« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

『萃点は見えたか…南方熊楠』をみた!

Dscf6192昨日は、春の嵐の後の晴れ。植え替え48週目の「大賀ハス観察池」にも、ひさしぶりにたっぷりと水がたまっていた。その水もどこかぬるんでいるような気がした。地下の蓮根も春の訪れを感じているだろうか。この大賀ハスの種子を分けてくださった和歌山の阪本尚生さんから「熊楠」の情報が入った。「熊楠」訪問では、ずいぶんとお世話になっている。
▼熊楠情報とは『萃点は見えたか……南方熊楠』(総合監修/紀田順一郎 監修/谷川健一 紀伊国屋書店)に関するものだった。「萃点」と聞けば、見逃すわけにはいかない。
さっそく朝に発注した。そしたら夕方には届いていた。なんという時代だ。
田舎にすんでいる人間には、ありがたい時代である。元々ビデオ版だったのだろうが、送られてきたのはDVDだ。
さっそく昨夜眠る前と、今朝起きてからと2度見た。
▼紀伊国屋評伝シリーズ『学問と情熱』21世紀へ贈る人物伝 の第1巻として、この作品はある。
このシリーズの意図から見ても、民俗学に焦点をあてているので、こちらの期待するものと違うかもしれないと思いながらみていった。
 私の興味は、「「熊楠」ついての5つの仮説」にある。最近は、とりわけ

●【仮説 その2】 「熊楠」はこれからの人である。

●【仮説 その3】 「南方マンダラ」は、これからの理科(科学)教育の羅針盤である。

●【仮説 その4】 「南方マンダラ」は、Webそのものである。

に関してである。そんな視点をもちながら、このDVDを見てみた。
タイトルにある通り「萃点」に焦点をあててくれいるのには共感もするし、納得する。
▼同じところに焦点をあてながらも、私が求めるものとは微妙にずれている。切り口がちがうのだろう。全体としての意図がちがうのであろう。これは、あくまで「人物伝」としての熊楠像にせまろうとしているのだろう。
私の場合、すこしちがう。私には、もう少し切実な問題なのである。
 過去に生きた「偉大なる人物」を知ろうと言うのでない。「これからの人」として、熊楠から未来を学びとろうというのである。
▼DVDを見て、あらためてそうだと思ったことがある。アトランダムにあげてみよう。
●「これからの人」への確信!
 1941年12月29日亡くなっている。その後、戦争そして終戦。彼がなくなって10年経って私は生まれた。
歴史は地続きである。彼は、間違いなく100年前に、日本の未来を見据えていた。
グロバル志向は、今、はじまったことではない。彼は、自ら体験を通して、グロバルな志向を示唆していた。
・日本初のエコロジストである。
・粘菌はやっぱりすぐれた教材になる可能性をもっている。
・熊楠の学習方法は写本からはじまっている。ここにヒントが…。
・南方マンダラは、Webそのもである。この仮説はただしい。だとすれば「萃点」とはなにか。
 「萃点」を見いだすこと、これこそいまいちばんやるべきこと。
・バラバラのものを、つなぎ合わせる手法、これはみごとだ。それこそ学ぶべきスキルだ。
・Webの時代の「学問」のモデルをここにみる。やっぱり「これからの人」!

またしても、「熊楠訪問」の気持ちが高まってきた。
これから、それまでにやっておきたいことリストアップしていきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新・クラウド「整理学」試論(14)

▼【天気の変化】というものは、ほんとうに面白いものだ。「くらし」と直結しているから、面白いのだ。
ほんの少しだけ視点をシフトすれば、私たちは「大気の物理実験室」にくらしていることがわかる。その視点で、空をみたら観察は、いっぱいいろんな「発見」満ちている。
 それだけではない、各種メディアからの情報もいっぱいである。
きっとだからこそだろう。Webテキストを10年前に構想したとき、いちばんあげたのが【天気の変化】だったのだろう。
▼「試論」はいつしか「電子教科書」関係のことになっている。
もう少し、タイムラインでは #e_textbook で追ってみることにして、私自身の文脈の源流をたどってみる。
そこには、「極地方式研究会のテキスト」があった。
極地方式研究会の「テキストづくり」から学ぶべき点が多い。
極地方式研究会のめざすものと、テキストづくりとは分かちがたいものがある。
『極地方式入門』(高橋金三郎・細谷純編、国土社1974.3.20))
私は、この本を何度読んだことだろう。
今もまたこの本を開けている。
新鮮だ!!
実に「新しい」のである。
どこかのページを引用して、出典を明らかにされなければ、きっと私は、最新でかつ最前線の提言とまちがってしまうだろう。
 ほんとうに引用させてもらうのはまたにしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新・クラウド「整理学」試論(13)

▼やっといつものように「つながる」ようになった。ありがたい!!
つながらない状態になってはじめて「つながっている」状態のありがたさがわかるというものである。この間にも、いろんなことがおこっている。変化は大気の変化だけでない。
Twitterのタイムラインにも多くの情報が流れたようだ。SNS、MLの話題もどんどん動いているようだ。
少し、自分自身の文脈も追いかけてみよう。
▼ここのところタイムラインを流れる情報に気になる情報がある。
それは、『電子教科書』に関するものである。
●電子教科書5つの原則
ひじょうに興味深い提言である。
私のこの「新・クラウド「整理学」試論」のひとつの目標を提示されたような気がする。
「クラウド」と「電子教科書」そこには深いつながりがあるように思えてならない。
▼私は、ずいぶん以前に「Webテキスト」の構想を考えたことがある。
Webで「教科書」
である。もう十年も前の話である。Web上に「テキスト」をつくっておけば、インタラクティブなものになり、常時更新をつづけることができるのではないか、そんな気がしたのだ。
幼稚な発想である。その後、なんの進展もなかった。しかし、「構想」の夢だけはもちつづけてきたつもりだ。
その後、Webは進化した。
 今にわかに、そのことが具体性をもってきた。
 ひょっとしたら「夢」でなくなるかも知れない。
 しばらくぶりにつながったタイムラインを追いながら、そんなことを思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「つなぎ」続けることの意味

▼この暖かさはなんだろう。朝、非接触温度計を空に向けたら、なんと+14℃を示した。異常とも思える暖かさだった。あたたかい大気が、押し寄せてきている。天気図からも、それはわかる。
異常は、大気だけではなかった。またしても、コンピュータのトラブルである。電話回線のトラブルである。
ほぼ、それはわかっている。
 しかし、こだわった。なんとして「つなぎたい」「つなぎ続けたい」。
▼ともかく「続ける」ことに意味を見出したいのだ。
誰でもでもできること、それを誰もできないぐらいに続けたいのだ。
そこから意味が出来てくると、堅く信じている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新・クラウド「整理学」試論(12)

Dscf6142▼朝の校庭の散策で、すごく目立ってきたものに、アメリカフウの実である。校庭の南側の坂道にある。6本の並木になっている。春には新緑が萌える季節を象徴し、秋には、紅葉が見事だ。そして今は、実である。まさに鈴掛のように、その膨大とも言える数の実がぶらさがる。たしか昨年いちど大幅に枝を切り落としたはずなのに、それをもろともせずに、たくさんの実が鈴なりにぶら下がっているのは圧巻である。実は、次なる時代につなぐ成果物である。
▼科学の歴史をつなぐ成果物にも興味がある。「ファラデー」からはじめて「サイエンスコミュニケーション」のこと考えていた。そのことに関連して、いつもながらの興味深いコメントを大阪市科学館の渡部さんがコメントしてくださった。それは、キャベンディッシュについてである。
 これは、まったくの偶然である。彼は、ちょうど200年前の今日、2月24日になくなっている。びっくりすぎるぐらいよくできた話だ。浅学な私は、「水素の発見者」ぐらいの認識しかなかった。
渡部さんのコメントで興味をもったので調べてみた。
▼あまり「コミュニケーション」に積極的な人物ではなかったようだ。
しかし、きわて偉大な研究者・科学者であるようだ。マクスウェルが没後約70年近く経って、彼の論文を「整理」していて、すでに「オームの法則」や「クーロンの法則を発見していたことが明らかにしたということである。
その後、彼の業績を記念して設立された「キャベンディッシュ研究所」は次から次へとノーベル賞受賞者を輩出している。この科学史は、私に何を教えてくれるだろう。
▼こんな特別のノーベル賞受賞者の「研究」の話では、ごくふつうのくらしのなかの「「ふしぎ!?」謎解きの「研究」の話だ。興味があるのは。
・「コミュニケーション」
・「記録」
・「整理」
・「研究」
 
これらのことだ。
 私たちは、これらの面で、きわめてめぐまれた時代に生きている。
今は、Web、blog、SNS、MLがあり、そして今また、Twitterがある。
▼年度末の季節になっている。「整理」の季節である。9年ほど前に私は「学年末の整理学」と題した拙文にまとめた。この歩みは、どこまで来たのだろう。
それを自問したくなってきた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

サイエンスコミュニケーションと「授業」

Dscf6130▼ずっと「ふしぎ!?」に思っている繭が゛ある。HPの表紙の画像にあげていたものだ。校庭の朝の散策でみつけたものだ。繭の色は黄色い。クヌギ林のなかで、落ちなかったクヌギの葉に保護されているようにぶらさがっている。なぜか、そこだけ葉は集中しおちていない。風当たりが弱いのだろう。しかし、日当たりはよい。昨日も朝日があたっていた。知る人にとってありふれた繭なんだろうが、私は誰のものなのか知らない。繭から出てくる「生きもの」はどんな姿をしているのだろう。
▼小さな「ふしぎ!?」をつないで謎解きをやる。「ふしぎ!?」謎解きの権化のようなファラデーを追いかけていたら、いつか「サイエンスコミュニケーションの源流」のようなものに行き着いた。
 コミュニケーションから生まれるものがある。異質なもの、対峙するもの、まったく縁なきと思われるもの、それらがコミュニケートされる。そこに、まったく新しいものが生まれる。まったく新しい発想が創造される。
 それこそ、「科学の方法」そのものではないのか。そして、蛇足で言えば、どこかそれは熊楠の「萃点」に似ている。
▼ファラデーが、王立研究所の先輩、仲間たちと対話し学びながら、「クリマス講演」「金曜講演」を繰り返す。
これは手前勝手な推論だが、ファラデーにとって、少年少女たちに、そしてサイエンスに興味抱いてくれる人々に、手前味噌の実験を準備し、この世の中の「ふしぎ!?」の謎解きを話すときこそは、至福のときではなかったか。
▼200年の時空を超えてみよう。「クリスマス講演」「金曜講演」は、今日で言えばなんだろう。
「科学の祭典」だろうか。今、各地でひろがっている「サイエンスカフェ」だろうか。
これも、全国いろんなとこで繰り広げられている「実験教室」だろうか。最先端を行く科学者たちの講演会だろうか。どれも、それぞれに意味のある取り組みである。面白い、次代の「ファラデー」が生まれてくるかも知れない。
▼しかし、私たち忘れてならない。もっとありふれた、もっとも日常的なもの。
それは「授業」である。いつまで繰り返してもヘタクソな授業しかできない私が言っても説得力はないかも知れない。恥を省みず言おう。
 
サイエンスコミュニケーションの最前線は理科の授業である。

かつて、極地方式研究会の人たちは、こう言った。

授業での子どもとの苦しいたたかい。そうだ、授業で子どもがわかり、教師も高まる。子どもがわかることと、教師がわかっていくことは同じだ。教師が科学を学び、自分の視野が変わり、ひらけていく喜びと、子どもがわかっていくことは同じだ。そのルートを開拓するのが、この研究だ!(『極地方式入門』(高橋金三郎・細谷純編、国土社1974.3.20)P27より)

すごい!!この歩みは、今もつづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【Web更新2/21】10-08【自然・人間・科学】更新

Dscf6121
里山や ああめざめたり 梅の花
 10/02/20 (土)撮影@安富

■楠田 純一の【理科の部屋】10-08
 週末定例更新のお知らせ
 週末に一週間の「仕事」の残務を持ち込むケースが増えている。Twitterをはじめて150日を過ぎた。
それにあわせて、フォロワーの数は150を越えたようだ。
150人を越える人で、つくられるタイムラインは多彩である。そこには、出会い・発見で満ちている。しかし、タイムラインの流れは立ち止まらない。「今」と「これから」をとらえるためのツールが、残務をふやすということになっていたら、本末転倒である。そうならない一週間を展望したいものだ。

◆表紙画像集2010 校庭の樹木シリーズ 梅
 このごろ、すごく気になりだしたのが小鳥のさえずりである。朝の散策のときなど、こんなに鳥がいたか
な、と我が耳を疑うぐらいである。やっぱり春がきたからであろうか。
さえずりはいかなる「情報発信」してのものなんだろう。それを解読するセンスオブワンダーが欲しい。
めざめた里山の梅の花は、「ああー!」と大きなあくびをしたようにみえた。
 

◆【自然・人間・科学】更新
 いつしか、それは「科学とは」という問いかけになったり、ファラデーを追いかけることになってしまっている。
しばらくは、これを続けてみようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイエンスコミュニケーションの源流を求めて

Dscf6097▼時空をつないで観察するためには、何か目に見える具体物がある方がわかりやすい。私の場合、そのひとつが「大賀ハス」である。大賀ハスは、蓮根の状態で植え替えをしてから、昨日で47週目が過ぎた。季節の移り変わりも、その画像をつなげば見えてくる。時空を超えてつなげば、新しいものが見えてくる。それは、今からの「科学の方法」なのかも知れない。観察池には、朝方はうすく氷が見えた。
▼しばらく、「ファラデー」に凝っている。よく知られた話だが、ファラデーは、自らを「サィエンティスト(科学者)」とは呼
ばなかったらしい。もっともその時代にその言葉がなかったから…。なんと呼んだのだろう。
「フィロソファー」「ナチュラル・フィロソファー」と言っていたらしい。日本語にすれば「哲学者」「自然哲学者」である。現代に使われている言葉の概念でとらえてしまうと誤った認識になるかも知れないが、やっぱりそこにファラデーの主張があるような気がする。
▼「仕事」のあいまに自らの研究をすすめ、新たな世界を切り拓き、それを少年・少女に、そして多くの人々に熱く語りかける。人々の「歓声」「感動」を報酬としながら、さらなる研究をすすめる。
 ファラデーは偉大である。しかし、いくら偉大であったとしても、ファラデーひとりが忽然とたっていたわけではないだろう。「山は山脈だ!!」
 きっと、そこにはファラデーを生み出す空気が流れていたのにちがいない。
それこそ
「サイエンスコミニケーションの源流」なのではないかというのが、私の新たな仮説である。

さらには、そこにこれからの科学教育、理科の方向を示唆するものがあるかも知れない。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

我々は、みんな「ファラデー」の末裔だ!!

▼やっぱり、なかなか追いつかない。月が大きくなって行くスピードに…。
こんなときに限って持病の「ばっかり病」が発症したようだ。困ったものである。(^^;ゞポリポリ
今度は「ファラデー」である。
何度も、何度も彼のことがきになったことがあった。若いとき、クラブ活動で科学部をもっているとき、『ロウソクの科学』(このときは、北見順子編の文芸社版を使用)をみんなで買って、読みながら実験を繰り返すことをやったことがある。クリスマス講演の「おすそ分け」をいただこうという試みだった。
▼その後も何度か、彼に接近したことがあった。そして、今回である。
近代科学・技術史を俯瞰しているときである。そこに浮かび上がってきたのが「ファラデー」である。
今回の興味は、クリスマス講演(講話)や金曜講演(講話)である。やっと昨日の続きである。
講演をやりながら、彼は何をみたのだろうか。
▼私は思う。きっと、用意周到の「演示実験」に、あたらしい世界を見て感動する少年少女の姿を見たのでないだろうか。歓声、驚きの姿。それに自分自身がデーヴィの講演を聴いたときの「感動」に重ね合わせたのではないだろうか。それを一度でも見てしまったものは病みつきになるのである。
 もっと、大きな驚き、感動を引き出すためには…と。
これが病みつきになり、晩年までこれを繰り返したのではないだろうか。
▼私のような、浅学非才なる小さな理科教師の歩みのなかにも、それに似た経験が、ひとつやふたつはある。
たとえば、『教室全体をピンホールカメラに』で、「映画!映画や!!」と歓声あげ出演していく生徒の姿。
『究極のクリップモーター』が、「回った!回った!ほんまに回った!!」と叫ぶ、うれしそうな顔。
そんなものを一度みてしまうと、次はもっと…。
と思ってしまうものなのかも知れない。もし、そうだとすると

理科教師は、みんなファラデーの末裔だ!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ファラデー」は何を見たのか!?

▼地球が回転するスピードをもう少し、ゆっくりにして欲しい日々が続く。「やりたいこと」「やるべきこと」並べる順序がちがうのかな。
 そんなときもまたしても思い出してしまうのは彼のことだ。彼、ファラデーならばどう考えたのだろう。この後、科学が発達しようとも、もういちど時間を逆戻りして、彼にあって直接聞くことはできない。
彼が残してくれたものから、想像して200年の時空を超えるしかない。
▼ファラデーのクリスマス講演は、1826からはじまっている。同時ぐらいに金曜講演もはじめている。
クリスマス講演の方は、子どもたち向けのもの、金曜講演は、科学に興味のあるすべての人々向けのものであるようだ。クリスマス講演は、1826年からはじめて、1861年に、クリマス講演担当を辞退するまで、少なくとも26回程度はやったようだ。まさに晩年近くまで続けたのである。
 そうさせたのは何だろう。諸説があるようだ。
▼ファラデーは、デーヴィの講演を聴いて、デーヴィの門をたたく。1812年のことである。
講演を聴いて、自分の進むべき道をきめている。
そのときに、何を見たのだろう。
クリスマス講演で何を見たのだろう。金曜講演では何を…。

つづく。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

やっぱり気になる「ファラデー」のこと

▼またしても、お椀のような月がみられるようになった。まさに、月日は繰り返している。運動をしているのである。ずっと、ずっと昔から同じように動いているのである。「観測者」の「ふしぎ!?」とは関係なく。
でも「ふしぎ!?」は観測者のなかに生まれる。意識的に見なければ、この運動を認識できない。こんな年になって、月が動いていることに感動する自分を発見した。安上がりな「発見」だ。
▼現場は、年度末にさしかかり忙しく日々が過ぎていく。年度末は俯瞰の季節でも、すべてのこと地を這う蟻の視点でなく、鳥のようになり鳥瞰、俯瞰する季節なのである。
 例の「近代科学・技術史の年表」も俯瞰図のようなものである。こうして見ると、やっぱり気になるのは、あの人物だ。そのひとの名は「マイケル・ファラデー」
 年表のほぼ中央にあの「ファラデーの作った電磁誘導の環」の写真とともにその名が記してある。
▼「電磁誘導の環」が彼の日記に登場するのは、1831年8月29日である。それからまだ、200年も経過していないのだ。私たちの「くらし」と、このファラデーの発見とは地続きである。けっして遠い世界の話ではない。
これがなければ、電気を使っての生活はないのだから。
 それにしても、ファラデーとはいった何者なんだろう。
そう思いはじめてからも、ずいぶん時間がたってしまった。間欠泉のように、時間をおいてこの人へ興味が湧いてくる。それを繰り返してきた。
▼「中学校理科」も、彼とは深い関係がある。たびたび彼の業績が登場する。
「電磁誘導」で登場したかと思えば、「電気分解」「イオン」でも「静電気」でも登場する。
少年少女たちを集めてくりかえし行ったクリスマス講演。
一般の人に向けての金曜講演。
彼は、人々に何を伝えようとしたのだろう。
ここにこそ、これからの科学教育の原点があるのでは…。だから、彼のことが気になってしかたないのかも知れない。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

【授業】近代科学・技術史は面白い!!

▼昨夜は久しぶりにゆっくりと、オリオン座と冬の大三角形をながめた。ほんと、しばらくぶりである。あれっ?
いつの間にやら年間通して、星空を意識的にながめてやろうという決意がどこかにいってしまっている自分に気づいた。それにしてきれいだ!!シリウスの輝き。この輝き故か、シリウスとはもともとは「焼きこがすもの」という意味をもつ。
▼すべてのものに歴史がある。「今」は過去の歴史の到達点である。科学技術ももちろんその例外ではない。むしろ科学技術は、その最たるものなのかも知れない。
 1分野の教科書のうしろの方に巻末資料として「近代科学・技術の発展と社会のできごと」と題した年表がでている。ざっくりと500年間を俯瞰している。
 ながめていると実に面白い。
▼人物だけを追ってみても面白い。「科学の発展」の欄からみてみると
・コペルニックス
・ギルバート
・ガリレイ
・パスカル
・ニュートン
・ラボアジエ
・ドルトン
・アボガドロ
・オーム
・ファラデー
・ヘルムホルツ
・ダーウィン
・メンデレーエフ
・レントゲン
・アインシュタイン
・ワトソン、クリック
これだけ追っかけても、中学三年間で何を学習してきたのかが俯瞰できる。実に興味深いのである。
「今」が、いつ出発したのかが見えてくる。
そして、「これから」も少しみえてくるような気がする。
▼「技術の発展」「社会のできごと」の欄もあわせて面白い。それぞれがみごとにリンクしているのもわかる。
「技術の発展」の最初は、●印刷術 グーテンベルクとなっている。それから500年、地球が太陽の回りを500回まわって、そして「今」である。なんとも象徴的に「今」「これから」を示唆する年表に見えてきて益々面白い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「大気の物理学」実験室のなかで

Dscf6027▼『今日のあれを見ましたか!?感動ですよね。』と私は何の脈略もなくつい話しかけてしまっていた。昨日は、またふたたび雨だったのである。学校の北の山々に、いや、南の山にもだ。「雲が発生」しているのだった。
 ここでは、ごくアタリマエの風景かもしれないが、これはやっぱり感動ものである。話しかけた人もやっぱり「見とれいれしまいますよね!」と同意してくれた。やっぱりそうなんだ!!
▼この「大気の物理学」実験室で、この実験のさまを観察する。それと、教科書の「雲発生実験」とつなぐ、さらには全地球的雲発生の雲画像動画アーカイブともつなぐ授業ともつなぐそんな授業を構想できないものだろうか。
 そこでは、「上がるとザアザア 下がるとカラカラ」や「光は東から 天気は西から」もより有効にはたらくだろう。
▼さらには、プラスしてリアルタイムに全国のいろんなところの理科室とのつないでおいて、情報交換をすすめる。
それが、今、やっと夢物語ではない時代がきているのではないか。
 この大実験室のなかで、「雲見」をしながらそんなことを考えていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【Web更新2/14】10-07『新・私の教材試論』等

Dscf5981
春まだか のぞいた顔や 恥ずかしげ
 10/02/13 (土)撮影@安富

■楠田 純一の【理科の部屋】10-07
 週末定例更新のお知らせです。
 この一週間を思い出すと、なにかいろいろありすぎて頭が混乱してくる。どうも、生活のリズムが狂ってきているようにも思う。なぜか考えてみたら、思い当たるふしがある、それは「授業」だ。
 「授業」が変則的になってきているのである。あらためて思う、「授業」が生活のリズムまでもつくり出しているのだと…。

◆表紙画像集2010 校庭の樹木シリーズ アオキ
 飽きもせずに、このシリーズを続ける。飽きるどころか、どんどん新しい「発見」がある。私がものを知らなすぎるだけの話かもしれないが。今回は、アオキの発見だ。校庭にアオキがあることにすら気づかずにいたのである。
なにか色づいたものをみつけたかった。散策のゴール近くにごくありふれてある緑の葉をつけた木、葉っぱあいまから朱いものが見え隠れした気がした。やっぱりそうだ、手で覆っている葉っぱのぞけてやるとそいつはいた。
 アオキの実だ。寒空の下の童がほおを染めているように見えた。葉っぱの陰から「春はまだか」とのぞいたのかな。

◆『新・私の教材試論』 更新
 久しぶりの更新である。「記録」しておくべきこともいくつかできてきている、また続けていこう。

◆『新・クラウド「整理学」試論』 更新
 直接的に「試論」を更新したのでない。しかし、新しい「整理学」が必要だと感じた一週間であった。あきらかに「時代」が、流れていっている。Twitterのこと、新しい「授業」のことなどとリンクしてみた。

◆【自然・人間・科学】更新
 総括的すぎてなかなかストリーが見えてこない。卒業論文から学んでみようと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新たな「授業づくり」をはじめよう!!

Dscf5976▼冬に逆もどりした昨日は、大賀ハスの植え替えから、46週目であった。水面には、うすく氷がはっていた、今週は雪はふっていなかった。それにしてもこれをいつまでやるのだろう。自分でもわからない、やや惰性でやってきたところがある。もうすぐ植え替えから一年が経とうとしている。毎週、その画像をとりつづけてきた、ならべてみるとその変化の様が見えて楽しい。地下から蓮根を掘り出して、2010年バージョンにするのはいつごろがいいのだろうか。今のところ時間の余裕が少し期待できる春休みを考えている。
▼「記録」に残しておくと、変化のプロセスを面白くみることができるのは大賀ハスだけでない。私の「授業」もそうだ。それまで、少し授業から遠ざかって、久しぶりに授業を再開してまもなく2年が経とうとしている。
この2年間の「授業づくり」の過程は、すべてこのblogに「記録」として残っている。
▼今、よみかえしてみると「こうすればよかった」と反省したり、赤面することもしばしばである。繰り返しているあいだに、授業そのものに対する考えも少しずつ変化してきているのがわかる。
以前から言っていたが、より確信をもって言えることがある。

●授業は、最大の学校行事である。
●教育実践の最前線は授業である。

こんなアタリマエがやっと実感を伴ってみえてきたのだ。
▼ここで言う、授業とは特別の授業ではない、名人技の授業とか、公開に耐える授業とか大きく成果のみえる授業とかそんなことでない。日々繰り返されているごくありふれた授業のことだ。
 この日常の授業にこそ、すべてがある。
 2年間の授業をふりかえってみると、うまくいったことなど数えるほどしかない。
しかし、上記のことに確信が持てるのは、私自身にとって楽しかったからである。
▼授業そのものも楽しかったが、そこにいたる「授業づくり」が楽しかった。
これまでの実践を調べてみる。
その関係の本を読む。ネットで情報交換をする。
Webで、資料を手に入れる。自分で予備実験をやってみる。
すべてが、新鮮な新たな「学び」のはじまりだった。
▼授業づくりのなかから、私は今、3つの「試論」をすすめている。
●新・「自由研究」のすすめ試論
●新・私の教材試論
●新・クラウド「整理学」試論
である。それらすべてが「授業づくり」に収斂していくのである。
「理科って面白いな!」
「科学のこと、もっともっと勉強したい!」
「勉強って楽しいものなんや!」
と言わせたい。そんな授業を一度でもやってみたい。それだけだ。
 Web・SNS・blogも、MLもTwitterも使えるものはなんでも、どんどん駆使してやっていきたいと思う。
さあ

 新たな「授業づくり」をはじめよう!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雑誌『楽しい理科授業』廃刊に思う。

▼冷たい雨、強い風そしてきびしい寒さ。やっぱり、そうは簡単に春はやってこなかった。しかし、昨夜は久しぶりに夜空にオリオンも、シリウスもみごとな火星もあった。
 また、天気図をみながら、大気の動きと空をくらべることをつづける。
▼前から、MLやSNSで聞いていた雑誌『楽しい理科授業(2010ー3月号No.523)』(明治図書 )が届いた。聞いていたように、この雑誌はこの号をもって廃刊だという。休刊ではない「廃刊」である。
なんとも寂しい気持ちになる。この前身『理科教育』からだと、若いころからずいぶんと長いあいだつきあってきた雑誌である。多くのことを学ばせていただいてきた。
  ときには、拙い文章を載せていただいこともある。私にとっては数少ない貴重な体験をさせてもらった雑誌でもある。それが消えるというのだから…。
 この記念すべき最終号(それとはつゆ知らず)にも拙文「「南方マンダラ」にこれからの理科教育をみる」を載せていただいた。
▼最終ページに名編集長樋口雅子さんの廃刊にあたっての言葉がある。
編集者からみたこの誌への「思い入れ」が書いてある。

「ひとり、荒野に立ち尽くす自分」とイメージしていたこと
小誌の役割も終わりつつあるのではないか-と思うに至っておりました。

 つながる言葉を読んでいるとジーンときてしまう。
でも思うのだ。
 ひとつの時代の終わりは、次なる時代のはじまりでもある。
 廃刊されるのは、雑誌という形態だけで、「こころざし」の終わりを意味しない。
▼ここで思わず真壁仁の『峠』を読みたくなった。

 みちはこたえない。 
 みちはかぎりなくさそうばかりだ。

なにがはじまっているのだろう。
まだ、私には見えてこない。
わかっていることは
 ひとつの雑誌の「時代」が終わったということ、そして何かがはじまっているということ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

Twitter的は【理科の部屋】的だ!!

▼今朝、起きても冷たい風が続いている。昨日も一日中前の竹藪のザアーザアーは続いていて、低気圧がとおりすぎていったのだろう。今回の勝負は「寒気」の方が勝利を収めたようだ。まだまだ春は遠いようだ。昨日の朝、パソコンのトラブル・不具合があった。こういうことは、じばしばである。
根っこのところがよくわかっていない私は、困惑してしまう。しかし、トラブルから「新世界」が開けることもある。
昨年の9月12日のトラブルに出会わなかったTwitterとは遭遇しなかっただろう。
トラブルが解消したあと、久しぶりにTwitterのTLを楽しんだ。
▼Twitterをはじめて今日で143日目になる。はじたころは、これは一体なにものかわからなかった。
Web・blog・SNS、ML等々あるのに十分だと思っていた。それらすら、追いついていくのにやっとなのに今さらあたらしいことをはじめるなんて、私のキャパシティを越えていると思っていた。
ところが、ecochemさんという名案内を得て、私は「新しい世界」が楽しいと思えるようになってきた。
▼やがて、私はこれは「パソコン通信回帰だ!!」と思うようになった。
これは、なにも「新しい世界」だけでない。同時に「なつかしい古くからの世界」でもあると気づいた。
かつて糸井重里はインターネット的を3つの鍵で説いた。(『インターネット的』(PHP新書 2001))

●インターネット的…「リンク」「シェア」「フラット」

それから10年近くが過ぎようとしている。
あいだに「Web2.O的」が入ると思うが、それは別にして…
今は「Twitter的」である。Twitter的を解く鍵を私は、今のところ2つみつけている。

●Twitter的…「リアルタイム」「等身大(リアルスケール)」

である。もちろんのことだが、Twitter的はインターネット的を引き継いでいる。
こうしてみると気づいた。
なぜ、私がTwitterの雰囲気に「パソコン通信回帰!!」を感じたのか。
それは

Twitter的は【理科の部屋】的だ!!

だからであると。
▼現在、フォロワーは139人、フォローしているのは147人だ。はじめのころにくらべるとTLを流れる「今」も様相が変わってきた。技術的なこともふくめて、まだまだこれからである。
これからも、Twitter的を追いかけていきたい。
それは、同時によりレベルアップされた【理科の部屋】的であることだと信じるから…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

低気圧!この不思議なもの

Dscf5929▼昨夜からの雨は、朝起きたときはまだ続いていた。風も強かった。あたたかい強い風、浅学な私は、春一番!!思いついた。天気図を見てみることににした。いつもの簡単!ズバリ!の「天気のツボ」からみた。やっぱりそうだ、あたたかい湿った空気がおしよせてきいるのだ。そこに低気圧がある。天気図一覧を見てもよくわかる。次々と押し寄せる低気圧、そして春はやってくるのである。
▼それにしてもこの「低気圧」とは不思議なものである。はじめての天気図が書かれてから、まだ200年もたっていない。その間、よりくわしく正確な天気図を書く試みがなされてきた。
 プロの書いたものを、私たちはほとんどタイムラグなく瞬時にみることができるようになった。そしたら、このあとの天気の変化まで見えるかというと、ずいぶんと予測の精度があがってきたが、まだまだわからないところを残している。やっぱり「ふしぎ!?」は残っているのだ。
▼この「ふしぎ!?」に共感し、賛同してくれるだろう。プロの文章をみつけていた。どこかでずっと紹介したいと思っていた。それをあげてみる。

◆『天気図の歴史ーストームモデルの発展史ー』(斎藤直輔著 東京堂出版 1982.2.25)

の「エピローグ」にそれはある。本文もしっかり読まずして「エピローグ」だけを引用させてもらうのは、失礼な話かもしれないが、私には、このエピローグがあるから、難解な部分があろうとも読んでみようと思うのである。

 低気圧とはなんだろうか。一口でいえば寒暖両気から成るうず巻であろう。我等の地球大気の中にはこうしたうず巻が存在できることを傾圧不安定理論も,数値シミュレーションもあるいは実験室内の流体を使った模型実験も教えてくれる。しかしやっぱり不思議な感じがする。それは偶然の産物としてはあまりに美しく組織だっているし、秩序ある概念に統一されている。

 このささやかな歴史的回想の中で、私は約1世紀半の間に人々がストームについて,低気圧についてめぐらした考察のあとをたどってみた。そして多くのことを学んだが,雲をつくり雨を降らせ,風を巻いて過ぎ去ってゆく低気圧をやはり不思議に思う。(上記書 p211より 強調は私) 

 

プロとは、ホンモノとはこんなものなんだろうか。
少しだけ見習って、ここしばらく「天気図」と「空」をくらべながら、この「ふしぎ!?」を追いかけてみよう。
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

新・私の教材試論(25)

Dscf5921▼昨日は、朝からあたたかった。そらには、低くくもがあって、今にも泣き出しそうだった。そのせいもあるのだろうか春を感じさせるものだった。こんな直線的には、春をやってこない。これを螺旋的にくりかえしながら春はやってくるのだろう。今朝も、それはつづいている。ストーブをつけるのを忘れていたぐらいである。
▼授業は両分野とも最終章をやりながら、「あんこと!こんなこと!やったな」と自分で思い出しながら、「教材」をひとつひとつ思い出していた。
 そして、あの「新・私の教材試論」ことを思い出した。
長いあいだ書いていなかった。前回書いたのが、夏休みの終わりだから、それから約半年書いていないことになる。また断続的になるかも知れないが、また続けようと思う。
▼この試論では、すぐれた教材の原則として

○3K(感動・簡単・きれい)1A(安全)の法則
○3H(ホット・本質的・ホンモノ)の法則

を軸として展開してきていた。この論を書かなかった半年間も、「教材」を考えるときには、これでフィルターにかけていた。
 「細胞と生殖」「化学変化・還元」「イオン」「地球と宇宙」等々とつづけてきたが、どこかでこれを意識してきた。
▼今、両分野の包括的的な単元をやりながら、自分でこの法則を喪失してしまっているのではと反省している。
すごく具体性を欠いて、概念的なとらえかたにとらえかたになっている。
もう少し、法則以前のところがあるような気がする。

「教材」とは、既習の概念をくずしていくものでなければならない。
「概念くずし」から新たな「学び」がはじまり、より高い科学的概念が形成されるのである。

これこそ、教材の鉄則中の鉄則のはず。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【授業】『科学技術と人間』はどのように

Dscf5916▼昨日の空は雲が多かった。カレンダーの「天気表」になんと書こうかと迷った。「曇り」と書こうか、「晴れ」と書くべきか。結論として、これは「晴れ」とした。青空だってみえているし、雲が多いと言っても9割以上ということはなかろうと見たわけだ。しかし、こんなにも雲があるということは、上空に水蒸気がそれだけのたくさんあるということだ。飽きもせずに、自然は同じようなことを繰り返している。
 それにくらべ人間とは(人間いっぱんにしてしまわないで「私」と言った方がいいかも)なんと飽き性なんだろう。同じであるはずのない自然の繰り返しを「同じ」と見てしまい、飽きてしまう。そこに新鮮な「発見」も、「感動」もない。困ったものだ。
▼授業もそうだった。その傲慢さが邪魔をしてしまった。
先行するクラスでは2分野の総括単元『自然と人間』から1分野の『科学技術と人間』にうつった。
同様の戦略を考えた。一挙に教科書をなぞって、その後に卒業論文第2弾「科学技術とこれからの私」に行こうと思った。それは、わかっているつもりになっていた、私の失敗である。
わかったつもりになった瞬間から、「科学」は失速するのである。
▼リベンジを期するためにも、シナリオを少しふりかえってみる。
教科書をなぞるところからはじめた、こうだ。
「エネルギー資源」
・生活を支えるのはどんなエネルギーか
・限りあるエネルギー資源
 化石燃料
・いろいろな発電方法
 水力発電・火力発電・原子力発電
・エネルギー資源の不足を解消するには
 バイオマス
 コージェネレーションシステム
 地球温暖化 ダイオキシン
…とつづく。

なぞっていくだけでは、何も見えてこない。なんども「失敗」の経験をしてわかっていたはずなのに…。
さあ、次はどうするかだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

【Web更新2/7】10-06【自然・人間・科学】新設

Dscf5790
誰が繭や クヌギ林に 宿りたり
10/02/05 (金)撮影@安富

■楠田 純一の【理科の部屋】10-06
週末定例更新のお知らせ
 つまるところ、すべてが「空間」と「時間」の問題である。こんなアタリマエに今さら気づきはじめている。「宇宙」から「生命の営み」まで、すべてが…。しかし、それに気づいたところでなにかが変わるのだろうか。
 月の形の変化を見ながら、時間の流れを感じるのは、なんとも新鮮な感動である。

◆表紙画像集2010 校庭の樹木シリーズ クヌギ林
 いつも同じことを繰り返している。もはやそれは一日の日課のようになってしまっているのかも知れない。
朝の校庭の散策だ。校庭、校庭周辺の樹木を観察しつづけていると、樹木というもののすごさ、すばらしさが少しずつ見えてくるような気になる。校庭の西の土手の上のクヌギ林も自然観察のすばらしいフィールドだ。
 まったく偶然に、黄色い繭玉をみつけた。朝日あびて輝いていた。それは、北風からクヌギに庇護されているかのように…。

◆【自然・人間・科学】新設
 義務教育最終の単元である。ならぶテーマが大きすぎて、どうしたものかとあぐんでしまうところもある。
その反面、これまでのすべてを含む内容としてワクワクするところもある。
 これまでの学習をつなぎ合わせて考えてみたい。
「自然」「人間」「科学技術」のこれからを

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【授業】人間と環境

Dscf5883▼昨日の朝はは久しぶりの積もる雪だった。45週目の大賀ハス観察池にも、雪がつもった。ネットで各地の積雪をみていると、比較にならないが、それでもこの地にとっては「積雪」なのである。目を門先に移せば、定点観測地のヒガンバナも雪に埋もれている。この姿をみているとヒガンバナの北限が推察できるというものである。いつかこの北限に訪ねる旅に出たい。しきりとそう思うのだった。
Dscf5881▼授業の記録を残しておこう。どんな授業でも、そのときの私自身の思いも重ねて事実を書き綴っておこう。それらは、やがて意味あるものになるやもしれない。
「授業綴り方運動」なんとも唐突なる言葉である。日本の教育の大きな財産として「生活綴り方」がある。
 ありのままの事実を生活をみつめて綴る。書き綴ることが「くらし」をも変える力になったともいう。
そんな大きいことでなくても、授業を等身大に語り、綴りつづければなにかが見えてくるかも知れない。それは願望でもある。
▼土壌動物の観察で、土の中の自然を豊かにとらえようとした。
次は、さらに世界をひろげてみる。
そして「人間と環境」の学習である。教科書を大ざっぱになぞってみる。
・自然環境における人間とは
 地球温暖化 絶滅危機種 赤潮
・自然環境の中で人間があるべき姿とは
 里山 持続可能な社会
<自然と人間のかかわり>
・変化に富んだ日本の自然
 地域の自然について調べてみよう。
 火山の多い日本列島
 地震の多い日本列島
 降水の多い日本列島
・自然とともに歩むわたしたち
 監視と防災対策
 自然との共生
▼なんとでかい話だ。これまで学習を包括する学習だ。
この単元のための各論を勉強してきたようなものだ!!
そうあるべきだと思う。
しかし、それだけでいいのかという思いもある。
今問われているのは、それだけではない。
いちばんに問われなければならない
「自然」とは、日本列島全般の「自然」ではない。自分の暮らす地域の「自然」だ!!
そして
「人間」とは、「私」を含めた「人間」でなければならない。

そこで、卒業論文『安富の自然と私』となる。
15の春がとらえる「自然と人間」はいかなるものなのか。楽しみである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

【授業】「虫けら」たちの多様性!!

Dscf5803▼何でもかんでもあまり「「ふしぎ!?」がっていると、自分でも今までに何を知ってきたのだろうと疑ってきてしまう。同時に少し恥ずかしい思いになる。
 でも、それは事実だから仕方ない。それを認めるところからしか私は出発せざるを得ないのだ。
月もそうだった。今朝の月は、みごとな「下弦」の月だ!!
あのブルームーンから一週間、それだけの時間が経過したのだ。
本当にそうなんだ。教科書の通りなんだ!!
こんなこと、何度もみてきたはずのこと、アタリマエ中のアタリマエのこと。でも
 妙に感動してしまうのである。
▼授業をやっていてもそうだった。昨日は、別のクラスの「土壌動物」探索であった。
すでにやったクラスから情報は流れていた。
「クマムシらしきものも見えるんやて」
と理科室に入ってくるなり会話をしている。
同じように授業していても、反応は微妙にちがう。
それがまた面白いのである。
Dscf5813▼観察、探索がはじまると、班によって差異が出てきた。
同じ場所の同じ土を使って観察している。そんな違いがあるはずがない。
でもある班では、「いっぱうじゃうじゃいる」という情報があったためか、そんなみつけられず、期待はずれで、ちょっと飽きたような表情。
 かたや別の班では着々とぺとりざらにいろんなものがたまっていく。
面白いのは、相互の班で刺激し合いやがて、どこの班でもいろんなものをみつけていくことだ。
▼今さらであるが、驚き、感動してしまうのだ。
土のなかにこんなにも多様な世界が展開されていることに。

「虫けら」たちの多様性!!

その「多様性」の意味するところは…
さらに「生物多様性」とは…
「ふしぎ!?」はとどまるところを知らない。
Dscf5860▼土の中は、「虫けら」だけではなかった。
ケヤキの落ち葉の土のなかからは、カニの足、甲羅
植物たちの種
クヌギ林の土中からは
シカの糞
生きた「ガイザ」など、など…
そして、土は丸くなり団粒状になっている。そうだミミズの糞だ。
偉大なる大地の耕作者「ミミズ」くんたちの糞だらけである。

ひとつひとつみていくときりがない。
多様な生物の世界のつくりだすもうひとつの「宇宙」がここにもあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【授業】やっぱりいた!「虫けら」たち

▼「立春とは名ばかり」は、あいさつ文の常套句だ。しかし、逆もまた真なり、さすが立春である。どこか、そこかしこに「春」の気配がある。足もとのホシノヒトミが目立ちはじめ、冬芽もますますあたたかく膨らんできているように見えたりする。植物たちの方が、いちはやく春を感じているのかも知れない。
Dscf5755▼土のなかの「生きもの」たちも、そうなのかも知れない。
授業の方は、土壌動物たちを観察してみることにした。「片足の靴の下の土壌動物の数」の図ほど、多様にたくさんみつけることはできないにしても、別に特別の場所でなくても、研究者の眼でなくても、みつけることはできるはず…。
 どこの場所の土を持ち込むか迷ったが、最終的に二カ所からにした。
ひとつは、理科室から見える、クヌギ林の土。もうひとつは、校庭のケヤキの葉を掃き集めているところの土にした。それぞれの場所からバケツいっぱいの土を持ち込んだ。
▼「観察」といってもダイレクトで簡単だ。
例の「土壌動物」の図をみながら、この図ような動物たちがきっといるはずだからさがしてみよう。
使ったモノは、ルーペ(×20)、虫眼鏡、ピンセット、枝つき針、つまようじ、ペトリザラ、水槽、双眼顕微鏡、顕微鏡などなどである。
 制限時間一本勝負だ!!
Dscf5779▼バケツの土を水槽に入れ、班にもっていく。新聞紙の上にひろげ、ルーペで観察しながら、土壌動物たちをみつけていく。
みつけたものは水をはったペトリザラに入れていく。
これは!というモノをみつけたら双眼顕微鏡でみてみる。
たったそれだけの作業だ。
最初は、半信半疑だから、作業のスピードはにぶい。
やがて、だれかが奇声をあげる
「ギャー、キモ~!!」
「こちっも、キモ~や!!」

やがて、「キモー」比べがはじまる。次々と「発見」競争になる。
双眼顕微鏡でのぞいて、またまた奇声をあげている。大発見があるとそちらへみんな
「見せて!見せて!!」と集まる。
▼誰かが、双眼顕微鏡をのぞきながら言い出した。
「これ、ひょっとしたらクマムシ!?」
みんながあつまる。
「これ違うで、これ(トビムシの図をさして)やろ」
「クマムシは、こんな…」と2年の「動物の世界」の学習のはじめに配ったクマムシのプリントを持ち出すものがいた。((゚o゚)ゲッ!!持っていてくれたんだ。私は、そのことの方が感動した。)
「クマムシ」論争がしばらく続いていた。
…。
すぐに1時間がすぎてしまっていた。
そして私は、いつしかあの大関松三郎の詩集『山芋』にある「虫けら」の詩二編を思いだしていた。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

【授業】片足の靴の下にいる土壌動物の数

▼朝起きて外に出た。空は月がまだまだ明るく凍てつく。非接触温度計を向けると、-18℃を示した。冬のそらである。しかし、暦の上では、つまり天体の運動の軌跡から言うと「立春」である。
確実に春に向かっていることは間違いないこと。センスオブワンダーをフルに駆動させて春をみつけよう。
▼授業の方は、食物連鎖、生産者、消費者、生物界のピラミッドと話がすすむ。そして、「分解者」だ。
私は、昔からここの学習が好きだった。
そこには、生物たちのみごとなつながりが見えてくるからだ。土のなかにも膨大な数の生命の営みがある。
そして、生物どうしのつながりにおいてみごとな役割している生きものたちがいる。その存在を知るだけでも感動である。
▼この土壌動物の学習のときに、私がずいぶんと感動した図がある。それは、ずいぶんと以前のことだから、その周辺のことは忘却の彼方であるが、この図だけは鮮明に憶えているのである。
その図とは、
◆ 『自然の診断役 土ダニ』(青木淳一著 NHKブックス1983.5.20) P39にある

図7 明治神宮(東京)の森の中で、片足の靴の下にいる土壌動物の数(青木ほか、1977;田村,1977;北沢1977の資料を基に作図) 

 ほんとだろうか!?。こんなにもたくさんの生きものがいるかなんて…。そんな驚きをもって見たのを憶えている。
いっぺんに青木淳一の大ファンになって青木先生の書かれた本をあさった。高価な「土壌動物」の本も買ったはずだが、今はどこにいったかわからない。
 しかし、この図のことはだけは忘れなかった。
▼今回も、この図をコピーし、授業でくばることにした。そして、実際にそんな土壌動物たちがいることを、観察してみようと思う。
 今の時代であるから、この図は、Webにもあるのではないかと検索をかけてみるが、この程度のものしかみつけだすことしかできない。
 今回、この図をみていて驚いたことがある。あの「クマムシ」がすでに書いてあるのである。その当時はまったく意識していなかった。それも「12」と書いてある。そんなにいるのである。私は、まだ世界最強の生きもの「クマムシ」に出会っていない。…

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【授業】卒業論文2題を考える。

Dscf5709▼早くも今日は節分である。季節の節目で行事を行う、それはくらしを科学するときの人間の知恵なのかもしれない。一見すると非科学的と見えることの中にも、たいへん科学的な思考・知恵がつまっていることがある。
せっかくの財産を見逃さないようにしたいものだ。「雲見」をあいかわらず楽しんでいる。
ちょっとのすきま時間に空を見上げる。きれいだ!!刻々と変化するその姿が。きれいなだけではない。刻々と変化する雲の姿から、天気の変化を読み取ろうとした「科学」がある。その「科学」が結晶化したのが「天気コトワザ」である。この教材化を考えながらも途中になってしまっている。
▼これだけでない。今、卒業を前に【自然と人間】の授業をやっていると、「あっ、あれまだ途中だったな」と思い出すことがいっぱいある。だからと言って、なにもかも掘り出してきてやるのは時間的にも無理がある。
ならばどうするか。
【地球と宇宙】の感想文など読んでいて気づいたことがある。生徒たちは、こちら予想を越えて学んでいるのである。「知識」がインプットされたというだけでない。あきらかにそれを越える「学び」がそこにある。
それとて、アウトプットすることがなければ見えてこない。
アウトプットするためには、これまでの「知識」の整理も必要だ。また、その「知識」と「私」をつなぐ作業も必要だ。
そこで決めた。

卒業論文を書いてもらおう!!

と。
▼卒業論文のテーマは、自由選択という手もあるが、ここではそうしない。義務教育最後の論文である。しめくくり・整理のアウトプットである。こちらの思いを込めて次のようにした。
今やっている単元から

「○○の自然と私」

もうひとつある。この後やる一分野の【科学技術と人間】から

「科学技術とこれからの私」

迷った。「これからの科学技術と私」とするか。
より等身大の科学をめざして欲しいという思いからこうした。
近日中に提案してみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【授業】食物連鎖のはじまりは

Dscf5693▼月がかわっての最初の日は雨だった。久しぶりに校舎のまわりの山々で「雲の発生」実験が行われているのを見た。こんな実験は、なにも特別なものでもない。日々絶え間なく行われている「大気の物理実験」だ。久しぶりと感じるのは、意識するのが久しぶりなだけである。
見えていても見てないというだけの話なのかも知れない。
▼「宇宙」を眺めていた眼は、地上の生命の営みにもどる。授業は卒業単元【自然と人間】をはじめる。
あらためて「環境とは」からかんがえはじめる。
やっぱり、どこかちがう。【地球と宇宙】の学習の後にみる「生命の営み」は。
「地球」はもちろんのこと、「宇宙」をひっくるめて「環境」と呼んでみたくなる。
それは、宇宙三大「ふしぎ!?」のひとつ「宇宙人はいるの?」とどこかでつながっているからかも知れない。
▼次に生命のつながりを見ていくことにした。
「食物連鎖」である。
「食べる」である。
久しぶりに動物の「ふしぎ!?」謎解き第一次方程式「食べる」を思いだした。
思い出すことだけでなく、
この「食べる」のつながりのはじまりにいつも生産者=植物がいる!!
このアタリマエにいたくいたく感動するのである。

偉大なり植物よ!!
その原料の水と二酸化炭素
どこからやってきたのだろう。
緑の工場のエネルギーはどこから
やっぱり偉大なるかな太陽!!

アタリマエの諸々が、妙に新鮮に偉大に見えてくるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【Web更新1/31】10-05【地球と宇宙】等

Dscf5626
赤き実や フェンス越え春 あふれたり
 10/01/29 (金)撮影@安富

■楠田 純一の【理科の部屋】10-05
週末定例更新のお知らせ
 今日から2月である。とんでもないスピードで地球は運動しているように感じる。しかし、私の中に少しずつ宇宙から「地球」を見る視座がせっかくできつつあるのだから、それを生かさなければ…
 今週は、どんな展開があるだろう。

◆表紙画像集2010 校庭の樹木シリーズ マンリョウ
 校庭の南側の坂道を東に下り始めたら、気になるのはアメリカフウの実が「鈴掛」のようにぶら下がっているさまだ。視線は、自然と空に向かう。そのとき足もとのフェンスの向こう側にあまりめだつことなく、赤い実があることには気づいていた。それが、ここのところずいぶんと目立つようになってきたのだ。赤い実がたわわに実りフェンスを越えてはみ出てきたのである。まるで春があふれ出して来たように…。

◆【地球と宇宙】更新
 一応、この単元を終了した。しかし、同時にほんとうの「学び」は今からはじまるのかも知れない。生徒も、私自身も…。「ふしぎ!?」を追いかける旅に終わりはない。

◆新・クラウド「整理学」試論 当分は、Twitter的を追いかけていきたい。そこにすべてがあるような気がしている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »