サイエンスコミュニケーター宣言(99)
▼実は、私はここ数日限られたネット環境のなかでアクセスしている。だから、資料に自在にリンクをつけたり画像も貼り付けたりしないで更新をしている。やや意地になっている面があるが、なんとしても毎日blogを更新し続けたいのだ。
今年あらたに小さなパソコン(レッツノート)を導入したのも、旅先からでもblogの更新をするためといえる。どうしても一日一更新にこだわりたいのだ。そのために周辺を整えるそれが私のやり方である。というようなことで非常に限られた時間しかつながらないところから、今日も、『日本理科教育史』を追うことをつづける。
▼多様な「理科」が歴史に登場してきた。
そして、今の時代の理科教師ならば、常識的に使っている「概念」であるとか、「教授法」の走りとなるような取り組みが大正時代から、昭和にかけていっぱい出てきた。
盛衰の波も大きかったようだ。
そのころ大活躍だった神戸伊三郎が『日本理科教育発展史』(1938(昭和13))
に書いているそうだ。
「その盛時最高点は大正8年[1919]頃に在り、衰時最低点は昭和10年[1935]に在ったと思います。」 (『日本理科教育史』板倉聖宣著仮説社 p343より)
▼「科学」は深く社会と関係している。あたりまえすぎるほどアタリマエのこと。そして、その社会情勢によって、「科学」は違った顔をもって現れてくる。
もちろん「理科」教育は、即科学教育を意味するものではない、残念ながら、ある面で理科教育の方が付和雷同するものなのかも知れない。
時に「危険思想」と見られたり、理屈ばかり言う「金食い虫」扱いを受けたりしている。
しかし、人々は知っている。日々の暮らしや「戦争」と深く関わっているものらしいことを…。
▼理科教師にとってうれしいことが起こってきていた。それは、大正期の自由主義的な思想性のある科学者たちが助っ人に登場してくれだしているということだ。
寺田寅彦や石原純が、いろんなところで活躍しだした。
そして「科学的精神」「科学する心」の普及に一役も二役もかっているのである。
神戸伊三郎が最衰点と言った1935年にだってこんなものが出されていた。
●1935年(昭和10) 石原純編「理化学辞典」岩波書店刊
石原純も寺田寅彦も今日なお残してくれたものは大きい。
私たちは直接的に、この時空の隔たりを超えて彼らから学ぶことできるのである。
なんとありがたいことだ。!!
それをこれからの「理科」に生かさない手はないだろう。
| 固定リンク


コメント