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サイエンスコミュニケーター宣言(2)

Dscf7670▼サイエンスコミュニケーターとしての第一目の生活。それはそんな大袈裟なものでもなかった。
それは、きわめてありふれた日常であった。
昼までは、ただボーッとしていた、生活にも慣性力がはたらくようである。
4/1にこんなかたちでボーッとしているなんて何十年ぶりだろう。
流れる「風景」をながめているだけだった。
▼午後になって、家のまわりをゴソゴソしだした。
土手のタンポポの黄色が異様にまぶしかった。ホシノヒトミの群生も見事であった。
春がきていた。
 「サイエンスコミュニケーター宣言」つづけよう。
この対象しているサイエンスつまり「科学」とはなんだろう。
▼これまでに、私はいくつかの「科学」を唱えてきた。
・『常民の科学』
気に入っていた。響きもいい、「市民の科学」ではなかった。
「常民」であった。それの方が、自分にピッタリときた。
「常民」の科学を授業に! は私のライフワークだ。
と自らの浅学無知を省みず大風呂敷ひろげたこともある。
 しかし、その思いは消え失せたわけではない。やっぱり根っこのところにある。
▼その後も
「○○の科学」というのはいくつか使ってきた
・「熊楠の科学」
・「ファラデーの科学」
等である。なかでも、よりピッタリときた、これが究極だ、と思ったものに
・「等身大の科学」
がある。等身大の「ふしぎ!?」を追いかける。
くらしのなかで生まれる「ふしぎ!?」をつないでいく「等身大の科学」こそ私の求めてきたものと思った。
これからもずっとずっと使っていくだろう。
「くらし」と「科学」をツナゲルには、これしかない。
「くらし」と「科学」が別個にあるかのような錯覚をおこしてしまう「科学」は実は「科学」の名に価しない。
▼そうは言っても、どこかまだすっきりとしないものがあった。
それは、私がまだまだ「ものを知らない」という負い目から来ているのかもしれない。
もっと使いだした「○○の科学」がある。
それが、
「私の科学」
これぞ、究極の究極である。
そう思うようになってきた。
間違っていたなら正せばいい。
知らないことなら知る努力をすればいい。
きっとこの世の中は、まだ知らないことの方がずっとずっと多いはず。
共感と共有の「科学」のはじまりも終わりも「私の科学」
私がコミュニケートしたいのは、これだ!!

  サイエンスコミュニケーター第二日目の朝


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