« 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(3) | トップページ | 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(5) »

【卒論】『科学技術とこれからの私』より(4)

Dscf6308▼卒業式の翌日。つまり昨日は、おそろしく寒かった、雪が朝から舞っていた。それは、なんとも驚きであった、季節の変化はけっして直線的ではない。しかし、逆戻りしたりしたかのように見えるだけだ。位相が少しずれながらも進んでいるのである。それは、螺旋的である。
 自然界には螺旋形がもっとも似合うのである。
▼そして、今日は多くの卒業生が受験をした。
私は、淡々と卒業が残してくれた卒業論文を追う。授業の一コマ一コマを思い出しつつ。
卒論から読み取りたいのは「これからの科学技術」「これからの科学」だ。
読み取ろうとするとき、鍵としているものがある。
それが、「等身大の科学」だ、自分でもいつから使い出したのかは、はっきりとしない。
誰かの受け売りだろうか。きっとそうなんだろう。私に、そんな独創的なものがあるはずがない。
ただはっきりしているは、今、私が「科学とは」の問いに対して、いちばんピッタリとする言葉だ。
▼卒論を読みながら、同時にこの「等身大の科学」を追いたいと思っている。
Googleで「等身大の科学」に検索をかけてみる。
第一にあがってくるのはやっぱり次である。
■『寺田寅彦と現代~等身大の科学をもとめて~』(池内了著 みすず書房 2005.1.21)
いま、卒論を読むのと平行して読み進めている。
第二にあがっているのはか福岡伸一氏が『ソトコト』に連載している『等身大の科学へ』である。
そのことは以前から少し気になっていた。いつかこの連載が、単行本されることを願っている。福岡伸一氏が「等身大の科学」をどのようにとらえているのか。これはとても気になるところである。
今回の「発見」は、次の論文だ。
■『等身大の科学とバイオメカニズム』横井 孝志著 産業技術総合研究所人間福祉医工学研究部門
バイオメカニズム学会誌 31(2) pp.69 20070501の巻頭言である。
みごとな提言である。

 このような制御不能の状態をどのように打破すればよいのでしょうか。そのひとつとして等身大の科学が提唱されています。すなわち科学技術を身の回りに起こる具体的現象と結びつけて正しく理解するとともに、身の回りや日々の生活で起こる現象を科学の俎上に乗せようという提案です。この中では、まず科学者が様々な科学技術の内容や発展の歴史を、その功罪や面白さを含めて専門家以外の一般の人々にも幅広く正しく伝えること、そして、身近な現象の中に様々な興味深い科学の種が数多くあることを具体的成果として示すことが重要だと述べられています。そう簡単なことではありませんが、こうすることによって科学が一般の人々にもリアリティーをもって受け入れられ、その適正な運用が可能になるかもしれません。
 

 私にはこの提言が生徒たちの「卒論」となんの違和感もなく同列の響きをもって聞こえてくるのである。
そして、これだ!!と私は膝をたたくのである。

|

« 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(3) | トップページ | 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(5) »

コメント

楠田さんの「等身大の科学」という言葉を見るにつけ、思い出すのは、アイザック・ニュートンの「巨人の肩にのって」です。

ぼくは、どちらも科学のありようだと思っています。つまり、科学というのは2面性、あるいは多面性がある。様々な場所に科学が「顔を出しうる」

ただし、これらは、やはりひともとである。でなければ、科学という体系が論理的に破綻するからです。

たとえるなら、「呼吸」が個々の細胞レベルでもあり、身体全体でもあるように、個々人レベルでの科学がおりかさなり、関連しあい、つみあがった上に、現在の巨大な科学文明があると思えばいいいと思うのです。だから、普遍的に理科・科学教育をしなければいけないと思うし、一方で、極めて専門的な科学を、その内容の詳細は理解できなくとも、みなが税金などで、支えていくということもいえると思うわけです。

ただ、上の感覚がないと「高度で専門的な科学技術は「私にとって」不要だから、不要」という論理になりかねない。等身大でのみ科学は存在するのではない、ということは押さえつつと思ってもいます。

投稿: 渡部義弥 | 2010/03/13 09:56

おはようございます。
渡部さんならではの示唆的なコメントありがとうございます。
「等身大の科学」を評価していただきうれしいです。私は、この前には、「常民の科学」というのを多用していたと思います。これは、私の造語だと思っています。
 私にとっての科学が、そこにあると思っていました。
今も、それは消えてはいません。「常民の科学」は、それ自身で歴史をもっていました。近代科学以前から脈々と引き継がれてきたもの、そして近代科学によって切りすてられたかのように見えたもの。しかしそこには、「科学」以前の科学があった。
それを授業化したかった。私のライフワークはそれだと思っていた。それは、今も残っている。
 それを内包するかたちで今、「等身大の科学」がある。 
 なるほど渡部さんが言われるように科学を一面的にしかとらえないのでは、真実は見えてこない。
 ご指摘の部分を十分に考えていく必要があるとは思う。
 しかし、私にとっては「等身大の科学」は、いちばんピッタリとくるのである。
コメントいただいて、なおいっそう「科学とは」「科学技術とは」そして、「これからの科学教育は」を考えはじめました。ほんとうにありがたいです。深謝。

投稿: 楠田 純一 | 2010/03/14 04:07

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(4):

« 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(3) | トップページ | 【卒論】『科学技術とこれからの私』より(5) »