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新・「自由研究」のすすめ試論(17)

▼2009年の折り返し地点をすぎてからも、またして地球は30回転をし、太陽の周囲を30度回転した。その間には、「日食」というドラスティクな日もあった。そんな7月が今日で終わる。
 このスピードを体感するなんていうことは、ほんとうのところなかなか難しい作業なんだろうと思う。
Dscf5051▼昨日の朝から、出勤前の慌ただしい時間であったが、阪本さんのアドバイスに従って、黒をバックにして大賀ハスを撮った。黒い画用紙が家では見あたらない。間に合わせものの部屋にあった黒い紙袋で代用である。
久しぶりの青空だ。朝日に照らされた大賀ハスの蕾が、刻々と近づく「あこがれの4日間」を予告しているようである。その準備にかからなければならない。こちらのスケジュールに合わせてくれと願うのは、少し我が儘な言い分だろうか。
Dscf5115▼久しぶりの青空は、『雲見』へ強く誘ってくれる。
やっぱり空は青空がいいな。
賢治の「雲見」もこの季節のものなんだろうな。一日に何度か、すき間時間をみつけて「雲見」をやった。
極め付きが、夕方に訪れた。西日をあびて帰宅する東の空に、横に長い長い積雲が横たわっていた。
どこかで車を停めて、カメラを向けたいが、その場所がみつからない。
山崎断層の上空に横たわる長い長い積雲なんて、すごい絵になるんだったんだけどな。
ついには、家に着いてしまってからシャッターをきった。のがした魚は大きい。(^^ゞポリポリ
▼「試論」をすすめる。圧倒されるような思いや、ワクワク気分で寺田寅彦の文章群とつきあっていると、ほんとうにこんなこと一世紀近く前に書いていたのかと驚いてしまう。これは、少し時間をかけて楽しませてもらうこととする。私の文脈に少し強引だが引きつけてくる。
 「自由研究」である。
 池内了先生の提言に耳を傾けてみる。

 ここに、科学の有りようについてのヒントが隠れているような気がする。日常身辺の現象を新しい眼で捉え直すことである。私はそれを「等身大の科学」と呼んでいる。サイズが等身大で、研究費も等身大で、誰でもが参加できるという意味でも等身大である科学として、気象や気候、生態系、地球環境問題などを対象とするのである。これらはすべて「複雑系」であり、多数のデータを何年にも渡って集積する必要がある。また、これらに共通するのは「循環するシステム」という点であり、循環の意味をじかに経験するには好適である。(『寺田寅彦と現代~等身大の科学をもとめて~』(池内了著 みすず書房)p110より)

なんと納得のいく提言だろう。
これだ!!と思わずにおれない。思わず膝をたたくことしきりである。
▼まだ、ある。これで終わらないのだ。
こうだ。
 もう一つは、「新しい博物学」である。モノを収集して共通性と異質性によって分類するという博物学は、十八、十九世紀に盛んとなり、そこから物理学・化学・生物学・地質学などの専門分野が分化してきた。それによって科学は進歩したのだが、一方では科学はますます専門分化が進み、「極」とか「超」が接頭詞として付く状態になってしまった。(極低温、極微物質、超高温、超高エネルギーなど)。科学が細分化され縁遠くなってしまったのだ。そこで再度学問を総合化して身近に引き寄せることを考え、科学だけでなく、歴史や文学や民族学や神話など広く文化全体の眼でモノを見直すことを構想するのが「新しい博物学」である。(同書 p111より)

これまた納得のいく、みごとな提言だ!!。
私は、これを読んで、すぐさまひとつの具体的、典型例を思い出した。
それについては、別の機会にする。
いずれにしても、すごい提言だ!!
これらを
私の言う、「等身大の科学」や「新しい博物学」が生活の場から実践されることを願っている。(同書 p133より)

としめくくっている。
▼私は、これまでこんなすごい「これからの『自由研究』」に向けての提言にであったことがない。
この提言にどう応えるか。
それが、これからの「試論」の課題となった。

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