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中学校「理科」を構想する(1)

Dscf6453▼昨日はほんとうにあたたかった。それは、ほんとうに初夏を思わせるものであった。例の「大賀ハス観察池」の水もあたたかそうだった。あいかわらず水中、水面での「生命の営み」も活発さを増しているようだった。植え替えから51週目であった。来週には、蓮根を掘り出して、今年度の植え替えの予定である。この一年間の「大賀ハス観察池」のようすは、「記録」してきた画像でまとめる。(一年間毎週土曜日ごとに画像を撮り続けてきたので)
Dscf6467▼年度末である。いろいろ「整理」しなければいけないことがある。しかし、いろんなところに興味が散っていく、まるで学生のころのテスト前夜に部屋のかたづけをやったように…。「取りかかりが遅い」病も、「ばっかり病」と同じく私の持病のようだ。そんななかで、卒業生たちが残してくれた卒論2題を繰り返し読んだ。そして、それらに教えながら、私にとっての「科学とはなにか」の自問自答がはじまった。
 絶対的な答えがみつかったわけではない。それでもこだわりを持ちづけているものが浮かび上がってきた。
・ファラデーの「科学」
・熊楠の「科学」
・「常民の科学」
そして
・「等身大の科学」
▼そんなこと考えているあいだに、今どうしてもやっておかねばならないことに気づいた。
それは、中学校「理科」の授業を構想することだ。
私の今やるべきこと、今しかやれないこと、それがこれだ。
単なるメモ書き、覚え書き程度のものとなるだろう。それでいいと思っている。修正・訂正すること、いっぱい出てくるだろう。それも、元があってのことだ。
2010年春、21世紀はじまって十年、「十年代」を語るときの源流を「かたち」にしておこう。
そう思い出したら、吉日、今日からはじめよう。
▼中学校「理科」に、私はこだわり持っている。小学校「理科」、高校「理科」も重要である。比較の必要もないのかも知れない。しかし、今、やっぱりいちばん重要なのは中学校「理科」である。
 中学校「理科」ばかりに携わってきたものの我田引水かも知れないが、ここですべてが決まってしまうのである。
と言えば極論だろうか。
・大人の「科学リテラシー」
のことが話題となることが多い昨今であるが、それは中学校「理科」と大いなる関係があると思っている。
大人になっての「科学観」も、実はこの時期につくられた「科学観」に左右されることが多いのではないだろう。
パブリックな視点で考えてもそうである。
義務教育仕上げの3年間で、科学的「知識」獲得は義務であり、権利であるはず。
等身大の「ふしぎ!?」を置き去りにしたり、捨てやるのか、それとも、それを「等身大の科学」にまで高めるのか。
分岐点は、ここにある。
細胞で言うなら、この時期は「幹細胞」期にある。

 さらに具体的なことは、後日つづける。

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コメント

中学校の理科は、実験と体験と遊びがないまぜになっている小学校に対し、理論と実験という対比が明確になっているという点で、科学リテラシー的には確かに重要だと思います。

ここで躓くと、科学リテラシーが涵養されずに、一生を過ごすことになる。高校は、中学の種を拡張する場であり、種がないとどうしようもない。0に何をかけても0でしかない。そうした人が、大きな判断をすると、たいそうな間違いが起こる可能性がある。その点でも重要ですね。

投稿: 渡部義弥 | 2010/03/21 13:34

渡部さん
おはようございます。
中学校「理科」の重要性、賛成していただきありがとうございます。ではどうするのか。非力ながら、これまでのすべてのこと駆使して考えていきます。
応援、アドバイスよろしくお願いします。

投稿: 楠田 純一 | 2010/03/22 05:54

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