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「熊楠」とこれからの理科教育(2)

Dscf3116▼昨日の朝の散歩は、少しゆっくりと時間をとって、ヒガンバナの結実さがしをした。例年、たくさんみつけることができる場所にでかけたが、そこにはなかった。その場所に近づく前に一カ所、そこから離れた場所に一カ所、2個の実をみつけることができた。結実の条件とはなんだろう。個体変異なんだろうか。えば年によってちがうのなら、環境条件のちがいによるのだろうか。今年は、定点観測地Aでも見つけている。
 2カ所でみつけたうちのひとつを、今年も家に持ち帰り、ミニ花瓶にさしてみた。
 ヒガンバナと言えば、この散歩でとてもめずらしいものに出会った。ヒガンバナの「遅れん坊」である。今開花しているヒガンバナである。このシーズ初の冠雪のニュースが流れる11/3に開花しているヒガンバナであるなんておどろきである。
▼昨日は、「熊楠」デーときめて、少し頭の中を整理するつもりでいた。しかし、それは予定だけおわってしまった。畑仕事に思わぬ時間を使ってしまったのである。
 と言いながらも、少しは意識だけはしたので、その断片を記憶が消えないあいだに、記録しておこう。
・「熊楠」への興味を焦点化すれば、それは「南方マンダラ」である。
・さらに焦点化すれば、それは「萃点」とはなにかということである。

 ここに一言す。不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。理不思議あり。予は、今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ、その順序だけざっと立てならべ得たることと思う。(人は理由とか原理とかいう。しかし実際は原理にあらず。不思議を解剖して現象団とせしまでなり。このこと、前書にいえり。故に省く。)心不思議は、心理学というものあれど、これは脳とか感覚器官とかをはなれず。したがって、心ばかりの不思議の学というものは今はなし、またはいまだなし。
……
これらの諸不思議は、不思議と称するものの、大いに大日如来の大不思議と異にして、法則だに立たんには、必ず人智にて知りうるものと思考す。さて妙なことは、この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はすじみち)、図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍追求するときは、いかなることをもなしうるようになっておる。
 その捗りに難易あるは、図中の(イ)のごときは、諸事理の萃点ゆえ、それをとると、いろいろの理を見出だすに易くしてはやい。……
 すなわち図中の、あるいは遠く近き一切の理が、心、物、事、理の不思議のにして、その理を(動かすことはならぬが)道筋を追従しえたるたけが、理由(実は現像の総概括)となりおるなり。
 さて、すべて画にあらわし外に何があるか、それこそ、大日、本体の大不思議なり。
(『南方熊楠 土宜法竜 往復書簡』八坂書房、P307~309)

▼「ふしぎ!?」の謎解きこそ、理科だ。ならば、これは理科教育の羅針盤になるのではないかというのが、私の考えだ。ここに科学の方法、謎解きの方法の秘策がかいてある。
「萃点」から取り組めと言っているのである。
熊楠は多様な方面での活躍がある。それはあまりにも広い範囲に渡る。
「民俗学の生みの親」「日本のエコロジーの先駆者」「粘菌研究者」「知の巨人」…
だから、あまり巨大すぎて全貌がみえにくい。
私は私自身の文脈で読むしかできない。
私には、彼はファラデーと同じく「ナチュラル・フィロソファー」の名がいちばんふさわしく思える。

<つづく>

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