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新・「自由研究」のすすめ試論(10)

Dscf3799▼忘れてしまっているわけではない。しかし、いつもプライオリティをつけるとちょっと後回しになってしまっていることがいくつかある。ところが、突発的にプライオリティを無視して行動することによって発見することがある。あたかも意識のないところで何かが働いているように…。一昨日、突然「あじさい公園」のモリアオガエルが気になりだした。あいつらはどうしているだろう。泡から落下して池に落ちる瞬間をみたいと思っていた。卵塊によって少しのちがいはあるが、ほとんどは「その瞬間」はすぎてしまったようだ。池のなかで、イモリくんたちに追いかけられるオタマたち、クロモにつかまり、ちょっとのんびりする大きくなったオタマ。そうだ、卵塊を今年の夏、はじめてみてからも時間がけっこうたっているのだ。
「等身大の科学」のことを続ける。
■『寺田寅彦と現代―等身大の科学をもとめて 』 (池内 了 著 みすず書房 2005.1.21)「第4章 科学・科学者・科学教育」に「等身大の科学」の文言をみつけて感動したところまで書いた。
 もちろん著名なる宇宙物理学者の言う「等身大」と一介の中学校理科教師の私の言う「等身大」と同じものあると、そんな不遜なことを言うつもりはない。
 ただただ納得し、共感を覚えるのである。
 池内先生は、寺田のいくつかの「研究」テーマあげたのちに次のように書いた。

 ここに、科学の有りようについてヒントが隠れているような気がする。日常身辺の現象を新しい眼で捉え直すことである。私はそれを「等身大の科学」と呼んでいる。サイズが等身大で、研究費も等身大で、誰でも参加できるという意味でも等身大である科学として、気象や気候、生態系、地球環境問題などを対象にするのである。これらはすべて「複雑系」であり、多数のデータを何年にも渡って集積する必要がある。(同書p110)

▼池内先生には「等身大の科学」に加えて、「新しい博物学」の提案がある。これらに子どもたちも参加させようと言うのである。それには、「自由研究」の機会はチャンスだと言われている。
賛成である。
 私は、もっと言えば、「等身大の科学」こそが、「二十一世紀の科学」これからの「科学」であると思っている。
 だからこそ、自らの「ふしぎ!?」にこだわり、その謎解きに挑戦してほしいと願うのだ。
▼寺田の時代と大きくちがうところがある。
それは、現代はWebの時代であるということだ。Webがうまく活用されれば、この「等身大の科学」がつながり、世界大の科学になる可能性も含んでいる。
 それにしても、ここでの池内先生の「科学教育」に関する提言の数々とても納得いくものばかりである。
 「理科教師」として何をすべきなのか明確に語られている。何度か繰り返して読み返すことになるだろう。
いつの日か、直接お話を聞く機会があるかも知れない。楽しみにしておこう。

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