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新・私の教材試論(30)

Dscf9828▼昨日もすき間時間を利用して、梅雨明けの空の「雲見」をしていた。

 ある夏の暮(く)れ方、カン蛙ブン蛙ベン蛙の三疋は、カン蛙の家の前のつめくさの広場に座(すわ)って、雲見ということをやって居りました。一体蛙どもは、みんな、夏の雲の峯(みね)を見ることが大すきです。じっさいあのまっしろなプクプクした、玉髄(ぎょくずい)のような、玉あられのような、又(また)蛋白石(たんぱくせき)を刻んでこさえた葡萄(ぶどう)の置物のような雲の峯は、誰(たれ)の目にも立派に見えますが、蛙どもには殊(こと)にそれが見事なのです。眺(なが)めても眺めても厭(あ)きないのです。そのわけは、雲のみねというものは、どこか蛙の頭の形に肖(に)ていますし、それから春の蛙の卵に似ています。それで日本人ならば、ちょうど花見とか月見とか言う処(ところ)を、蛙どもは雲見をやります。
「どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。」
「うん。うすい金色だね。永遠の生命を思わせるね。」
「実に僕(ぼく)たちの理想だね。」
 雲のみねはだんだんペネタ形になって参りました。ペネタ形というのは、蛙どもでは大へん高尚(こうしょう)なものになっています。平たいことなのです。雲の峰(みね)はだんだん崩(くず)れてあたりはよほどうすくらくなりました。

 これは、宮沢賢治の『蛙のゴム靴』の一節である。
ここに「雲見」が登場する。「雲見」の楽しさが、蛙の目を通して語られている。
▼「雲見」をしていると思うのだが、次々と雲が姿、かたちを変えていく。
次のかたちが予想できないのだ、それを一度見逃してしまうと、二度とみることができないのだ。それもが、「雲見」の醍醐味のひとつである。
 刹那の楽しみだけではない。未来は予測できないといいながらも、こんなときにはよくこのような雲が観察できると科学する楽しみもあるのである。
 地上の話にもどそう。雲の未来形を語るよりはより簡単だろう、夏休みの未来形を考えよう。
夏休みに入ったからといって時間は無限にあるわけではない。プライオリティをつけておく必要がある。
まずは8月のはじめの『新・私の教材試論』発表が最初だ。
何を語るのか。もういちどあげてみよう。
(1) 私にとって「教材」とは
(2) 「3K1Aの法則」「3Hの法則」とは
(3) 教材史と科学史
(4) これからの「教材開発」は

▼(1) 私にとって「教材」とは
から行こう。
私にとっての教材とは
・授業づくりのネタ
・授業観のすべてが表れたもの 寿司屋のすしネタのようなもの
・私の科学観、世界観を表象するもの
・ヒューマンコミュケーションをつくり出すもとになるもの
・人から教わったものばかり。
・科教協「お楽しみ広場」から
・【理科の部屋】から
・授業づくりのプロセスにおいて核となるもの
・【教材入手DB】の試みから…。

どんな切り口の文脈からまとめていこうか。試行錯誤をくりかえす。

<つづく>

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