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新・私の教材試論(54)

Dscn1360_2▼昨日、久しぶりにゆっくりと「雲見」をしていたんだ。
そしたら、「雲見」の元祖宮澤賢治のあの一節を思いだしたんだ。

眺(なが)めても眺めても厭(あ)きないのです。そのわけは、雲のみねというものは、どこか蛙の頭の形に肖(に)ていますし、それから春の蛙の卵に似ています。それで日本人ならば、ちょうど花見とか月見とか言う処(ところ)を、蛙どもは雲見をやります。
「どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。」
「うん。うすい金色だね。永遠の生命を思わせるね。」
「実に僕(ぼく)たちの理想だね。」
(宮澤賢治『蛙のゴム靴』より)

そうなんだ。「雲見」というやつは、いくらやっていても厭きないんだ。
刻々と姿形を変えていく雲。でもしばらく見ているうちにどうも同じ方向に流れていくように見えてきた。
それはどの方向なんだろう。
夏という季節の方向なんだろうか。
▼私は、この日々のblogのなかで、三つ「試論」
・新・私の教材試論
・新・「自由研究」のすすめ試論
・新・クラウド「整理学」試論

・サイエンスコミュニケーター宣言
を展開している。きわめて気まぐれな展開である。
言わばポンコツ教師の繰り言みたいなものだ。
しかし、最近気づいてきたのだが、この三つの試論も宣言も同じ方向に流れていっているではと。
バラバラに語っているつもりだったが、実は同じこと言いたいのではと思いだしたのだ。
共通する流れの方向は、「これから」の時代なのかも知れない。
▼久しぶりに少しとぎれていた「新・私の教材試論」を再開する。
教材「ピンホールカメラ」が途中だった。
田所美惠子さんの「針穴」へのこだわりに圧倒されたところで終わっていた。
この後、具体的な「ピンホールカメラ」の教材史にふれ、自分でも制作に挑戦してみるつもりだった。
遅々たる歩みだが、つづけてみよう。

今日も「雲見」ができそうな天気だ。
雲の流れる方向を意識しながら「雲見」をしてみよう。

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