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再び「デクノボーの科学」とは!?

Dscn0138▼昨日で、この旅は終わった。
イーハトーブの世界→「遠野物語」の世界→「3.11」の世界。花巻→遠野→釜石・大船渡・陸前高田→一関と巡る旅の終着駅は、一関東山町だった。
Dscn0165宮沢賢治が気になってしかたなかった。その気になるものの正体を知りたかった。
そこから出発した旅も、最後はやっぱり宮沢賢治だった。
▼「デクノボーの科学」とは!?
その疑問は、正体を知るどころか、得体の知れない「ふしぎ!?」となってふくらむ一方だった。
賢治最後の職場という「東北砕石工場」のことが気になっていた。
どんなところなんだろう。詩碑もあるそうだ、その程度しか認識はなかった。
最終的ここへ行くこと決めたのは、昨日の朝だった。
▼迷い込むようにたどり着いたところ「石と賢治のミュージアム」はすごいところだった。
ここにすべてがあった。ここまでの道のりは、ここへたどり着くためのプロセスと考えれば納得がいく。
 ひょっとしたら、ここに来ずに旅を終えてしまっていたら、後に知って後悔するだろう。
これは、行った後だから言えることなのだが。
▼朝は、少し早めに着いた。まだ館は準備しておられるところだった。にもかかわらずものすごくていねいに対応していただいた。館長さん自らが「旧東北砕石工場」を案内していただいた。砕石工場のなかでは、当時の工場のようす、賢治のこと、「雨ニモマケズ」に至る道、等など。
 知りたいことのすべてが詰まっていた。私の旅の「浅はかな思い」などすべてを見透かされているようだった。
館内でもまたくわしく説明をしていただいた。「双思堂文庫」も見せていただいた。
賢治の産湯の井戸の見学からはじまった旅も、賢治の最後の職場で終わる。
まるで最初から計画していたかのように。
それにしても感動してしまうのだ。賢治を語るひとは、みんななんと親切で優しいのだろう。
それは、賢治自身が発信し続けたものに所以があるのではないだろうか。
そんな気がしてきた。
数々の「発見」「出会い」に深謝!!
▼最後に詩碑を見学にいった。
詩碑のことば

まずもろともに
かがやく宇宙の微塵となりて
無方の空にちらばろう

をかみしめてみた。
帰ってきて、今朝目覚めて「雨ニモマケズ」を、もう一度読んでみた。
「デクノボー」とは!?
「デクノボーの科学」とは!?

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「遠野物語」、そして「3.11」へ

Dscn9775▼昨日は、朝から少し忙しかった。
34年ぶりの「遠野」であった。「時間」に追われるのでなく、「時間」を超える旅がしたかった。
Dscn9920 宿を出て最初にに向かったのは「曲り家」だった。続けて「続石」、「遠野市立博物館」「カッパ淵」と足ばDscn9981やに回った。少し断片的に「記憶」が、蘇ってくる。
それにしてもなぜ私は「遠野物語」にこだわるのだろう。
▼柳田國男がこの物語を書いて、ちょうど昨年で100年であった。
なぜ柳田は「遠野物語」を書いたのだろう。
書かずにおれなかったのはなぜだろう。これは、賢治のように創作ではない。
國男自身の言うように「要するにこの書は現在の事実なり」である。
 ここには、自然とゆたかにつきあいながら生きていく知恵があった。
くらしがあった。
これを見聞したとき、どうしてもこの「事実」を書き留めて起きたかったのだろう。
▼もう少し、自分の文脈で考えよう。
自然との豊かなつきあい方、それをすぐれた「科学の方法」とするなら、そこに「常民の科学」が生まれる。
 100年の時空を超えて、今なお「遠野物語」健在であった。
それどころか、今こそすくい取り学ぶべきものの多い世界であった。
▼カッパ淵を出て、いよいよ「3.11」へ向かったのは14時を過ぎる頃だった。
ずいぶんの遠回りだったのかも知れない。
しかし、このルートをたどって「3.11」に向かうのが私にはいちばん自然な道だったのだ。等身大なのである。
 釜石、大船渡、陸前高田と回った。この「風景」「事実」を目に焼き付けておきたかった。
 それを、これからの「科学」を考えるときの原点としたかったのだ。

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イーハトープの世界から「遠野物語」の世界へ

Dscn9364▼昨日一日は「イーハトープの世界」を堪能した。
まずは、賢治設計の花時計を見た。そしてイギリス海岸に行った。農業高校教師時代には生徒をともなってたびたび訪れたという。そこでは生徒たちと動物の足跡や胡桃の化石調査もしたという。彼がもっと輝いていた時代でもあるのだろうか。
Dscn9563 今は、水量も多かったので川底の泥岩も顔を出していなかった。それにしても、自分たちのフィールドを「イギリス海岸」と呼んでしまうとは…。 このとき「科学」は彼にとってなんだったのだろう。
▼そこからは、「宮沢賢治記念館」「宮沢賢治童話村」「イーハトープ館」と一挙に回ってみた。もうそこは完全に賢Dscn9631治ワールドだ。これが、「イーハトープの世界」なのか、驚くのはもう花巻の街がすっぽりその世界のなかだということだ。街角のベンチやちょっとオブジェに…。
もっともっと驚き感動したのは、そこに住む人たちがごく自然に「イーハトープの世界」の人たちになっているという事実だ。「胡桃の森」で出会ったボランティアの方々をはじめ…。「イーハトープの世界」では、ごく自然に賢治を介することによって「科学」は文化となっていた。
▼最後に、「デクノボーの科学」を追って「雨ニモマケズ」詩碑のたっている場所にいった。ここで、賢治が夢見たものはなんだったのだろう。
「農」と「科学」。農民芸術論とは。
彼のなかで「科学」が占める位置は変わっていったのだろうか。
それとも一貫していたのだろうか。
それは、受け取る側の「私の科学」の問題なのかも知れない。
▼夕方になってしまっていた。「イーハトープの世界」から「遠野物語」の世界へ向かったのは。「遠野物語」の世界は、なんと34年ぶりである。
新婚旅行で訪ねて以来なのである。
「遠野物語」の世界が、ずいぶん時間がかかったが、私の「常民の科学」につながった。今回は、どんな「発見」があるだろう。

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宮沢賢治115歳の誕生日に!

Dscn9198▼昨日、2011年8月27日,宮沢賢治115回目の誕生日の日、私は彼の生誕地に立っていた。
「デクノボーの科学」と「私の科学」なにか関係があるか。
Dscn9216何故、気になるのか。気になるものの正体は…。
イーハトープの「空気」を吸いながら考えてみようというのが、今回の旅のはじまりであった。
奇しくも、それが彼の「いのち」の始まりの日であったのだ。
▼東北新幹線の北上駅に降り立ったときは午後3近くなっていた。そこからレンタカーで花巻へ。
そして、最初に向かったのは、賢治の生家であった。
ナビがあるとは言え、なかなか行き着けなかった。迷ったあげく、市役所に車をとめた。
ひょっとしたら、ここで聞けばくわしく教えてもらえるかもしれないという期待があった。すっかりと昨日が土曜日であるということを忘れていた。
 しかし、何人かの職員のかたがおられた。行きたい場所をお話しして、もうひとつねらっていたことまでお聞きした。ひじょうにていねいに対応してくださった。
 この後、お会いする人をふくめてイーハトープの人たちはほんとうにあたたかく親切だ!
▼案内に従って、まず行ったのが「賢治の広場」だった。
ここに最初に行ったというのがラッキーだった。ここの手作りの地図まであって、ほんとうにていねいに教えてくださった。
それだけではなかった。
そこにすごいチラシがあった。『見学できます 賢治「産湯の井戸」』
聞いてみた、「これって近くですか」と。
ていねいに自作の地図で案内してくださった。生家に行く前にそこに行くことにした。
▼産湯の井戸があるのは、実は母トシさんの実家であった。現在の花巻市鍛冶町「宮澤商店」であった。
この井戸を見学させてもらった。
ただ見学させてもらっただけでない。そこで働いておられたお二人の女性の方がくわしく説明してくださったのだ。
井戸のつるべで水を汲み上げる体験までさせてもらった。
説明は賢治のこと、母のこと、宮澤商店のこと、今回の地震で蔵の壁が落ちたこと、その他諸々大変興味ぶかいことをいっぱいお聞きすることができた。感動である。深謝。
▼そのあといよいよ生家に行った。
生家の隣の街角ミュージアム豊沢小路「蔵」もまた、この震災の被害にあっておられた。
修復工事中のようであった。
だから残念なから、なかへは入れなかった。
それでも、最初の目的地に立つことができた。うれしかった!!
▼実は、感動はここで終わらなかった。
高橋金三郎の生家も、道をはさんですぐ近くにあるとお聞きしていた。この機会にいちど訪ねてみたかったのだ。
「高いレベルの科学」と「デクノホーの科学」が同じ小路に生まれているなんて考えてみるととっても興味深いはなしだ。ここでも、イーハトープの世界の人のやさしと親切に助けられて、生家を発見するのみならず親戚のかたとお話をさせてもらうことができた。
「宮沢賢治」と「高橋金三郎」、もう少しあたまを整理してゆっくりと考えてみたい。

ともかく宮沢賢治115回目の誕生日は私には、忘れられない日となった。
お世話になった人たちに感謝したい。ありがとうございました。

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サイエンスコミュニケーター宣言(51)

Dscn9094▼夏も終わりを告げているのだろうか。積乱雲を見た、まるで空いっぱいの巨大な怪獣のような雲だ。
Dscn9088その下で、大賀ハスの果托は、黒く黒く変化していた。でも、予想に反して種子はまだ、果托に抱かれたままだ。
植え替えから19週目である。(一日、早いが)
▼「気になるものの正体」を追っていた。
そのひとつが、どうやら「デクノボーの科学」ではないかという気がしてきた。
でも、それだけでもないような気がする。
そこで、私は「イーハトーブの世界」に行ってみることにした。
実際にそこの空気を吸ってみたら、もう少し気になるものの正体の輪郭がわかるかも知れないから。
▼旅は、「イーハトーブの世界」(花巻)を出発点にして、「遠野物語の世界」へそして、「3.11」へと計画した。
やっとである。半年も時間をようしてしまった。
気になるものの正体は?
「私の科学」との関係は?
これからの「私の科学」は?
少しでも、なにかが見えてくるだろうか。それはわからない。
問いかけてみなければはじまらない。
今朝、出立する。

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サイエンスコミュニケーター宣言(50)

Dscf9552▼昨日、ほぼ一週間ぶりにこの夏6匹目の「クマムシ」に出会っていた。6匹のなかには、オニクマ1号が含まれるから、「シロクマ」としては5号目ということになる。そいつは、一週間前であった、シロクマ4号のシャーレと同じシャーレのなかにいた。ということは7/26のシャーレということになる。校庭のひとつまみのギンゴケから3匹ものクマムシを発見したことになる。方法は勝手にネーミングした「ネバーギブアップ法」である。
▼カラカラに乾いてしまったシャーレに三度水を加えてやった。そうすると、動き始めた<小さないのち>たち!!
センチュウやワムシたちが先にみつけることができた。みつけるというほどのことでない、見えてくるのだ。
クマムシがいる予感がした。予感通りそれは姿をみせた。あいかわらず、緩歩動物というわりには、せわしなく足をうごかし動いていた。古いデジカメでだが、はじめて「動画」で記録することできた。(それをどうすれば、ここへアップすることができるのか、まだわからない。)
 水を加えることで再生する<小さないのち>たちの世界、これほど興味深いものがあるだろうか。
これは、この夏の大きな成果だ。
▼同じく追っている「賢治の科学」においても、この<小さないのち>は、ひとつのキーワードのようだ。
『科学者としての宮沢賢治』の著者 斎藤文一さんもそのことをこの著で語っておられた。
それにしてもこの著はきわめて面白い。
本来、「なぜ、今宮沢賢治が気になるのか」「気になるものの正体はなにか」の答えをみつけるのが私の課題だった。それなのにいつしか斎藤さんが、宮沢賢治をどう読み解いているかの方に関心が移ってしまっていた。
それぐらい深く斎藤文一さんは、自らの文脈のなかで宮沢賢治を読んでおられるのだ。
▼私は、私の文脈にもどろう。
気になるのはなんだろう。
・「雨ニモマケズ」の言葉だろうか。
・宇宙的世界観、科学観だろうか。
・教師「宮沢賢治」だろうか。
・南無妙法蓮華経の世界だろうか。
・「イーハトーブ」の世界だろうか。
・「賢治の科学」のルーツであろうか。
▼そんなこと自問しながら、あの「雨ニモマケズ」を再び読んでみた。
 最初のリフレインばかりに印象があった。そんな「記憶」があった。
読んだばかりの斎藤さんの影響であろうか、最後の部分が気になりだした。

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

なんなのだこれは!?
賢治の決意表明なのだろうか。「悟り」なんだろうか。
私には、「賢治の」というより、「賢治の科学」の宣言に読める。
もっと言えば、「科学者」宣言に読めてくる。
「デクノボーの科学」
そんなものあるのだろか。
どうやら、まだ道は遠いようだ。

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サイエンスコミュニケーター宣言(49)

Dscn8942▼私は、昨日帰宅途中に急に空がみたくなった。もちろん運転中の車窓からも見えていたし、ゆっくり見たければ車を停めて眺めればよい。しかし、ちがう見たかったのは山の中から見る空だ!!
もともと私が住んでいるのも山の中と言えば、山の中である。しかし、見たい衝動にかられたのは木立の中から見上げる空だ。自宅と同じ町内であるが、少しだけ遠回りをしてかえることにした。
▼木立のなかから眺めた空も同じだった。そこも同じく「大気の物理実験室」のなかにあった。
「雲見」「空見」の楽しさをはじめて教えてくれたのは、武田康男さんだった。
『雲のかお』(武田康男著 小学館文庫 1998.10.1)はいつも手の届くところにおいて、「あの空は!雲は!?」
と思ったときには、これを開くようにしている。その著の最後に「雲の日記」として365日の空の写真がある。
こんな言葉とともに

新しい季節の予感を漂わせ、
毎日、違う顔で
通り過ぎていく雲たち、
そんな空の下で、
わたしたちは暮らしているのです。

▼私がいまいちばん気になってしかたない宮沢賢治も、やっぱりこんな空の下で暮らしていたのだろうか。
気になるものの正体が私は知りたかった。
『銀河鉄道の夜』に埋め込められた「賢治の科学」とはなんなのだろう。
それを一挙に読み解くには、私は無知すぎた。
でも今回は諦めたくなかった。
ちょっと助っ人を呼んでくることにした。だれか「賢治の科学」を解読した人はいないだろうか、探してみた。
居た!!
◆『科学者としての宮沢賢治』(斎藤文一著 平凡社新書 2010.7.5)
なんとタイトルからして私が探すものにピッタリではないか。
まだすべてを読んでいない。ページをパラパラとめくった程度である。
それだけでも直感的にわかった。 これだ!!と。
▼そしてしばらくして気づいた。この人の名前に憶えがあった。[著者]紹介をみておどろいた。
あの武田康男さんと共著の
『空の色と光の図鑑』(斎藤文一 文 武田康男 写真 草思社 1995.10.11)
の著者だったのだ!!
 ツナガッタ!!
そうなんだ。つながっているのは「空」だけではない。
その「空の下」で暮らす人もつがっているんだ。
ますます『科学者としての宮沢賢治』のなかに、私の知りたがっていることがあるような予感がしてくるのだった。

あわてないで、ゆっくり 急ごう!!

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サイエンスコミュニケーター宣言(48)

Dscn8917▼少し頭を「整理」して次に向かおうと準備をはじめた日だった。せっかく涼しくなって秋に向かっているのかと思っていた。しかしそれは間違っていた、そんなに季節の変化は直線的ではなかった。昨日はとっても蒸し暑かった、空気はたっぷりと水蒸気を含んでいたのだろう。
 夕方には、それも限界に達したのだろう。雷をともなった激しい雨がふってきた。夕立だ!!
どこに限界があるのか。それを、「雲見」の楽しみから予想できるようになればより面白くなってくるだろう。
▼サイエンスコミュニケーターを言い出して、もうすぐ5月になろうとしている。
少し見えてきたかに思えば、消えてしまう。
消えたかと思えば、またちがったかたちであらわれる。これも空と同じ一筋縄ではいかなかった。
 それでも私なりの条件をあげるところまでは行っていた。
そして、私なりの究極の科学を「私の科学」としていた。
▼その「私の科学」がどこからやってきたものなのか明らかにしようとしていた。
それは、今の私の科学観、世界観を問う営みでもあった。
・「常民の科学」
・「ファラデーの科学」
・「熊楠の科学」
・「等身大の科学」
・「高いレベルの科学」
そして「私の科学」。
これは少し大袈裟に言えば、「○○の科学」遍歴である。
▼私にはずっと気になる「科学」がある。それは「科学」として語っていいのかわからない。
ともかく気になるのだ。
それが、「雲見」の元祖提案者 宮沢賢治である。
仮に言うなら「賢治の科学」である。
詩人・童話作家という方が世間的な評価なんだろう。賢治のことが気になっていたのはずいぶん古い。
小学校か中学校のころ教室に掲示してあった『雨ニモマケズ』。
本好きの友人が賞賛してい『銀河鉄道の夜』。
「雲見」に出会うまでも、いろんなところで幾度となく出会ってきたであろう宮沢賢治。
なぜに気にしてきたかもわからない。
▼私は、昨日あらためて青空文庫で『銀河鉄道の夜』を読んでみた。
 私は、今さら宮沢賢治を研究しようというのではない。こんな並外れた感性をもつ詩人・童話作家に学ぼうというのでもない。
私が知りたいのは
「私がなぜ宮沢賢治のことが気になるのか」である。

すこしずつ、ゆっくりすすめよう。


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Twitterはじめて700日目に思うこと。

Dscn8887▼地上の変化だけでなく、空の変化も見逃したくない。と例の「雲見」をやっていたら、それこそ夏の雲と秋の雲が入り交じっていた。まちがいなく、地球は動き続けている。風景の変化がそのことを教えてくれている。
当然のことその乗組員の一員である「私」も変化し続けているのだ。
▼「地球の鼓動」であることをめざしたTwitterを私がはじめて今日で700日目である。
そうだ!!地球は700回、自ら回転したことになる。
例によって、100回転ごとの心象風景の変化をふりかえっておく。

◆新・クラウド「整理学」試論(10)(102日目に思うこと 2010/01/03)
◆Twitterはじめて200日目に思うこと(2010/04/10)
◆Twitterはじめて300日目に思うこと(2010/07/20)
◆Twitterはじめて402日目に思うこと(2010/10/29 )
◆Twitterはじめて500日目に思うこと。(2011/02/04 )
◆Twitterはじめて600日目に思うこと。(2011/05/15 )

▼600日目の最後は
「サイエンスコミュニケーターにとって、Twitter的とは」
の課題で終わっている。
100日間でどこまで来たのだろう。私のTwitter、Twitter的にどんな変化がおきただろう。
思いつくままにコトバにしてみる。
・Twitter的はどんな「事実」を作り出したか。それが問題だ!
・Twitter的は不易である。
・Twitter的は流行である。
・Twitter的は不易と流行を合わせ持つ。
・Twitter的はプロセスである。結論ではない。
・Twitter的は方法である。目的ではない。
・Twitter的は今考えられる最高の道具である。
・Twitter的は「コンヴィヴィアリティのための道具」である。

思いつきのコトバは、まったく意味をもたない「たわごと」ようにも思えるが、「記録」しておけばあるとき、あるとき
重要な意味をもってくるかも知れない。淡い期待を抱いて「記録」した。
▼なにか新しいことに出会っているようにも思えるし、「なつかしさ」に回帰していっているようにも思える。
時空は螺旋的に変化しているのだろう。
そりゃそうだ、なにしろ我等が地球は「回転」しているのだから、
心象風景も当然螺旋的な変化をするだろう。

100回転後までの課題は
「Twitterを超えるTwitter的はあるのか」
だ。
 さあ、今日の私のTLには何が流れるのだろうか。
楽しみである。

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【Web更新8/21】11-34 新・クラウド「整理学」試論 更新!

Dscn8831

ジュズダマ 雨に教える 残りし日
 11/08/21 (日)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】11-34
週末定例更新のお知らせ
 夏休みの終わりが近づいてきた。サイエンスコミュニケーターとしてのはじめての夏休みであった。
でもやっぱり気分としては、これまでと同じであった。8月も20日過ぎると、なんとなく憂鬱な気分になってくる。「宿題」が思い通り行っていない思いからであろうか。それとも、自由な時間がなくなっていく不安であろうか。
 こんなときは、もういちど「原点」にもどって考えてみよう。思いだけでなく、生活のスタイルも時間の使い方もすべてにおいて・・・。「一日一生」で残りの一日一日を大切にしよう。

◆表紙画像集2011 人里の植物シリーズ ジュズダマ
 肌寒ささえ感じる雨の朝、里を歩いてみた。そしたら、例年のあの場所に雨にぬれるジュズダマが実をつけていた。(正確には実という表現は正しくないそうだが…)この実をみると秋だなと思う。
秋の深まりと同時に、この緑、黄緑の実が黒く色づき、つやをもっていく。あの実を宝もののように集めた日がなつかしい。
 柳田翁にも同じような思い出があったのだろうか。いや、もっと特別の思い入れがあったのかも知れない。なにしろ最後の謎解きのアイテムとして登場させるのだから。

◆新・クラウド「整理学」試論 更新
 この方もビジョンはかりが先行し、具体的な行動がともなっていない。いつまでも「峠」に立ち尽くしているだけではことは進まないのである。これも「原点」に立ち返り、ゆっくり 急ごう!!

◆【大賀ハス観察日記】 更新
 こちらの方は、今週こそ種子がこぼれ落ちるだろう。昨日少し水を与えられたら果托は上を向いたように感じたがきのせいだろうか。


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新・クラウド「整理学」試論(34)

Dscn8802▼昨日で大賀ハスの蓮根を植え替えてから18週目である。第二、第三の果托が黒ずんできている。
第二の果托に6個、第三の果托に7個の種子ができている。週末までには、収穫できるかと思っていたが、来週に持ち越しそうである。これらを見ていると、あの「あこがれの4日間」の第一日目、第二日目の様子を思い出す。
どこからともなく虫(ハチ)たちが寄ってきて、その結果がここにある。私の大賀ハス物語はまだまだつづく。
▼あらたな「整理」をはじめる前に実は少し戸惑っている。
「不惑」なんてとっくにすぎているはずなのに…。
方向はある程度定まっていた。
●いつでも、どこからでも「検索」できるように「整理」する。
●吟味したうえで、セミパブリックな場に「整理」する。
である。
「整理」対象物をならべてみる。
・書籍、雑誌
・各種ペーパー情報(文書)
・音声情報(講演、研修会、授業などの録音)
・録画情報
・画像情報(アナログ写真を含む)
・モノ情報(教材、教具、実験観察用具なの)
等などである。
 これらのなかでも、圧倒的に多いのが、紙情報(文書)情報である。
▼これに関連して、私は最近奇妙なことばを耳にした。少し前から使われいるらしいが、私が知らなかっただけである。その言葉とは
「自炊」
である。ああ学生時代や単身赴任ときにやるあれかと思ったら違うらしい。
書籍、雑誌、各種紙情報(文書)を自前でデジタル化することだそうだ。
雑誌などを裁断して、ドキュメントスキャナーで読み込みPDF化する。そしてそれらを保存、蓄積しておいて、いつでもどこでも端末でひっぱりだしてきて活用することだという。
 スキャナーが自分で勝手に吸い込んでPDF化するから、「自吸(じすい)」→「自炊」?
興味あるところは、あらゆる文書をデジタル化し、すぐさま「検索」可能な状態で「整理」できるところである。
特に、目新しい試みとは思わないが、
ポンコツがはじめるには、ちょっとした勇気と決断が必要なようだ。
それなりの道具も必要なようだし…。
さあ、どうしようかな。
 

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「科学の最前線」も面白かった!!

Dscn8781▼今朝、起きたら涼しい風が吹いていた。
雨少しふっているようだ。そう言えば、いつものあの場所にナツズイセンが咲いていた。また、今年もリコリスたちの季節がちかずいているのである。それまでに、こちらの方のスタンバイをしておかねばと思った。
▼少し、私の研修が続いた。「クマムシ」「シダの前葉体」に続いて、昨日は県立大学の公開講座にでかけた。
今度は「科学の最前線」についての研修だった。
テーマは2つである。
「超高圧の世界」(大学院物質理学研究科 赤浜 裕一 教授)
「呼吸のしくみ」(大学院生命理学研究科 吉川 信也 教授)
ともになかなか興味深い内容であった。
Dscn8632▼とは言っても、ポンコツ頭にすぐさますべてを理解できるというようなものではなかった。
 しかし、ここにも「私の科学」があるなと再確認しながら講義聴いた。
「超高圧の世界」では、驚くことばかりだった。
・人間の「圧力」認識の歴史
・超高圧とは
・地球の中心は360万気圧 (゚o゚)ゲッ!!
そして、なにより驚いたのはダイヤモンドアンビルセルという装置で、地球の中心の圧力を超えるような圧力を作り出せるというのである。
 それも、その装置は手のひらにのるようなサイズなんである。持たせてもらった。ずっしりと重かった。
 もっと驚くことがあった。この装置を使えば「酸素の固体」もつくれるというのである。
▼これはうれしかった!!私は授業「三態変化」 では、「鉄の気体もある 酸素の固体もある」と確信をもって言える子どもを育てたかったのだがら、それが事実としてここにあるというのがうれしい。
 さらに驚いたのは、「金属水素」のことだ!!物質の「ふしぎ!?」追う物語は、ここに究極があるそうだ。
なによりうれしいのは、「授業の科学」と「科学の最前線」がつながっているという事実だ。
▼もうひとつの講義「呼吸について」も同様であった。
「生物は栄養物を空気中の酸素で酸化して(燃やして)出てくるエネルギーを生きるためのエネルギーとして利用している。」
「生物は多種多様のタンパク質の働きによって、熱を出さずにエネルギーを非常に効率よく取り出すことができる。この生物の行う活動を生命科学では「呼吸」とよんでおり」
これだ!!中学校理科でもやろうとしている「呼吸」もこれなんである。
さらに「ピコバイオロジー」と話は展開していった。
浅学な私には、一挙に理解することは困難だ。しかし、「生命現象とはタンパク質に駆動される化学反応である」
「どのような化学反応性を持った原子がどのように空間的に配置されているかを明らかにすることを出発点としてタンパク質の機能を解明することにより生命現象を理解することを目指す学問領域をピコバイオロジーと命名した。」
という、「ふしぎ!?」を追いかける物語のあらすじは理解できる。
そして、これも授業の科学の延長線上で捉えられそうだ。それがうれしい、面白い!!
▼さらに話は高度な内容に発展し、私にはその内容の何百分の一も理解なかったが、なぜか「ふしぎ!?」を追う「学問」がとても面白く感じられた。
 帰ろうとしたとき、たまたまお会いした吉川先生に、用意していて聞きそびれた質問をしてみた。
「2000年間も眠りつづけていたという大賀ハスの種子は、呼吸をしていたのですか」と。
唐突な質問にもかかわらず先生はていねいに答えてくださった。
「呼吸」という営みがどんなにすごいことか。
我々は眠っている間にも膨大なエネルギーを消費しているかも。
つくづくと思った。

「学問」とは、問いを持って学ぶこと !

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「クマムシ」と「シダの前葉体」を見た!!

Dscf9422▼昨日は念願のものふたつを見て、いささか興奮していた。
まずひとつは例のクマムシである。この夏休みに入ってから5匹目(これって一匹、二匹…数えていいのかな)である。四番目に見つけた「オニクマ1号」の感激が大きすぎたためとそのオニクマムシが亡くなったショックでしばらく「クマムシ探査」から遠ざかっていた。
 「オニクマ1号」はずっと未練たらしくカプセルに入れて、持ち歩いていた。それがどうなっただろうかと顕微鏡で見たくなって、理科室へ行った。残念ながらその姿はなかった。
▼そのかわりと言うとへんだが、たいへんなものを見た!!
校庭のコケからクマムシを発見したのは7/26(火)だった。そのクマムシを発見したシャーレをかたづけにそのままにしていた。意図してそうしたわけではないが、なにか貴重なもののように感じてそのままにしておいたのだ。
8/18(木)まで23日間、そのままにしておいたのだ。
 片付けてしまう前に、それほどの意図もなく、シャーレに水を加えた。そして双眼実体顕微鏡でのぞいてみた。
コケの破片も干からびてカラカラである。しばらくのぞいていた、無機的な世界である。
▼ところが、なんと砂粒がうごいた。生きものだ!!
この「動き」には、何種類かあることは知っていた。繰り返したクマムシ探査の成果である。
(゚o゚)ゲッ!! クマムシの動きだ!!
本当にいたのだ、クマムシが。復活してきたのはクマムシだけではなかった、ワムシらしきものも復活してくるのだった。乾眠状態であったものが復活してきたのだ。
 これらの生きものを発見するは意図も簡単だった。最初の観察よりずっとずっと簡単だ、静寂のなかで砂粒のうごくの見つければいいだけだ!!
▼これまでに誰も語らなかった、どこにも書いていない簡単なクマムシ探査方法!!
一度は、今までどおりの方法で見つける。発見できればそれでいい、発見できなくてもそれをすぐさま洗い流してしまうのでなく、それをしばらく「寝かせる」、乾燥させるのだ。
数日たってから、そこに再び水を加えて観察する。そうしたらものすごく発見しやすい!!
名付けて
 クマムシ探査 ネバーギブアップ法!! 
Dscf9521▼これだけでも結構興奮していたのに、さらに興奮するものを見た。
それは、何回目かのファラデーラボで見たのだ。
見せてくださったのは、康ちゃんこと寄木康彦さんだ。
 寄木さんには、いろんなことでずっとお世話になってきている。その寄木さんが最近、「シダの研究」されているとお聞きしていた。今度、中学校理科に復活する「シダ」についてである。
 面白そうだ!!どこかでお話を聞きたい、現物も見せて欲しいとずっと思っていた。
▼これまでの「植物の世界」の授業でも、前葉体は扱っていた。しかし、それはビデオの映像や資料集の写真であった。私自身も挑戦はしたことはあるものの、ホンモノの「前葉体」は見ていなかった。
それを昨夜ついに見せてもらったのだ。
 マメヅタの前葉体、2ヶ月生育したもの!!
なんと美しい!!
感動である!!ホンモノはやっぱりすごいのだ。
ほんとうにハート型をしている。アタリマエにあらためて感動するのである。
▼これだけではなかった。研究のほんの一端をスライドをまじえてお聞きした。
胞子のうがはじけるのもナマで見せてもらった。すごい説得力だ。
ホンモノの観察は、すごい説得力をもつ。この迫力はなににものにもかえがたい価値をもつ。
胞子のうのはじけるのをリアルタイムに観察する方法も教えてもらった。
簡単な胞子の育て方も教えてもらった。胞子育成セットもわけてもらった。 
またしても楽しみがふえていく!!  
なんと自然は豊かななんだろう。  深謝。


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新・クラウド「整理学」試論(33)

Dscn8499▼昨日、ここで大賀ハスの種子のすごさについて書いていた。そしたら、そもそもこの大賀ハスの本家本元の阪本尚生さんからコメントがきた。そして、その種皮の「ふしぎ!?」についての情報をブログ「大賀池日記」にあげておくからということだった。見せてもらいに行った。「果皮の柵状層の中ほどにあるガラス質の帯 hyaline zoneの存在」に秘密があるという。へえーそうだったのか!!
 実に面白い!!この「事実」ももちろん面白いが、研究蓄積された情報にこのようにツナガッテいくのが、なおいっそう面白い!!
▼言わばこのための「整理」である。
蓄積された情報を検索可能な場に置いておくこと。
もちろん、ケースバイケースで吟味することは必要であろうが、基本的には
●検索可能なセミパブリックな場に「整理」する。
それが、私のスタンスであり方法である。
▼「記憶」するより「記録」する。
忘れてもいいように「記録」する。「記録」したものは、検索可能な場におく。そうすることによって、未来の自分をはじめ他人の「検索」の目にかかる。
 それで、あらためて自分の発信した「情報」に価値が生まれるのである。
 私は、以前からこのblogの右袖のしたにある「検索フレーズランキング」を楽しみのひとつとしている。ちなみに今朝現在のモノは次のようになっている。(毎朝更新されているようだ。)

1位:星野華水
2位:大気圧 実験
3位:雲を作る
4位:ファラデーの日記 楠田
5位:光合成と呼吸
6位:理科 自由研究 失敗
7位:コウガイビル
8位:塩 結晶 巨大
9位:マグデブルクの半球
10位:食塩の結晶

 これを逆に辿っていくことによって、自分がこの情報を発信したときの思考が復元されたり、思わぬ「発見」があったりして面白い!!
 なかには完全に記憶にない「フレーズ」があったりして驚くと同時に、「情報は発信するところに集まる」を実感したりする。これぞネットの醍醐味なのかもしれない。
▼あらたにはじめる「整理」の方向性も少しずつ見えてきた。
能書きはこれぐらいにして、はじめよう!!
忘却のための「整理学」!!

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新・クラウド「整理学」試論(32)

Dscn8437▼それまで、ずっとずっと続けてきていた定刻の大賀ハスの観察がとぎれていた。もう大きく変化しない、後は果托から種子への変化だけだからと言い訳をしていた。
ちがっていた。実は果托から種子への変化だってすごく面白いのだ。
緑色していた果托は、やがて黒ずんでくる、その赤ちゃん(種子)たちが先に黒ずんでいく、それが自立へのサインであろうか。金属ヤスリで擦らなければ裂けないぐらいの固い種皮、2000年もの長い間眠りにつけるシェルターを形成していくプロセス。
 これが面白くないはずがない。
▼そうだ。種子そのものだってプロセス!!次なるいのちの営みにつながるプロセス。
面白いのはプロセスなんだ。
「整理」だって同じ。これは「目的」であったり「結果」ではない。
整理はクリエイティブな営みへのプロセスなんだ。
いかに一見整然と「整理」されようと、整理されたものが使われることがなかったらそれは、ないことに等しい。
いや寧ろ捨ててしまった方がましだ。使いものになるモノだけが残るから、使い勝手がよくなる。
わかっているが、その判断が難しい!!
いつもここで座礁してしまうだ。
▼非常に唐突だが、ここで思いだしたのが、我等がファラデーの『ファラデーの日記』である。

 筆まめなファラデーは克明な日記も残している。それは普通の日記でなく、毎日の実験と観察の記録である。さまざまな思考や試みをこれほど詳細に書きのこした科学者はケプラー以外はいない。ファラデーは生前これを六巻に製本していた。その原本は四つ折り版、二冊、二つ折り版、八冊で、合計十冊で、びっしりと書き込まれた四〇〇〇ページにも及ぶ膨大なものである。余白には、無数の実験の図が描かれており、工夫に工夫を凝らしたファラデーの姿をみることができる。四つ折り版は、一八二〇年九月から一八三三年まで、二つ折り版は一八二八年から一八六二年まで、最初の記録からいえば四二年間にわたる。これだけ長期間にわたる、これだけ膨大な研究日記は科学史でも例がない。これらは『ファラデーの日記』七巻(一九三二~三六年)として出版された。(『ファラデー 王立研究所と孤独な科学者』(島尾 永康著 岩波書店 2000.3.14) P125より)
42年間の「記録」!! 圧倒されるばかりである。

▼これだけではない。「整理学」へのヒントは次にあった。

  注目に値するのは、研究記録の各パラグラフに通し番号をつけていることである。電磁誘導を発見した年の一八三一年二月二日から始め、…(中略)…。そして一八三二年八月二五日から始めたのは、一八六〇年三月六日まで続き、一~一六〇四一となっている。約三十年間にわたって研究に通し番号をつけた科学者は他にいない。(上記書P125)

なんと示唆的であることか。
つまりファラデーは、自分のこの膨大な「記録」に検索をかけれるようにしたのだ!!
必要なときに、必要な「記録」をすぐさま引っぱり出してこれるようにしたのだ。
これこそが私たちがめざす究極の「整理」なんだろうと思う。
プロットした「記録」をいつでも検索をかけ、ひっぱり出してきて、ひっぱり出してきたもの同士をつなぎ合わせてみる。そして、まったく新しいものを「発見」する、それをまた「記録」する。
そうなってこそ「記録」に意味が出てくるというものである。

いつでも検索にかけれる状態にすること。そのシステムを構築すること。
それを「整理」とよぼう。

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新・クラウド「整理学」試論(31)

Dscn8407▼私のなかでのひとつの季節が終わった。
ひさしぶりに定例の朝の散歩にでかけた。工事が本格化して、二ヶ月半たとうとしているので、定例コースは激変してきている。もう昔の姿を思い起こすことすら困難になっている。
 人間でもこんなにビックリするのだから、動植物ももっとびっくりしているだろうな。
そんななかにあって、雑草たちはたくましかった。私が名前を知らないだけで、「雑草たち」と呼んでしまうのは失礼であるが。
 変わりゆく風景のなかに、変わらずに存在するしたたかなエノコログサがあった。
ありふれているいるけど、アタリマエすぎるけど
したたかで、しなやかに…。
▼家にいる時間が増えてから、少しずつ現職時代の「整理」を続けて来た。
まずは、このお盆までがひとつの区切だと思っていた。そのお盆が終わったのだ。
あらたに計画をたててみようと思っている。予定では、とっくに終えていることが残っている。
 しかし、これまでの延長線上にとらえるのでなく仕切り直してみようと思う。
▼「空間の整理」「情報の整理」「思考の整理」
とならべてみて
1 状況の把握
2 視点導入
3 課題設定
というプロセスをふんでいくという佐藤可士和に学んだあれだ。
それに私は究極の整理として、「時間の整理」を加えていたはず。
▼もう一度、すべてをリセットしてみよう。
「情報の整理」から、はじめてみよう。
「情報の整理」もデジタル化の検討からはじめてみよう。そこから逆算して「空間の整理」を導きだそう。
その作業中で生まれるだろうクリエイティブシンキングこそ究極のねらいとしていこう。
ゆっくりと 急ごう!!

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【Web更新8/14】11-33「サイエンスコミュニケーター宣言」更新!

Dscn8376

墓参り 空にはじける クサギかな
11/08/13 (土)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】11-33
週末定例更新のお知らせ
 今日でお盆が終わる。同時に私の「夏休み」が終わる。
生まれてはじめて体験する長期の休暇であった。ずいぶん以前から、このときにこそやろうと計画したこともいっぱいあった。そのうち実現したこともいっぱいあるが、残念ながら「計画」だけに終わってしまったことも多い。
悔やむよりも実現したことをふくらませる方向で思考するようにしよう。
 今週から、いつもの日々がもどってくる。柳田國男の言うところの「ケ」(日常)の日々がもどってくるのだ。
「ハレ」(非日常)をより意味をもたせるためにも、「ケ」の日々こそ大切にしたいものだ。
 「ケ」の日々の中で、今 私がいちばん大切にしたい営みは「整理」である。

◆表紙画像集2011 人里の植物シリーズ クサギ
 「墓参りの生態学」を唱えたのは日浦勇だ。(『自然観察入門』)家族、親族がこぞって墓参りをする、いろんな世代のものが一緒に自然観察をする絶好の機会と考えると、けっこう面白い発見があるかも知れない。
 我が家の墓地の入口ちかくに、ひときは目立つ花が咲く樹があった。クサギだ!
この花の咲く様子を教えてもらってからは、こいつを意識的に観察するようになった。
今年は、その後の実になるまでも観察をつづけたいと思っている。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新!
 「私の科学」がどこからきたのか、それを追いかけていた。
先週は多くの「私の科学」を人たちに出会い学んだ。これからの「私の科学」のヒントとなった。
元祖サイエンスコミュニケーター=ファラデーのことが再び、すごく気にだした。
「ファラデーの日記」を読み継ぐ手立てはないものだろうか。そこには真のサイエンスコミュニケーターへの道のヒントがいっぱいありそうだ。

◆新・私の教材試論 更新!
 現在地の中間報告をした。自らに課した提案も、それに縛られることなく面白いこと優先で具体的にすすめたい。もうこれからは、「~すべき」より「~したい」を優先させていきたい。

◆【大賀ハス観察日記】 更新
8/13に二粒の種子を収穫した。今週中には何粒まで収穫できるだろう。
楽しみである。

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新・私の教材試論(65)

Dscn8328▼お盆の第一日目がすぎた。
母の初盆である、親戚の人たちがお参りくださった。「はや、あれから一年か」と感慨深いものがある。
Dscn8345一年のあいだに何が変わったのか、変わりつつあるのか。
そんなこと考えながら墓参りをした。
Dscn8341▼そして、蓮根の植え替えから17週目の大賀ハス観察池の定例観察をした。家にいたから何度も観察した。
朝方には、どんどん成長する果托に感動した。第二、第三の果托もキズのように少し黒ずんだところもみられるようになっていた。15:30ごろの観察で驚くべき事実に気づいた。
第一の果托から、2個の種子がこぼれ落ちていたのだ。17週目にして、2個の種子になったのである。
▼すき間時間を利用して、志賀高原での4日間で学んだことの反芻作業をしていた。
自分が報告時間ももらっていた。ありがたいことだ。
 授業実践記録でないことが少し気になるが「『新・私の教材試論』は今」というタイトルで報告した。
*******************************************************
     『新・私の教材試論』は今                      
       
(1) 私にとって「教材」とは

・私と教材(36年間の中学校理科教師をふりかえって)
・サイエンスコミュニケーターと「教材」
・すぐれた教材は、すぐれた文脈(授業)なかから生まれ、あらたな文脈(授業)を創り 出すのである。(「コンテンツはコンテクストから生まれる」)

(2) 「3K1Aの法則」「3Hの法則」とは
『3K(感動・簡単・きれい)1A(安全)の法則』
『3H(ホット・本質的・ホンモノ)の法則』

◆『教室全体のピンホールカメラ』
「はじめての実践記録」より
http://homepage3.nifty.com/KUSUDA/KENKYU/hajimete/hajimete.htm
◆『究極のクリップモーター』
◆「非接触温度計」
◆究極のマグデブルク半球
◆「頭骨コレクション」

(3) 教材史と科学史
 定番実験には必ず「歴史」がある。
 それぞれの教材開発物語がある。
 教材の不易と流行

●現代理科教材発展史(教材を追うシリーズ)
◆現代理科教材発展史「スライム」
http://homepage3.nifty.com/kusudadb/kyozai/slime/slime-historey.htm
◆現代理科教材発展史「ピンホール・カメラ」
◆現代理科教材発展史「究極のクリップモーター」
「マッチ一本化学の元!!」
等など

◎ 「原子論的物質観」と「原子力」教材

(4) これからの「教材開発」は
これからの教材研究はTwitter的だ!!
Twitter的教材開発にこそ可能性がある!!
◇Twitter的とは…
「リンク」
「シェア」
「フラット」
「等身大」
「リアルタイム」

(5) 教材の”テキスタイル”化
◇ 科学者・研究者との共同研究
◇ ”テキスタイル化”によって見えてくること
◇ Webテキストの可能性(電子教科書時代、共同実践、クラウド)
たとえば
【ヒガンバナ】
・別紙資料参照

【クマムシ】
・なぜいま「クマムシ」なのか。
  一粒の砂に世界を
  一輪の野の花に天界を見る
  あなたの手のひらに無限を
  ひとときに久遠をとらえる  
         ウイリアム・ブレイク(イギリス)
・どんな可能性が

【大賀ハス】
・「花と実」
※ http://homepage3.nifty.com/KUSUDA/KENKYU/hasu/hasu-index.htm
【コウガイビル】
・261日 飼育(!?)して
※ http://homepage3.nifty.com/KUSUDA/KENKYU/kgb/kogaibil.htm

【参照】http://homepage3.nifty.com/KUSUDA/KENKYU/RON/newkyouzaishiron-index.htm
http://rikadiary.cocolog-nifty.com/kusuda/  
*******************************************
▼具体的な授業実践記録でないから、一方的に自分の「思い入れ」を語るだけになってしまった部分があるが、それでもいくつかの意見をもらった、ありがたかった。
自分の思いを語り意見・批判をもらう。
こういうのから少し遠ざかっているから、私には新鮮な体験であった。
あらためて「実践記録」とはなにかを考える機会となった。
▼そしたら、中村敏弘先生のあのコトバを思いだした。

 もうひとつ、記録を書くことと、思想性を高めることを統一して行う仕事がある。それは、自分の認識の変化を書くことである。子どもの認識をどのように変えようと思って、自分の認識がどのように変わったか-自分が先生になった時から、どういうことがあったからどう変わったか、自分の記録を書くことである。  実践を検討したり、批判したりするもと(基準)は、教師としての生活であり、それがこうすることによって、はっきりさせることができるのである。 ( 『教育実践検討サークル 創造する東北の教師たち』(中村 敏弘著 国土社 1975.11.5) P423より)

なんと的を射たコトバだ。
実践記録とは、結果ではない。
実践記録とは思考のプロセスである。「事実」の記録である。
「事実」を共有するためのひとつの方法である。
自らの現在地を確認するための作業なのである。
そう考えていると
次なる「実践記録」に向けて、少しずつ意欲が高まっていく自分を感じていた。

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サイエンスコミュニケーター宣言(47)

Dscn8298▼お盆である。人々が死者と語らう日である、死者は過ぎ去りし日々からだけやってくるのだろうか。そうではないような気がする。およそ「科学」とは相反するような発想かもしれないが、時空を超えてしまった死者は「未来」からもやってくるような気がしてならない。
「過去」からやってきた死者は、変えられないなつかしき日々を語ってくれる。
そして教えてくれる「私」がどこからやってきたのか?を
 「未来」からやってくる死者は、ときに「これから」を示唆してくれる。
未来は変えることができると誘ってくれる。
▼4日間の研修から帰ってみた、大賀ハスの観察池の果托は変化していた。
第一号の果托がいちばん大きく変化していた。
二個の種子は黒ずみ、今にもこぼれ落ちそうである。第二、第三の果托も大きくふくらんでいた。
未来につながれる種子たちは確実に成長していた、生命の営みはまちがいなく連続していたのである。
▼私の作業も連続させてみよう。
四日間の研修の前に書いた「サイエンスコミュニケーター宣言(45)」につないでみる。
元祖サイエンスコミュニケーターのファラデーにふれてこう語る。

わたしたちはいまファラデーの日記を読んでいる。科学史の勉強というよりは、よい電磁気のテキストを作るためのヒントがもしかしたらえられるかも知れないというはかない願いのためでもある。乏しい語学力での作業はさっぱりはかどっていないが、それでも読んだかぎりで圧倒されるのはファラデーのすさまじい執念 である。直観力に富む、あるいはすぐれた実験者という言葉から受ける印象とはまったく違っている。ともかく思いついたことは全部やっている。考えられるすべての場合をためしているのである。明快な「方法」といえるようなものは何もない。考えられることはなんでも考える。いまから見てばかげたことをいっぱい考えている。じしゃくの北極と南極とを分離しようとしている。電流の仕事を+電気と-電気のぶっつかりと考えている。要するに小学校の低学年の子どもらならだれでも考えそうなことを、ファラデーはまじめに考えて実験しているのである。そして、現在の最良の検流器でやっと検出できるような現象、たとえば磁針のほんの少しのゆれなどもはっきり観察しているのである。それはみつけようと必死になって観察しなければ発見できない現象である。ファラデーは電磁気というものの研究がどんなに重要かはっきり自覚していたのである。手作りの装置だけでない。利用できるものなら、ヨーロッパ中探しまわって入手しただろう。それほどの執念が文のひとつひとつから明白に知られるのである。これこそ科学の基本ではないか。(『教師の世界観・教材観』(高橋金三郎著 明治図書 1979.9初版)p169 より)

なんとすごい読み取りではないか。
一見非科学的なコトバとも思える「執念」、それこそが「科学の基本」と言い切る思想。
まったくもって圧倒されてしまうのである。
このとき読んでおられた「ファラデーの日記」を読む作業は、最晩年まで続けられていたということである。
それもまだ途中であったという。
(今回の研究会で、一緒に読んでおられた中村敏弘先生に教えてもらった。)
▼それこそ「執念」とも思える継続した「ファラデー日記」の読み取りは、次の「決意表明」とも思えるコトバにつながっていく。

学びがいのある対象に、学びがいのある角度から接近しないかぎり、大自然はその秘密をあかしてくれない。大自然は人間の命令では運行しないのだから、願いが強烈でどうしても実現してほしければほしいほど、観察・実験の結果は客観的なものになる。そうでなければ役に立たない。(同書 p170より)

▼私は、今回の研究会に参加して学んだことを反芻作業するなかで、やっと少しずつわかりはじめてきた。
研究会に参加させてもらって、なぜ「圧倒」される思いを抱いたかの理由を。
この「決意表明」を営々と引き継ぐ人たちがここにいたのである。
それに圧倒されたのである。
そこには、まちがいなく「私の科学」を持ち、「私の科学」を楽しむひとたちがいた。

私は、ゆっくりとであるが今日も、「死者」との語らいと、反芻作業続けよう。

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繰り返す!「高いレベルの科学」とは!?

Dscn8283▼ここ数日でいちばんよく繰り返し観察しているもの、それは「コケ」と「空」である。
志賀高原の宿の周辺の「コケ」と「空」、帰路に立ち寄った小布施の「コケ」と「空」、帰ってきて今朝もみた「コケ」と「空」。どこにも拡がる自然。
▼拡がる自然を観察しながら、繰り返す営み。
「高いレベルの科学」とは?の自問自答。
かすかに見えたかに思えば、またまた消えてしまう。見失ってしまうのである。
いったん納得しても、それは長続きしないのである。
謙虚に先達のコトバに耳を傾けよう。
◆『極地方式入門~現代の科学教育』高橋金三郎・細谷純編 国土社 1974.3.20 
をずっと携えていた。
 コトバはここにあった。

 しいていえば、「高いレベルの科学」とは、広大で未知の大自然の中での、判断の土台となり、行動の基準となりうるもののことなのである。(同書 p50より)
 子どもたちは、すぐれた知的探検家である。そしてその探検は、強力な武器によって、初めて可能になる。「高いレベルの科学」は、子どもの探検によって確かめられる。(同書 p51より)

▼先達のコトバが、そこにあってもやっぱり繰り返すのである。
あのシーシュポスに課せられた罰のごとく
岩をせっかく頂上まで持ち上げたかと思うと、またまた転がり落ちる。
なんということだ!!
 しかし、また岩を転がし持ち上げようとする。頂きめざして…。

 学んだことの反芻作業しながら、今日も問う。
「高いレベルの科学」とは…。

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「高いレベルの科学」は授業から生まれる!!

Dscn8010▼昨日の朝から少しずつ自分の体内に埋め込まれた「時間」に従った動きがとれるようになってきた。少し時間をかけて歩いてみた。志賀高原の朝は涼しかった。
 そして、なんとここに来ても「蓮池」だった。蓮池と言ってもむしろ睡蓮がめだった。
▼宿では、朝早くから深夜まで、ポンコツ頭をフル回転させた。
それでも、なかなか学びきれるものではなかった。
持って帰って、何度も何度も反芻作業が必要なようだ。
でも、これだけは言える。
「高いレベルの科学」は授業から生まれる!!
これは時空を超えた事実である。
▼「私の科学」の問題は、もう少し学んだことを整理しながら続けてみることにしよう。
この三日間で学んたこと。
このアタリマエ
・ひとから学ぶことは面白い。
・これからの学びは学び合いとしてしか成立しない。
・学び合いは、時空を超える。


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たくさんの「私の科学」と出会った!!

Dscn7877▼すこしは頭の中を「整理」してみたかった。でもそれを追いつかないぐらいに、次々とあらたな「私の科学」と出会った。この感覚はながく味わったことのない感覚だった。
 何十年も前の記憶と記憶をつないで、ひとつの話を作ろうとするができない。
これは「記憶」ではダメである。
▼これを克服する方法はただひとつだ。
「記憶」でなく「記録」だ!!
これなら、なんとかできる。「記録」を紡いでいけばなんとかなりそうだ。
「私の科学」もつ人たちは、もうすでにその方法を獲得していた。
それを学ぼうと思った。
▼「一歩後退 二歩前進」
懲りずに、自分は「私の科学」を求め続けよう。
今日も多くの「私の科学」と出会いながら…

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サイエンスコミュニケーター宣言(46)

▼ずいぶん久しぶりに「極地方式研究会」の夏の研究会に参加させてもらっている。
学ぶものが多すぎて、圧倒されるばかりである。
どこまでも、「等身大」にと自分に言い聞かせてみる。
▼「高いレベル」とは…。

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【Web更新8/7】11-32「サイエンスコミュニケーター宣言」更新!

Dscn7644
ヤイトバナ 甲にすえた日 遠くなり
 11/08/04 (木)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】11-32
週末定例更新のお知らせ
 いよいよ待望の研修会にでかける。もう数時間で出発である。
・「私の科学」はどこからやってきたのか。
・「高いレベルの科学」とは
・これからの「科学の方法」とは
いっぱい学びたいことがある。
「最もよく学ぶものが、最もよく教える」はサイエンスコミュニケーターとしての今も有効であろうか。それを確かめたい。
 もうひとつ挑戦してみたいことがある。
それは、できるだけリアルタイムで等身大の情報発信である。
これは、私にとっては、時代を読み解くための「実験」でもある。

◆表紙画像集2011 人里の植物 ヤイトバナ(ヘクソカズラ)
 今、60年間アタリマエとしてきた風景が激変しようとしている。風景が大きくかわろうとするとき、変わらないものがなんとも愛おしく感じる。野辺の小さな花、ヘクソカズラとなんともすごい名前をつけられた花はかわらず咲いていた。あの幼きころの「ヤイト」遊びの記憶を呼び戻してくれた。
 人里の植物たちは、みんな遊び道具であったり、貴重な「おやつ」であったりした。
 記憶に封じ込めるだけではもったいないすぎる。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新
 これをはじめて5ヶ月目になっている。
具体的になにをするのか。それも少しずつ見えてきている。
やりたいことでてきたら、並べてみよう。
そしてプライオリティをつけてみよう。「楽しい」順にやっていきたいな。

◆新・私の教材試論 更新
 「教材」は単なるモノではない。どうしようもなくその人の学びを体現してしまっている。
だから、矛盾するようだが「かたち」になっているので視ることが可能である。
中間報告『「新・私の教材試論」は今』を語ってみようと思う。
語ってみることによって、学ぶことは増幅されるだろう。楽しみである。

◆【大賀ハス観察日記】 更新
 花から種子へも、またドラスティクな展開である。
大賀ハスにとってはもちろん、こちらの方がメインの営みであるのだからアタリマエのこと。
今年は、いくつの種子ができるだろうか。楽しみである。

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サイエンスコミュニケーター宣言(45)

Dscn7764▼8月6日。自然と「科学とはなにか」が問われる日だ。
私は、あいかわらず双眼実体顕微鏡をのぞき込んでいた。
そこは、まるでひとつの宇宙への入口のようでもあった。のぞき込んでいる間は、現世の風景が消えて「別の宇宙」が見えるのみである。
 しかし、思考はそう簡単にシフトするわけではない。
 何度も、何度も同じ「ふしぎ!?」をくりかえしていた。
・「科学」とはなにか。
・私にとっての「科学」とはなにか。
この宣言のはじめの日に、私は次のように書いた。

▼今こそ、「くらし」と「科学」がツナガッテいなければならない。
「科学とは?」を今こそ問い返すときだ。
「科学」を専門家だけにまかせる時代ではない。
私は、「くらし」の専門家になりたいのだ。
私は、現役最後の授業でふたつの「科学の歴史」にふれた。
●1912年ウェゲナーの「大陸移動説」
それから100年!!
●1831年 ファラデーの「電磁誘導」発見
それから180年!!
時代は遡行しない。
「私の科学」はどこにいるのか?
それを問うことからはじめたい。
ゆっくりと ゆっくりと…
       2011/04/01  「サイエンスコミュニケーター」第一日目の朝

▼ それから128日目の朝。同じ問いを自分に問いかえしているとき、なんという偶然であろうか。
私の自問自答にひとつの解答を示唆する文章に出会ったのだ。いや、再会したという方が正しいのかも知れない。
 またしても、『教師の世界観・教材観』(高橋金三郎著 明治図書 1979.9初版)である。

科学というものを何かたくさんの事実・法則の集合と考える人がいる。反対に何か方法に重点を置き、仮説を立てて実験・観察していくようなものを科学と考える人がいる。この考えのどちらにも相当の理があるのだろう。しかし、私には一見正反対の考えが実は根がひとつであるように見える。そして私はこういう考えかたが好きではない。 こうした考えでは科学はいつも外部の客観的存在である。研究する事象はいつでも、明示されていない「だれか」によって与えられたものである。そんな受動的な態度で科学が建設できるものだろうか。科学は人間が作り出したものである。どんな他人行儀に見える事実・法則であっても、その原点ではいつでも人間のせっぱつまった願望が根底になっている。(同書P169)
なんという説得力だ!! 納得だ。偶然はここにとどまらなかった。 この文章に引き続き、二人の科学者を例にあげて語っている。 それがなんと「ファラデー」と「ウェゲナー」なんである。 これは、偶然であろうか。

<つづく>

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サイエンスコミュニケーター宣言(44)

Dscn7708▼またしても、iPS細胞関連のニュースが流れていた。昔からこの方面に疎く興味はありつつ遠くの世界での話と思っていた。ところが今はちがう。同じわからないにしても、なにか身近な世界の話としてうけとめることができるのである。それは、261日のコウガイビルとの出会いがあったからである。
 けっして、それは大学の研究室だけで起こっている話ではないのである。なにも特別の世界ではなく、くらしと地続きの世界に「生命科学」最前線もあるのだ。
 でなければ「科学」なんて何の意味があるんだろう。
▼帰り来ぬ「オニクマ1号」の生命のこと考えながら、繰り返し繰り返し実体顕微鏡をのぞいていた。
またあたらしい部分の庭のコケをとってきた。
 観察の要領もだんだんわかってきた。欲張りになってはいけない。なにとかたくさんの量を観察すれば、「発見」もはやいだろうと考えるのはアタリマエ。しかし、一度にたくさんを観察しようとすれば、これは逆効果だ。
▼ それにしても面白い。ミクロの世界!!
 これまでは本やテレビの世界で知っていたのかも知れない。ひょっとしたら自分自身が授業のなかで言ってきたかも知れない。
 いろんな生きものたちが、ウジャウジャいるのだ。超高スピードで泳いでいくもの、まわりの石やゴミをピンピンとはねのけて元気よく活動するセンチュウ、クラゲのような体つきをして浮遊するもの、透明な体内に葉緑体をもつもの等など、観察するたびに初対面のやつに出会う。
 なんということだ。たった20倍に拡大するだけで豊かに拡がる未知の世界!!
▼それは、生きものだけの話ではなかった。差し込んだピンセットにくっついてくる黒い物体がある。それは砂鉄であろうか。最後まで大きな透明な宝石のような結晶として存在する物体、石英だ。金箔のように光る物体も、雲母だろうか。なにかの種子のようなものも転がっている。
 ほんのわずかなコケのなかに、こんな豊穣として未知の世界が拡がっているとは。
本命の「オニクマ」や「シロクマ」に出会わなくても充分に楽しめるのである。お薦めだ。
▼大賀ハスの果托も徐々に種子へと進んでいる。
2000年の眠りにも耐えうる種皮とはどのようにしてつくられるのだろう。そんな驚異のシェルターづくりのプロセスも見えたら面白いだろうな。
 なんかいろんなことを想像しながら、「私の科学」を楽しんでしまった一日となった。
そして、思いだした。自分で勝手につくってしまった。
◆サイエンスコミュニケーターの条件 を。
【条件1】「私の科学」をもつこと
【条件2】「私の科学」を楽しむこと
【条件3】Twitter的であること。
【条件4】 「科学魂」をもつこと
【条件5】「学び」続けること

昨日は、いくつの条件を満足したかな。
今日は、どうだろう?

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サイエンスコミュニケーター宣言(43)

Dscf9382▼今朝起きて、東の空を見ていたらなんとも「なつかしい」という感情が生まれる「オリオン」が登ってきていた。そうなんだ!!とこのアタリマエに感動してしまった。
 意識的に見るか見ないかそんなことなんの関係もなく。地球は動いているのだ!!それが「真理」である。
▼ちっぽけな私は、哀しい「事実」を観ていた。
テキスタイル化の夢を描かせてくれていたオニクマムシが、やっぱり動かないのだ。小さな怪物であるはずのクマムシが動かない、それは「死」を意味するのだろうか。
不死身伝説は、私の勝手な期待だけの話なんだろうか。SOSを発して聞いてみた見解もそうだった。
なかなか諦めきれない。何度も何度も実体顕微鏡をのぞき込む。
なにがいけなかったのだろう。そう簡単に飼えるものではないのだろうか。
クマムシの「真理」はどこにあるのだ。
▼もうひとつの継続観察中の大賀ハスの果托、第一番目に開花(7/11開花)したものは、2個の種子が少しずつ少しずつ黒っぽくなってきている。こちらも2000年の眠りからも覚めることができるという強者である。
これだって、考えてみるとすごいことやっている。元をたどっていけば、一粒の種子だったんだから。
▼少しとぎれていたサイエンスコミュニケーター宣言を続ける。
かつて高橋金三郎は、科学者のことを「真理発見業者」((『教師の世界観・教材観』(高橋金三郎著 明治図書 1979.9初版)P69)とよんだ。 
 とてもピッタリくる、なるほどと思わせる表現である。
では、サイエンスコミュニケーターはなんと呼べばいいのだろう。
「真理発見伝達業者」
「真理発見普及業者」
または「真理発見勧誘業者」というところだろうか。

サイエンスコミュニケーター宣言では、「私の科学」の歴史を追っていた。
『日本理科教育史』年表と私自身の「科学」遍歴を重ねあわせて、今の「私の科学」をあぶりだすという、少し時間をおいて考えてみると不遜で遠大なる作業をやっていた。
もちろん途中であった。
▼一方では、ひとつの結論も持っていた。
「科学」はサイエンスコミュケーションのなかから生まれる。
多くの「私の科学」が交わるところに創造される。
今日は、栃木でそんな多くの「私の科学」が交わる日だ。
「お楽しみ広場」、「ナイター」「分科会」で。

「おすそ分け」の方もよろしく!!

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新・私の教材試論(64)

Dscn7600▼私はとんでもない思い違いをするところだった。大賀ハスの連続した「あこがれの4日間」が終わって、なにか一区切りがついて、正直ほっとしたような気分でいた。観察のメインイベントが終わったように思っていた。
それはちがう!!これは、なんと人間中心のご都合主義的な観察であることか。これでは、ほんとうの大賀ハスを観察したことにならない。花はあくまでプロセスであり、種族維持の戦略であり方法である。
 実は、花の後にできてくる種子こそが問題なんだ。佇立した4本の花茎のてっぺんについた花托は、果托へと変わっていく。胚珠は種子へと変化していくのである。「ふしぎ!?」は連続する。
Dscf9324▼いっぽうのクマムシの「ふしぎ!?」は連続の危機だ!!
「オニクマ1号」がまったく動かなくなってしまったのだ。
これがうわさの「クリプトビオシス!?」か。それにしてはおかしい。
そんな樽状なんかにはなっていない。おなかをぼてっとみせて仰向けに水に浮かんだままだ。
昨日の朝までは、わずかながらも動く姿があった。動きが緩慢になってきているので、お腹がすいているのだろうとエサをやらなければと思っていた。『クマムシ?!』によればワムシを食するようだ。
 それをどうして準備してやればいいのやら、米粒をシャーレの水中にしずめたがいつになるかわからない。
ワムシの発生など…。ともかくはじめてやることばかりであるから。
SOSだ!!だれか教えて!!どうすれば…。
▼「大賀ハス」「クマムシ」も極地方式研究会の「テキスタイル化」にヒントを得て、テキスト化を考えていた。
それもペーパーでのテキスト化だけでなく。
Webテキストである。
Webテキストは、できあがって完成ではない。Webテキストは使われて変わっていく、進化し続けるのである。
「作品」でなく方法である。
 科学の方法としてのWebテキスト!!
 これが、当面の教材試論のめざすところ。
試論は論のためにあるのでない。実践のためにあるのだから。
▼Webテキストの第一候補は、ずっとずっとその「ふしぎ!?」を追っている「ヒガンバナ」で試みてみようと思う。
克服していくべき課題はなにか。
Webテキストの対象は誰なのか。
とりあえずははじめてみれば、わかってくるだろう。
ここでも「情報は発信するところに集まる」だろう。
別の方法の方が面白ければ、その方をとればいい。
 

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新・私の教材試論(63)

Dscn7374▼「大賀ハス」「クマムシ」に夢中になっているあいだにも、それとは関係なく空は変化していっていた。朝散歩しながら見上げた空に雲があった。「雲見」だ!!
 こんなに安易にできて、すぐれた教材があるだろうか。見る眼さえ変えれば
自然は最高の教科書!!
はずっとずっと続いているのである。
Dscn7538▼7月のメインだった大賀ハスの花の観察にひとくぎりつけた。
第四の大賀ハスの花も、これまで同じようにまとめてみた。
・いちばん最高に開いたときの直径21㎝
・雄しべの数 211本(4つの中では最高)
・雌しべ(柱頭) 11
・花びら14枚   花びらの最大長12㎝横幅6㎝
 花びら縦平均 10.6㎝ 横平均5.05㎝ 横/縦の平均値 0.47
してみると、花茎こそ62㎝と高くはならなかったが第四が最大の花だったかも知れない。
四つの花の雄しべをすべてならべてみた。少し圧巻であった。
「花」というものが少しみえてきた。後は「種子」ができていく過程を観察もしていたい。
▼「オニクマ1号」の動きが気になる。あの最初に「狩り」と見た動きも、どうもそれではなさそうだ。
もうエサ不足でお腹がすいて元気がないのだろうか。
 お腹がすいたからといって「乾眠」に入ったりするだろうか。
教材化をめざしたいと思っているのに、ここで消えてもらってはこまる。
エサのワムシをどのように手に入れるか。次なる課題だ。そして第二号、第三号…の発見も。
▼「雲見」「大賀ハス」「クマムシ」それだけではない。
ずっとずっと「教材」として仕上げたいと思ってきたものがいくつかある。
・ヒガンバナ
・磁石石
・ピンホールカメラ
・コウガイビル
・山崎断層
等など

 いつか、いつかと思っている間にも時が過ぎていく。幼稚なものでもいいいちど、「テキスト」のようなものをつくってみることも面白いかも知れない。
 そこで思い出すのが、極地方式研究会の”テキスタイル化”だ。

 ”テキスタイル”ということばは、いつとはなしに造り出され、使用されるようになった。”わたしたち”の造語である(textile=織物ではなくて、text+style=textyleである。)”わたしたち”が教えたい、わかってほしいと願う事柄がきまったからといって、それはまだテキストではない。テキストは、発問と、資料と、実験と、読み物などで構成されるが、とりわけ、どんな発問を、どんな順序で用意するかが重要である。いや、内容がきまってから「さて発問は?」というのでなくて、事例に関する発問、事例を法則の支配下に位置づけさせる発問、等を考える過程の中で、”わたしたち”の中に次なる内容が求められ、獲得されていくのである。(『極地方式入門』(高橋金三郎・細谷純編、国土社1974.3.20) p174より)

▼これまで寝かせてきたネタをテキスタイル化をするという試みは、電子教科書時代の流れも射程にいれて考えるとき、きわめて今日的課題に通ずる取り組みとなるだろう。
 教材試論はより実践的教材論にちかづくであろう。
拙い試作であってもいい。
 はじめてみようと思う。
はじめることで次なる展開があるのだから。

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新・私の教材試論(62)

Dscn7341▼8月がはじまった。やりたいことずっとならべて順番をつけてみる。
優先順序に従ってひとつひとつクリアしていく。それが予定通りいくなら、そう苦労することないのだろう。
ことは、常に「予想外」の展開を見せる。「自然」はそれが面白いのかも知れない。
 ひとつめの予想外は、大賀ハスだ。8/1は、今年、第四の開花の四日目である。
▼「あこがれの四日間」は、ルールがあった。三日間の開閉を繰り返して、四日目には、開きそのまま散ってしまうのである。これまで観察してきた大賀ハスの花はすべてこのルールに従っていた。いつの時間帯に散るかは少しのずれがあったが。
 だから私は計画をしていた。遅くとも午前中にはほぼ散ってしまうだろう。その後は、例の雄しべを数える作業と花びらの縦横を計測して、今年の大賀ハス観察に一区切りをつけようと。
ところが、散らないのある。一時間ごとに観察にいくが変化ない。風がけっこう強いときもあったのだが。
部分的には散ったが、最後まで行かない。夕方、周りが暗くなってもその姿をとどめていた。
なごりを惜しむがごとく。それでも就寝前にいくと、さすがに散っていた。「四日間」のルールは成立したのである。
それにしてもこのルール、「ふしぎ!?」なもんである。
▼もうひとつ「予想外」があった。思惑外れのことが、大賀ハス観察の待機のあいだに、もうひとつの「ふしぎ!?」を楽しんでいた。例のオニクマムシの観察である。発見時はせわしなく活発に動いたクマムシのようすが、少し変化していた。緩歩動物の名前の通りの動きになっていた。何時間みていてもあきない!!面白すぎる。
少し自信が付いてきていた。「もう、どこでも自信を持って、高確率でクマムシを見つけることができる」
 ところが、別の場所のコケから次々とみつからないのだ。
 自信を失いかけると、また例のオニクマムシを見た。まちがいなくここにいたのだから、ではもう一度チャレンジしようとなるのである。自信をいつも回復させてくれるきやつにいつしか名前をつけていた。
「オニクマ1号!!」と。
▼次なるクマムシをやりながら、だんだん気づいてきていた。
クマムシもたしかに面白いが、さがす過程でみる数滴の水の中のなかの「生き物の世界」がより面白いのだ。
こんなにもたくさん生き物が、あのコケのなかに生きていたのか!!驚きである。
これは、まちがいなく「すぐれた教材」だ!!
同時に読みかえしていた『クマムシを飼うには』(鈴木忠・森山和道著 地人書館)のなかでも、森山和道さんおっしゃっている。

今日見ていて思いましたけど、教材として面白い(笑)(同書 P160より)

まったく同感である。
 著者のお二人が、共通して引用されている。
イギリスの詩人ウイリアム・ブレイクの言葉!!
一粒の砂に世界を
一輪の野の花に天界を見る
あなたの手のひらに無限を
ひとときに久遠をとらえる

いいな、実にいい!!
どんなに時間をかけてでも教材化したい。そんな願いが強くなっていく。

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【Web更新7/31】11-31「新・私の教材試論」更新!

Dscn7029


朝露に 今日も咲くや ヤブガラシ
11/07/31 (日)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】11-31
週末定例更新のお知らせ
 2011年の8月である。「観察」の7月から転じて、動いてみようと思う。可能なかぎり動いてひとにあってみよう。ひとから学んでみよう。ものと風景を発見してみようと思う。
そうだ!!私の【100人リンク集】の旅もすすめたいな。

◆表紙画像集2011 人里の植物シリーズ ヤブガラシ
 私は、このヤブガラシの花というやつがとても気に入っている。こいつに出会えるのはこのころの朝の散歩の楽しみのひとつである。なんだろう ケーキのトッピングのような花。愛おしくそれでいて純朴さとやさしがある。
けっして、夏祭りの夜空の花火にまけぬ美しさをもっている。
 いつも散歩コースのきまった場所で出会う。今、いつもの散歩コースは工事で大激変をしている。だからこのお気に入りに出会うのも今年が最後かも知れない。そう思うとなおさら「地の花火」たちの饗宴が愛おしく見えてくる。

◆「新・私の教材試論」更新! 
具体的なモノの教材化を考えながら試論をすすめていこうと思う。
今週中の早い段階で、その中間報告 「『新・私の教材試論』は 今」を完了させておきたい。

◆【大賀ハス観察日記】更新
 7月の手帳をチェックしていて今さらのごとく驚いてしまった。
7/1に「大賀池」に向かったのを皮切りに、我が家での4つの大賀ハスの連続開花等など。大賀ハス関連で埋め尽くされているのである。そして、今日は第四の大賀ハス開花の4日目である。
これで、ひとつの区切りがつく。8月のあらたな展開は私にもわからない。
だから面白いのかも。

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