Twitter的とはなにか
▼連休のはざまの昨日の朝、「ふしぎ!?」なものを見た。例のヤママユガの繭はあいかわらずぶらさがっているのかなと目をやった、その先に不思議な光景にであった。
いや、不思議でなく、それは自然にとってはアタリマエすぎるほどアタリマエのこと。そうして、地球上の生命の営みは繰り返しているのだろう。この27日のblogにあげたように、繭はたしかに、新鮮な「みどり」に囲まれていた。ところが、この数日のあいだにすっかり「みどり」が消えているのである。では、クヌギ林全体がそうかというとまったくそんなことはない。朝日をあびてより鮮やかさ増す「みどり」がそこにある、ただこの主のいなくなった繭がぶらさがる一角だけがみどりがなくなっているのである。
だから、風雨が葉を落としたとは考えにくい、きっと誰かが食べてしまったのである。それにしても誰がこんなにみごとに食べ尽くしたのだろう。食べさし、食べ残しもなく…。鳥だろうか。それとも…。この里山のアタリマエが、ものを知らない私には「ふしぎ!?」でならない。
▼そんなアタリマエの「ふしぎ!?」をTwitterでつないだらどうなるだろう。
身のまわりにおこる無限とも思える「ふしぎ!?」の光景を「地球の鼓動」のTwitterでつぶやいたら、新たなことが発見できるかも知れない。なんとも、脈絡のないこんなことを考えたのはじめたのは、連休にはいって少し時間に余裕ができたからであろうか。
▼Twitter歴は今日で221日目である。地球が221回 回転するあいだである、コウガイビルと付き合った261日にも満たないわずかな期間である。
それでわかったようなこと言うと笑われてしまうだろう。でもやっぱり言って「記録」しておこう。
・今、TwitterはいちばんTwitter的である。
そう、私が今いちばん感動しているのは、Twitter的についてである。では、このTwitter的とはなになのか。
かつて糸井重里氏はWeb時代を「インターネット的」にあるとし、インターネット的の特徴を3つ語った。
「リンク」
「シェア」
「フラット」
である。みごとである。感動もした。
そのインターネット的を引き継ぎつつ、進化したものがTwitter的である。
「Twitter的」は、「インターネット的」が進化したものである。
進化して備わったものがある。
「リアルタイム」
「等身大」
である。さらに進化したものが出てくるかも知れない。きっとそれは、よりTwitter的なものであろう。
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