« 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(5) | トップページ | 【Web更新3/14】10-11【自然・人間・科学】更新 »

【卒論】『科学技術とこれからの私』より(6)

Dscf6373▼春が一挙に近づいてきた気配がある。いや、きっともう春なんだろう。私の「大賀ハス観察池」にも春はきていた。それをいちばん感受しているのは、そこに生きる「いきものたち」だ。水面を元気よく上下運動をくりかえすボウフラたち、そして水面にはすでに飛翔し落下した死骸の群れ…。よりダイナミックな「生命の営み」がそこにははじまっていた。大賀ハス植え替えから50週目である。そして、今年の植え替え2週間前である。
▼「卒論」読みは、いつしかもっとも根源的な問いかけに向かっていた。
その問いかけとは
・「科学とは」
・「科学技術とは」
・これからの「科学教育(理科)とは」
いまのところ、この問いかけに応えるもっとも有効な手持ちの札は
「等身大の科学」である。
▼わずかに歴史をさかのぼろう。100年前にもどろう。
『寺田寅彦と現代~等身大の科学をもとめて~』(池内了著)の第一章は「「二十世紀の豫言」と現代」である。
100年前の「科学」「科学技術」と現代のそれらを比較検証することにより、もっと根源的な問いに答えようというのである。なかなか説得力のある手法である。ちょっとなぞってみる。
「二十世紀の豫言」の特徴を三つあげておられる。

「二十世紀の豫言」の特徴の第一は、当時普及しつつあった電気に大いに期待をかけていたことである。電気は、夜を昼よりも明るく照らし出し、摩天楼に多くの人々を運び上げ、デパートや遊園地を娯楽のパラダイスとした。一九〇〇年のパリの万国博覧会での電気宮の出現は、まさに電気の時代が来たことを宣言することになったのだ。(同書P23より)

「豫言」の第二の特徴は、物理的な発想が中心で、生物学や化学についての言及が少ない(あるいは無理解である)ことだ。この時代は、ようやく化学の分野が開けはじめたばかりの頃で、まだ石炭や石油を原料とした化学工業が発達していなかったためであろう。また、生物学や医学も経験主義的な段階であり、普遍的な法則に則って未来予測をすることはまだできなかったのだ。(同書P23より)
特徴の第三点は、人類が自然を支配し尽くし、科学の発展によって明るい未来が来るという楽観主義である。文明開化を経、西洋列強に伍して海外進出を果たそうとする時代の雰囲気をよく反映している。それによって、「男女ともに大学を卒業するのが当たり前」というような健康な予測をするとともに、「空中軍艦・空中砲台」のような物騒なものも平気で空想することになる。西洋では、明るい未来とともに、ジュール・ヴェルヌの小説にあるように科学(者)がもたらす害悪についても警告が出されていて、科学の発展についてアンビバレンスであった。それに対して「豫言」は徹頭徹尾楽観的である。おそらく、科学の実相がまだよく知られておらず、科学の力をひたすら賞賛したためではないだろうか。(同書P24より)
 

非常にうまいまとめである。100年前の「科学」「科学技術」が見えてくる。
▼では、100年後の今、「二十一世紀の予言」は、15の春がとらえた「卒論」のなかにあるのではないか。
それが、私の文脈である。
 もう一度、その文脈のなかで「卒論」読み直してみようと思った。

|

« 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(5) | トップページ | 【Web更新3/14】10-11【自然・人間・科学】更新 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(6):

« 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(5) | トップページ | 【Web更新3/14】10-11【自然・人間・科学】更新 »