新・「自由研究」のすすめ試論(27)
▼夏休み前の、三連休がはじまった。私の「大賀ハス観察池」の大賀ハスは植え替えから、16週目をむかえていた。ジャングルとまではいかないが、ずいぶんとたくさんの立ち葉が立ち、我こそがと光を受けている。
ひょっとしたら花がと思い、注意深く探して見るがそのようなものは見あたらない。昨年度で言えば、この7月の末に気づき、8月のはじめに、あの「あこがれの4日間」が訪れたのだった。今年の物語はどのように展開するのだろう。これは、私にもわからない。わからないから面白いのかも知れない。私の「大賀ハス物語」。
▼昨日は、ずいぶんと久しぶりに大山をみた。
すごい存在感だ。空の雲は、すっかり梅雨明け宣言をやっているようだった。記憶の糸をたぐってみる。
家族で登山をしたのはいつのことだっただろう。
研究会の後に、仲間といっしょに眺めた「大山」の姿はどんなだったろう。
見ているのはきっと同じ「大山」だ。この山との出会いを語るだけでも私の「大山物語」となる。
▼そうだ!!この物語だ!!
「アカソナキヤ」方式自由研究の次が、自由研究の物語性である。
面白い自由研究には物語があるのである。
こけまで見聞してきた、これはすごい!!面白い!!
と思った研究には、必ず物語があった。
定番自由研究のすすめでも、「研究の動機」「ねらい」「考察」が重要視される所以がここにある。
面白い物語は、ものまねやコピペからは生まれない。
一見拙い取り組みに見えても、そこに「物語」があれば、一挙に輝きはじめる。
その物語性によって、その自由研究は、世界でたったひとつの研究になるのである。
●すぐれた自由研究に物語がある。
●物語の文脈のなかでコンテンツは生きる。
私の新しい自由研究の判断基準だ。
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