660mの頂上の天気が少し心配になってきた。やっぱりそうだった。途中までは降っていなかった雪もある地点からきっちりと降っていた。
「自然の観察」というものは雪ひとつとってもけっこう面白いものである。
▼年末で途切れてしまった「日本理科教育史」を追う作業を再開しよう。
再開の起点をここにおく。

●1941年(昭和16) 「国民学校令」「国民学校令施行規則 低学年理科「自然の観察」新設

今から70年前である。これは「戦中」と呼んでいい時代だろうか。
日本理科教育史上では、特筆すべきことがあった。
低学年『自然の観察』のはじまりである。大正期以来のながきにわたる理科教育改革運動の成果としてはじまったのである。その精神の影響は今日の「理科」にまで及んでいるのである。
▼三年前に、この幻の名著『自然の観察』の何度目かの復刻があった。
さっそく手に入れてみた。確かに妙に説得力をもつ「自然観察」手引き書である。
しかし、まちがってはいけないのはこの書は教師用の指導書なのである。生徒用教科書はない。
そんなものは存在しない。そこに低学年理科『自然の観察』の主張がある。
それは「総説」になかにあった。

 5.「自然の観察教師用」編さんの要項と取扱い上の注意
児童用書を編さんしないこと
 「自然の観察教師用」は低学年理科の趣旨に基づいて編さんしたものである。この趣旨を達成するためには、児童用書の必要を認めない。強いて編さんすれば、「自然観察」を教室において、教科書の上で指導するようなことに傾きやすく、かえっって悪結果を生ずるおそれがあるのである。そこで教師用書のみ編さんすることとした。

なんとみごとな意思表示であろう。
自然は最高の教科書!!
子どもは最高の指導書!!
理科教師魂の表明である。
▼私が、このあたりを作業再開の起点にしたいのには、もうひとつわけがある。
70年前の「理科」体験者の証言を聞きたいのだ。今なら、生の証言に接する機会もあるのではと思ったのだ。
そして、それ以降の70年間の「理科」体験者の声もあわせてぜひ聞きたいと思いだした。
自分自身の体験・経験も重ねあわせながら、これからの「理科」を考えて行きたい。
ゆっくり 急ごう!!

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【Web更新01/01】12-01 Webページは今!!

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初春や 静かに祝う 藪のなか 12/01/01 (日)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-01
週末定例更新のお知らせ
 いきなりであるが、2012年のWebページ初更新である。今年も週末定例更新は続けて行く予定である。
一週間では微々たる更新であるが、コンテンツの更新もさることながら「更新のシステム」を持続することにも大きな意味があると思い今年も続ける。
 ちょうど年のはじめが定例更新になったので、各Webページの今をまとめておく。

◆表紙画像集2012 人里の植物シリーズ マンリョウ
 新しい散歩道のコースがほぼ固定しだした。前の荒れ放題になった竹藪を入れることにした。全然手が入っていないのであまり足を向けることがなかったが、最近少しその気になって藪のなかも含めて観察してみた。
そして驚いた。そこに竹だけでなく名も知らぬ雑木がいっぱいあった。雑木と片付けるにはもったいないものばかりだ、少しずつ少しずつ名前を知るところからはじめてみようかな。
 元旦にやぶへ入ってみた。そこに鮮やかなマンリョウの赤い実があった。静かに新年を祝っているようだった。

◆「サイエンスコミュニケーター宣言」 
 最近は一番力を入れて書いているページだ。昨年の4月にはじめて、現在までに99回書いている。
今は「日本理科教育史」を追っている。1941年のころまで追ってきている、この後は「戦後の理科教育史」
ということになる。今ならまだ「生の証言」に出会うことがあることがあるかも知れない。
また、自分自身が歩んできた道でもある。時間をかけてもこれだけはやりきりたいと思っている。

◆新・私の教材試論 
 「日本理科教育史」とも関連させながら、これまでの教材開発史を追っていく。同時に新しい教材開発の道もさぐりたい。これまでのことを一度まとめたいとも思っている。

◆新・「自由研究」のすすめ試論 
 こちらも、これからの「自由研究」のすすめ方、一度今年はまとめてみたい。

◆新・クラウド「整理学」試論
 具体的な「整理」を自分でも試行錯誤しながら、これからの自分にぴったりな「整理学」をみつけていきたい。

◆【ヒガンバナ情報2011】
 今朝方、ヒガンバナに関するとっておき情報のメールが入っていた。
これは「お年玉」情報だ。くわしくは後日また報告をしたい。
 やっぱり実感するのである、「情報は発信するところに集まる!!」と。
 この「お年玉」情報も、拙いページながら情報を発信し続けてきたからこそ寄せられた情報なのである。
この後は、【ヒガンバナ情報2012】に引き継ぎ、継続する。

◆大賀ハス観察日記 こちらの方はこのまま継続する。3月末の蓮根の植え替えまで。
今年は、昨年収穫の種子で発芽、二代目育成に挑戦である。

その他のページも基本的には今の枠の中で更新をしていくつもりである。
52回の更新でどこまでいけるだろう。自分でも楽しみである。

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新年の抱負2012

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初春や 道楽もまた あらたなり  @福崎  2012/01/01

▼これが、今年の私の年賀状の一句である。
2012年がはじまった。今年の私の抱負は一言で言えば 「道楽」 だ!!
無理矢理作文を書かざる得なくなった子どものように、私は広辞苑をひくのだった。

【道楽】=(道を解して自らを楽しむ意から)①本職以外の趣味にふけり楽しむこと。また、その趣味。
②ものずき。好事(こうず)③酒色・ばくちなどの遊興にふけること。放蕩。遊蕩。また、その人。

▼なんか微妙に違うな。もともと仏教用語らしい、「楽」は「ぎょう」と読む場合もあるらしい。
ピタッとくるものがなかったら、自分流にカスタマイズしてしまえばいい。
使っているうちにピッタリの意味がみつかるだろう。
やっぱり 決める!!
2012年の私の抱負= 「道楽」 「道楽的」 
さあ、使い始めよう!!
▼もう少し具体的に蛇足を…
1 「道楽」求めて動く!!
2 「道楽」空間づくり
3 これまでの「道楽」の完成
4 「道楽」最優先思考(ストイックにならない)
5 「道楽」的文章作成術
どこか具体的なのか。(^^;ゞポリポリ 
まあ、「新年の抱負」とはこんなものと…。蛇足は短い方がいい。
本来はないもんだから…。
▼今年も、最高の「道楽」は人に会うこと。
オンラインだけの人も含めて
「人に出会い、学び合い、高め合うこと」
これこそがずっと私の至福の「道楽」!!
2012年、今年一年間に出会うみなさんよろしくお願いします。


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