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新・「自由研究」のすすめ試論(34)

Dscn4583▼昨日は大賀ハスの植え替えから13週目。定例観測の日であった。花の観察に集中しているあいだにも葉はみごとに成長していっていた。こちらがエネルギーの生産工場なんであるから当然と言えば当然のことなんであるが、4年間大賀ハスを育ててきて、こんなりっぱな葉を見るのははじめてである。
これだからこそ、今年は第二第三の花芽も成長してきているのだろう。さらに驚くのは、「あまりもの」としてとなり瓶の中にほりこんでいた蓮根から立ち葉が勢いよくでてきている。ひょっとしたら、ここから花芽もと、期待してしまいそうな元気さだ。そうなれば、はじめての水栽培に成功したことになる。
なにが起こったというのだろう。「ふしぎ!?」だ。
▼大人の「自由研究」の話を続ける。
とりわけ3.11以降、私たちは「科学」とは無縁の世界には住んでいないことがより意識されるようになってきた。
「科学者」と呼ばれる人たちのコメントを聞く機会も多くなった。
「科学」ってその人たちだけのものだろうか。
そんなわけがない。科学は私たちのくらしのなかにあるものだ。
これからの「くらし」と「科学」考えていくためのひとつのきっかけとして、大人の「自由研究」考えてみるのも面白いかも知れない。
▼それは、学問することの意味を問いかえすことになるかも知れない。
21世紀をより豊かに生きぬくための、ほんとうの意味での科学リテラシーが身につけられるかも知れない。
そのとき、徹底して私の「ふしぎ!?」=等身大の「ふしぎ!?」にこだわろう。
あの若き日のウメサオタダオの言葉を想起する。  

最後ににもう一ど、思想はつかうべきものである。思想は論ずるためだけにあるものではない。思想は西洋かぶれのプロ思想家の独占物ではないのであって、アマチュアたる土民のだれかれの自由な使用にゆだねるべきである。プロにはまかせてはおけない。アマチュア思想家道を確立するべきである。(「アマチュア思想家宣言」より)
 
「科学」もしかりである。
「アマチュア科学者宣言」が必要である。
そのはじまりが大人の「自由研究」なのかも知れない。

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