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【授業】「力はふたりぼっち」の法則

Dscf2519▼我が「大賀池」は、植え替え9週目が過ぎた。多様なる生命の営みの「環境」となった。いつかは、水面を支配していたかに見えたアオミドロは、どこかにいってしまった。あいかわらずにボウフラたちが水面-水中の上下運動を繰り返している。ひときわ目立ちはじめたのは、短期決戦タイプのシバだ。種子が土の中にまじっていたのだろうか。それともどこから飛んできたのだろうか。お互いの生命がお互いの「環境」となる。そして、ひとつの「宇宙」ができている。そのなかに、大賀ハスがいる。さて、次の一週間でどのように成長するのだろうか。
▼授業の方は、「思考実験」をすぎて、作用・反作用に入った。
本来は、「力学の第一歩」でやっておくべき内容だろう。しかし、現行ではそうなっていないのならそれに対応した授業を考えるべきだ。力の概念形成にかかすことのできない法則だ。
▼「アタリマエ」のことが法則になったとき、それはどこかで混乱も引き起こされる。「力のつりあい」と「作用反作用」の混乱は、これまでの実践でもよく指摘されてきたところである。
 確かに起こりがちな混乱である。教科書の具体例にそうようなかたちで、いくつも具体例をあげる。
ひとつひとつの具体例では、きわめて「アタリマエ」として理解できるのである。ところが力の矢印を書きながら考えていくといつしか混乱がおきている。
 いろんな試みがあった。Fの下にA→B,B→Aを記入させて、「何が何にはたらく力なのか」明確にさせよう、力は「受け身」で考えよう等。
▼いつのころからか、誰かに教えてもらったのか、自分の授業のなかで生徒の言葉として生まれたのか、今となっては定かではないが、私はこの作用・反作用の法則を「力はふたりぼっち」の法則と呼んでいる。法則は使えなければ意味がない。
「上がるとザアザア 下がるとカラカラ」で大気の物理学=天気の変化が見えてくるように、「力はふたりぼっち」の法則を使うことによって、もっとも「アタリマエ」の法則が見えてきて「力」が見えてくるのである。
 繰り返し使うことによって、使える法則となるのだ、と思っている。

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【授業】「思考実験」にいたるまでに

▼頭の中で、いろんなことを抱えて授業のぞむ。できるだけ「すっきり」とした状態でと思うが、なかなかそうはいかないときもある。
 「思考実験」は、実験道具が用意できなくても、そのものがなくてもできるから便利で面白いが、そのためにベースになる。自分なりの「ふしぎ!?」があってこそ成立すること。
 もうひとつ「思考実験」には、かかすことができないものがある。それが「対話」だ。ひとつの仮説に対して、それに反駁する仮説が必要だ。それがあることにより、より深まり拡がる。ガリレオ・ガリレイが「対話」形式で思考のプロセスを書きとめたのも、そんなことからかも知れない。
Dscf2490
▼「等速直線運動をする台車の上でだるま落としをしたら…」。授業を準備してふと思いついた実験である。
力学滑走台の上に「だるま落とし」をセッティグして何度か挑戦してみるが、うまくいかない。ここは「思考実験」でいこう。慣性の法則のまとめをこれでと思うが、なかなかうまくはいかなかった。
▼それよりもっと単純に、「コイン落とし」や「だるま落とし」の方が人気だ。
その方では、ちょっととっておきにしてきた実験がある。ガラスのビーカーに大きな石(ブロック)をのせて上から金槌でたたくというものだ。ここには「(゚o゚)ゲッ!!」というものがある。
 そこに「ふしぎ!?」のはじまりがある。「思考実験」のプロセスのはじまりでもある。
まだ、まだ思考錯誤の連続である。

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「思考実験」とは

▼今、「思考」という言葉を聞いて、すぐさま私が思い出すのが、佐藤可士和の「佐藤可士和の超整理術」(日本経済新聞社)にある「思考の整理」である。彼は、この著で、整理のレベルを三段階に分けている。
「空間の整理」
「情報の整理」
「思考の整理」
である。そして、究極を「思考の整理」としている。さらには「思考の整理」とは、「思考を情報化すること」であると言っている。納得できる話だ。「見えないもの」は「見えるように」にしていくところからはじめるべきだということだろうか。
▼教科書にガリレオの「思考実験」の話が出ている。実験によって自然界の法則を見つけだしていったガリレオの話だ。400年前の話だ。そこから科学が生まれた。科学は、数々の「ふしぎ!?」を解き明かしていった。そのとき、まず先行したのは「思考実験」であった。
 「思考」することによって「実験」をおこなうのである。
自然界の「ふしぎ!?」を自然に問いかけるのである。そして、仮説を立てる。「見えない」ものは「見えるかたち」にしてみて、シミュレートしてみる。その営みの繰り返しのなかで、法則の発見がある。
▼「慣性の法則」のところで、いくつかの「思考実験」を提示してみる。できるかぎりの「見えるかたち」で…。
 

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【授業】「21世紀のガリレオに!」へもどる。

▼特設の授業から、平常の授業にもどる。生徒たちにとっては、どちらも同じ「日常」のなかにある。
平常の授業では、「きみも21世紀のガリレオに!」を続けているところであった。
「内なるアリストテレスとたたかい」で、私自身のなかに「アリストテレス」が居座り続けてことの告白もしたところだった。その後のシナリオも私自身は描いていた。しかし…
▼少し、「これまで」を自分でも整理しておく。
教えたいのは、「慣性の法則」
力と運動の関係だ。
表にしてまとめなおしてみた。
(1) 力=0 → 運動している物体:等速直線運動  静止している物体:静止
(2) 力のつりあっているとき →運動している物体:等速直線運動  静止している物体:静止
どうしてなんだろう。ついつい(2)が抜け落ちてしまうのだ。
Dscf2195▼「力」が見えないからだろうか。「ウイルス」も見えない。同じ「見えない」でもちょっとちがう。
「ウイルス」の方は、技術的解像度をあげることによって見ることができる。将来多くの生徒はこれを「実体」として見ることになるだろう。
 一方「力」の方は、「科学の眼」が育たなければ、絶対に見えない。
ここに一番の課題がある。「21世紀のガリレオに」せまっていくためには必須である。
▼具体的に動く物体を見て、そこから「力」見ていく逆コースも方法である。幸いなことに、準備室の棚にすごい実験器具があった。「滑走実験器」だ。
これは、なかなか面白い。見ているだけでも面白い。
では、いっきょに思考はすすんだか?
否である。
Dscf2209▼静止しているものは「静止」しつづける。こちらの方は、けっこういろんなかたちで、遊びながらいける。それなりに楽しんでくれた。また、別に書きとめたい。
問題は「運動している物体」にある。

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【授業】科学と日常はどうつながるのか

▼「理科」は「科学を教える教科である」という考えがある。そんなアタリマエのこと、今さらと思ってしまう。
一方、「日常のなかにこそ科学がある」という考えもある。このときのふたつの「科学」は、おなじ「科学」をさしているのだろうか、ケースバイケースで使い分けしているのだろうか。
 私は、帰ってきた学校の「日常」に、「科学」を持ち込むことで、持続可能な「日常」にしたかった。そのために、例のScienceWindowを持ち込んだ。
▼最初に、急遽「二分野の教科書」も用意してもらっていたので、まずはそれからである。
「たったひとつの細胞からはじまる私たちの生命」からページをくりながら、このたびの移行措置で登場する「DNA」までを概観する。次の【細胞と生殖】の予告のようなものである。
 たとえば「DNA」ひとつ取り上げても、この言葉を見聞きしない日は一日たりともないと言っても過言ではない。それくらい日常のなかにある。しかし、それは意識しているだろか。
 この度は、ちょっとだけ意識して理科の授業でやってみるだけのこと。
ScienceWindow「ウイルス」をプリントにした。ちょっと字が小さくなってみにくいところがあるが、かんべんしてもらう。ひとつひとつをとりあげて授業していたら、いくら時間があってもたりない。深い理解、くわしい学びは「これから」ということにして、とりあえずの資料提供と、理科で学んでいることと日常生活とはつながっていることを少し感じてもらいたかった。
 資料を見ていくためのガイダンスのプリントをつくった。
==================================
1 「ウイルス」は生物か
 ○資料を読む前    生物 無生物
 ○資料を読んだ後  生物 無生物
2 ウイルスの正体を知ろう
 ○大きさ  細胞、原子、細菌、ウイルス、「プリオン」 大きい順番に
 ○なにからできているの
3 ウイルスはいつ誰が発見したのか
4 ウイルスはどうしてふえるのか  「DNA」 「RNA」
5 インフルエンザに感染するってどういうこと
6 インフルエンザに感染するとどうして熱がでるのか
7 新型インフルエンザウイルスから身を守るためにはどんなことをすればよいのか
8 「ウイルス」「新型インフルエンザ」についてもっと知りたいことは
===================================
まだ、こまかくは見ていないが、提出してもらったプリントをみていると
よく読んでいるなという感じである。

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ScienceWindowをテキストとして

Dscf2453▼学校に「日常」がもどってきた。さわやかな風薫る初夏だ。空も「日常」を取り戻したかのように青空だ。たまたま時間割の関係で授業はなかった。今日はある。どうすべきか、まだ迷いはあった。簡単にそのことにふれて「21世紀のガリレオに」の授業を続けるか。それとも特設の授業を組むか。特設の授業を組むための準備はできているのか。
▼決めた!一時間だけ、今の私にできることをやろう。
いろいろ資料を考えてみたが、現時点では、最初に見たScienceWindow2008年12月号特集「ウイルス」がいちばんコンパクトにまとまっているように思う。
 とは言っても、むずかしい用語もいっぱい出ている。今から学習することもある。そのことのすべてをこれで理解してしまうなんてどだい無理なこと。
 生命科学の最前線を一時間でなんて元々できるわけはない。
でも、科学することが日々の生活に有効というのなら、できることはやっておかねばならない。
▼内容をもういちど読みなおしてみた。

特集「ウイルス それは何?どうつき合うのか」
○ウイルスは、私たちに生命の本質を教えてくれる
○正体を探っていこう
○いつ誰が発見したのか?
○どうやって増殖するの?
○たかがインフルエンザ、されど……
○ウイルスは生きているか
○新型インフルエンザウイルスから身を守る術

どのテーマひとつとっても、一時間の授業ではむつかしい。
今の時点で授業として成立させる力量は私にはない。単なる「考える」資料提示になると思う。
▼「教えることは教えられること」だと言ってきた。ならば、この資料を提示して生徒たちから学ぼうと思う。
「生命とは?」という今世紀最大の「ふしぎ!?」を一緒に学びはじめようと思う。

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【Web更新5/24】09-21【細胞と生殖】新規など

Dscf2389
 声なきや シャリンバイの 咲くばかり
 09/05/21 (木)撮影@安富
■楠田 純一の【理科の部屋】 定例更新のお知らせ
 これまでに体験したことのないような一週間が過ぎた。あらたな一週間がはじまる。変に加速することなく、自分なりのスローに行きたいと思う。光太郎の「牛」のように…。
 ゆっくりとしかし歩みをとめることなく。

◆表紙画像集2009 校庭の樹木シリーズ シャリンバイ
声なきや シャリンバイの 咲くばかり
 09/05/21 (木)撮影@安富
 臨時休業で、グランドに声もなく淋しかった。夏の訪れを教えてくれるシャリンバイはグランドをみつめながらどんどん盛りに向かっていた。登校してきた生徒はこの変化に気づくかな。

◆【細胞と生殖】新規 この事態になって、急遽本単元の授業を構想してみることにした。
そして、そのねらいを「今こそ問う「生命とは?」」とした。
「ふしぎ!?」の謎解きが理科だとしたら、今世紀最大の「ふしぎ!?」=「生命とは?」と直面している今、この謎解きをなんとしてやっていかなければならない。等身大を離陸することなくゆっくりとゆっくりしかし着実に。
「ウィルスとはいったい何物なのか。」の問いが「生命とは何か」という問いと同じであることを、福岡伸一さんが教えてくれた。
 ならば、直面することを科学することが、この最大の「ふしぎ!?」にせまることになるだろう。

◆【運動とエネルギー】 更新
こちらの授業は、慣性の法則のところでストップしてしまっている。授業の方は、確実にすすめていきたい。
「きみも21世紀のガリレオに」も、最大の「ふしぎ!?」の謎解きとつながるところがあると確信するから。

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今こそ問う「生命とは?」

Dscf2433▼昨日で、「大賀ハス」植え替え8周目だった。観察池は、「自然」そのものとなってきた。水面には、大きなアオミドロのかたまりができ、水面下にも、たくさんの「雑草」が芽生えている。水中に無数のボウフラが、上下運動を繰り返している。水面をピョンピョンと跳びまわる虫たちがいる。ここに無限とも思える「生命の営み」がある。
 元々は2000年の眠りから目覚めた「大賀ハス」の環境だったはずだが、多様なる「生命の営み」の現場となった。あえて、手を加えることはやめる。只々「観察」するのみにしておこう。多くのことが学べる予感がする。
▼多様なる「生命の営み」を観察しながら、そして【細胞と生殖】の授業を俯瞰し、構想しながらも、あの問いが頭からはなれない。
『生命とは?』
即答できない自分がいる。答えが自分にないのだろうか。
誰かの言っていることをなぞることはできる。でも、今の自分に「ストンと腑に落ちる」答えがみつからない。
【動物の世界】の授業の何時間目かの終わったあとであった。「21世紀の科学をもってしても生物はつくられへん」と言ったに対して「お父さんお母さんが僕をつくたんとちがうん」と真剣に質問した生徒に対して、まだ本当の答えを返していないような気がしてきた。それにちゃんと答えるためにこの【細胞と生殖】の単元があるのかも知れない。
▼「新型インフルエンザ」対策の渦中にある。状況は刻々と展開していっている。
いったい私たちは「何もの」と戦おうとしているのか。
それを知っておくことは、戦略上も必須である。そのときにも「生命とは?」が出てくる。
繰り返すが、私たちは答えを持っていないのだろうか。
ちがう。誰もが自分の「生命観」をもっている。物心ついたときから、自分なりの「生命観」を持って生きている。
言葉にしなくても、できなくてもそれを持っている。それを物事を処していっているのである。生活してきているのである。ピンチはチャンスだ!今こそ問い返してみよう「生命とは?」
▼【細胞と生殖】を前倒しして構想するなかで、「ねらい」を考えてみた。
【運動とエネルギー】であれば「きみも21世紀のガリレオに」だった。「ねらい」を短いフレーズにしていつもこれを繰り返しながら授業を展開してみようというわけだ。
Cell
ここでも、やっぱりこれだった。

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授業【細胞と生殖】を俯瞰する

▼「ウィルスとは?」を追い続けている。来週から学校も再開されることがきまった。生徒たちは登校してくる。授業の方は、継続して【運動とエネルギー】をやっていくつもりである。単元としては次にやるのが【細胞と生殖】である。急遽、前倒ししてこの授業を俯瞰し構想することにする。
Dscf2402▼私は、2年生のときの【動物の世界】の授業のはじめに、熊楠の「粘菌」と「クマムシ」を持ってきた。今回は、なにからはじめるか。ひとつは決まっている。「コウガイビル」だ、昨日の時点では、まだ「生きている」。眠っているのだろうか、得意のリングポーズだ、どうかそのときまで生き続けてくれ!と願うばかりである。
 もうひとつである。それが今回の「ウィルス」だ。
▼これをやらずに、今、生物を語ることはできないだろう。義務教育最終年である、今こそ「ふしぎ!?」謎解きの「科学」が有効であることを証明しておかなければいけない。そこから「学ぶ」ことの意義をも見出してくれるかも知れない。
 厚生労働省からのリアルタイムな報告がある。これを読み取り、このQ&Aを理解するだけの力をつけなればならない。これは急務である。
そのためのベースになるための学習、それが【細胞と生殖】なのだろう。
 

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情報は水平方向へも伝わる

▼「ウィルスとは何か?」そこからのずっとずっとの課題「生命とは何か?」。このふたつの「ふしぎ!?」の往復運動を渦中にありながら繰り返している。
 そんなとき、あの先生の言葉が去来した。それは、ヒガンバナでお世話になっている栗田子郎先生の言葉だ。
それは『多様性生物学入門~ヒトへの道程~』(栗田子郎著 東海大出版 1997.3.3)の「まえがき」にある。

 ホモ・サピエンス(Homo sapiens 賢い者)と自らを名付けた我々「ヒト」も「チンパンジーとの遺伝的差はほとんどない」 としながらも、二つの大きな特徴があるとおっしゃっている。

 しかしヒトという種にはほかのどんな生物にもない(と思われている)きわだった特徴が一つあります。自分自身の由来、ひいては万物のルーツを知りたがるとともに、まだ存在しない未来に思いを馳せるという性質です。チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を著し進化論を説いたのもこの衝動に駆られたからでしょう。(中略)  いま一つのヒトの特徴は、細胞外で複製・増殖することのできる遺伝因子、つまり言語(言葉、文字)と映像を操る能力です。生きとし生けるものはすべて、自らを存在させているプリン塩基とピリミジン塩基で記された基礎情報(遺伝子)を次の世代へ残そうとします。ヒトも例外ではありません。しかし、この情報は時間軸に沿って垂直にしか伝わりません。ところが言語や映像という形の情報は水平方向にも伝わります。しかも、細胞核内に収められた情報は親から子へと伝わるのみで、その逆は不可能です。言語情報はこれが可能です。(『多様性生物学入門~ヒトへの道程~』「まえがき」より)
▼今の私には、うんと勇気づけられる言葉です。 いつも無手勝流で浅学な私にも、「科学の眼」の解像度を高める手段があることを示唆してくれている。 時代はWebの時代だ。それを駆使してみよう。

▼そんななかで、ひとつの試みをみつけた。
 
●『新型インフルエンザ中学生版ワークシート』

まだまだあるだろう。水平方向につたわっている「情報」が…。
つづけてみよう。

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モリアオガエルの卵塊を観た!

Dscf2354▼私は、昨日も「ウィルス」とは何物かを追いながら、「生命とは?」を仕事の合間あいまに考えていた。昼食後のあいまを利用して、あじさい公園にでかけた。KUMAさんから、鳴き声の情報をもらってからもうだいぶん日が経っている。「もう、産んでいるよ」という情報を昨日聞いて、「あっそうだ!」とあわてて出かけた。
 公園に近づくと、なにやら音がする。なんだろうと静かに近づくと鹿だ!白木蓮の咲いていた崖を、ピョンピョン(この表現がピッタリ)とかけあがる。
 目的の観察池に、ワクワク気分で近づくが、それらしいものはない。周囲のそれらしい場所にはない。それらしい鳴き声だけは聞こえてくる。あきらめかけて、最後にと思い、奥まった池に行ってみるとそれはあった。
▼昨年はオタマが水面へ落ちる瞬間まで観察することができなかった。今年こそは、ぜひそこまで観たいものである。それにしても、みごとな「生命の営み」であることか。ぴったりと、水面に落下するように、そのような場所に卵塊を産み付けている。陸に上がれば「乾燥」という敵がいる。それを水分保ち続ける特製の泡というシェルターで保護をする。たいしたものだ。下で待ち受けるイモリくんたちも、これまた此の「うわまえ」をはねようというわけだから、これまたすごい。「生命の営み」は多様であり、ただただ感心するばかりである。
Dscf2323▼帰ったら、継続観察中の「コウガイビル」が久しぶりに元気に動いていた。こちらだって負けてはいない。なんと言っても餌もなしに、半年以上生命をつないでいるのだから…。
いろんな「生命の営み」を観察していたら、またまたあいつにもどってきた。
あいつ、「ウィルス」だ、あいつはモリアオガエルやコウガイビルたちと同じ「生き物」なんだろうか。
「生き物」であるという人もいるし、いやそうではないという人もいる。
また、また振り出しにもどる。
「生命とは何か?」

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そもそも「ウィルス」とは?

▼「内なるアリストテレス」とのたたかいは、続けている。それが、どこまで授業化できるかは別にして、少しだけわかった気分にならせてくれるものがある。それなら、ガリレオ以前も以後の続いていることである。きわめてありふれた「運動」である。雨粒の落下運動である。雨粒は、地球の中心にひっぱり続けられる。途中でやめたということにはならない。でも、雨粒には「終末速度」というものがある。それをこうして(3c 空気抵抗のある運動(雨滴の落下))見せてもらうと、「見えない」力が見えてくると、納得はうんと進むのである。
科学とは、「見えないもの」を「見える」ようにする営みをさして言うのかもしれない。
▼今、どうしても「見える」ようにしたいものがある。そいつが「ウィルス」である。とんでもない状況である。私は、この「ウィルス」というものについて、何を知っているのだろう。少し整理をしておこう。
そもそも「ウィルス」とは、何もの!?
▼その問いの有効性を教えてくれる人がいた。それがあの「動的平衡」の福岡伸一さんだ。
科学技術振興機構が発行する雑誌に「Sience Window」というのがある。毎号とても、面白い特集で科学を学ぶ楽しさ紹介してくれている。その「Sience Window」が、昨年(2008)の12月号で「ウィルス それは何?どうつき合うか」という特集を組んでいる。わかりやすく、その歴史から対処法までわかりやすく解説している。今日を予見したかのような特集だ。今もオンラインで読める。一読に値する。
▼その冒頭だ。福岡伸一さんの文がある。

 ウィルスとはいったい何物なのか。これは生命とは何かという問いと同じなんです。(同誌p6)
 ここからはじめて、生命科学の歴史とウィルスのことについてわかりやすく語られている。それにしても、なんと示唆的なはじまりだ。
 ずっとずっと問い続けている「生命とは?」と同じとは…。
ならば、等身大の「科学」を駆使して、こいつの「正体」を可能なかぎり「見える」ものにしていこう。

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【授業】内なるアリストテレスとのたたかい

Dscf2292▼昨日は、なんか久しぶりの青空の「雲見」をした。青空はたかだか50㎞、雨を降らす雲はわずかに10㎞。これまでに私が生徒ともに獲得した「科学」ではそうだ。そこまで行ったわけではない。見たわけではない。でも科学の眼をもってして観ればそうなんだ。科学の面白さは、この肉眼で見えないものが、「科学の眼」では観ることができるところにある。それをさして、「科学的」と呼んでいる。
▼しかし、この私の「科学の眼」も、ときにくもることがある。自分でもそれが自覚できる。
授業はしばらく休止状態にあるが、わたしのなかでの【思考授業】はつづけておこう。
『極地方式入門-現代の科学教育』(高橋金三郎・細谷純著 国土社 1974.3.20初版)
「運動と力」の学習-わがアリストテレスたちとのたたかい- (中村敏弘 同書p181)
にふれるとこまでは、ここに書いた。まず納得いく話に次がある。引用させてもらう。

 力が作用していないか、していてもつりあっているときには、物体は等速度運動をする。この逆は、物体が等速度運動をしていたら、その物体に力が働いていないか、つりあっているかです。これは、慣性の法則の逆思考です。
 二つの場合のうち、特に後者を重要だと考えました。(同書 P186)

 すっと、読めばなんのことはない。アタリマエのことのようだ。
しかし、それは「フに落ちている」だろうか。
▼中村先生は、このあとあの手、この手で「力のつりあい→静止」「静止→力のつりあい」から脱出して、「等速運動→力のつりあい」を導こうとします。アリストテレス流を超えて、真の「慣性の法則」の理解をめざすわけです。
でも、それはなかなか一筋縄ではいきません。どうしても日常概念が顔をだします。ガリレオにはなれないんです。それは、他人事ではありません。
 私のなかにも、それが根深くあります。「力のつりあい→静止」はなかなかつぶれません。
▼うちなるアリストテレスとのたたかい。それが、大きな課題です。
現行の教科書だってちゃんと書いている。
『物体に力がはたらいていないときや、力がはたらいていてもそれらがつりあっているときは、止まっている物体はずっと止まっているし、動いている物体は等速直線運動を続ける。これを慣性の法則という。』
と。

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【Web更新5/17】09-20【運動とエネルギー】更新

Dscf2140 一隅に 刺激ふくみて 風薫る
 09/05/13 (水)撮影@安富

■楠田 純一の【理科の部屋】 週末更新のお知らせ

 アウトプットするためにインプットする。もっとも有効なインプットのためには、等身大のアウトプットが必要である。
それが、「情報は発信するところに集まる」だった。これは、これからも不易である。
 一週間の等身大アウトプットをふりかえってみる。次なる一週間のために…。

◆表紙画像集2009 校庭の樹木シリーズ サンショ
 校庭の東端の一隅にそれはある。朝日をあびて、ちかずくだけでその刺激的で、どこかなつかしさを含んだ香りがしてくる。花が咲いているよと知人の情報にあった。それならば、散歩の足を定期コースからのばしてみた。
それは、すでに花はすぎて、実の季節となっていた。

◆【運動とエネルギー】更新 「教えるとは教えられることである」これまで何度も何度も確認してきたことだ。ひょっとしたら、「教える」ことが最高の「学び」の方法なのかも知れない。授業をやっていると、そんな気がしてくる。400年前のガリレオが一挙に登場したり、忽然とアリストテレスが現れたりする。面白いものだ。

◆「コウガイビル」を追う 更新 自分の家の周りでみつけたクロイロコウガイビルが姿を消した。かつてC・ダーウィンが興味をもって観察したことが、目の前で起こった。もう一方のコウガイビル一号が生きのびているあいだに、すこしでも多くの「ふしぎ!?」を解き明かしたい。季節は、コウガイビル活躍の季節である。いろんな情報が入ってくるかも知れない、そんな期待もある。
 

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コウガイビルが消えた!?

▼無手勝流「科学する」を本望とする私には、「観察」というのは、とても重要な科学の方法である。簡単に言えば「観ている」だけである。「見る」を「観る」にできるだけ近づけようと努力しているだけ。
その私の科学の方法を駆使して「観察」をつつづけているものがある。それが、コウガイビル2匹である。
その観察の軌跡は「コウガイビルを追う」にまとめて行っている。
▼両方とも、ナイロン袋に入れて、餌は与えていない。ときどき水を入れ替えているだけ。よく見えるところにおいて気づいたら、「観察」する。デジカメに姿を撮る。これだけのことだ。
 最初に出会ったコウガイビル(一号)は、ついに半年を経過してしまった。まだ、健在である。生きている。
間違いないだろう。(昨日一日見ていないので)
Dscf2156▼問題は、後から出会ったクロイロコウガイビル(二号)だ。今年の3/23の朝、こいつと出会ったのである。
したがって飼い(?)だしてまだ、2ヶ月もたっていない。当然、一号よりも、二号の方が、あとまでつき合うことになると考えていた。生きているあいだに、「ふしぎ!?」をどこまで解けるか。それが勝負だと思っていた。
 ところが、なんとこのコウガイビル二号が、ナイロン袋のなかから消えたのである。
 気づいたのは一昨日のこと。私は動揺した。(゚o゚)ゲッ!! 確かにこの袋のなかにいたはず、袋の口をくくっている。そこから脱出するわけがない。あるのは、いくつかの黒い破片(体の一部、フン? これは前からあった。一号でもある、これがなにであるのかも解きたい謎だ。)と濁った水だけ。なんど見てもそうだ、それだけだ。
▼そのとき例のあの若きC・ダーウィンの「記録」を思いだしていた。

生活現象が終われば、一般に見る天然の変化の法則がここにも働いて、体は全体に柔らかくなり、液化する。そのはやさは、他に比べるものもないほどである。(「ピーグル号航海記 上」P54より)

 もしこれだとしたら、私はこの瞬間の「観察」を逃してしまったことになる。残念である。
Dscf2214何度も濁った水を見ているとなにか「白いモヤモヤ」としたものが見える。これは生命の残骸か。
「生命とはなんなの?」
福岡伸一ハカセ!「動的平衡」ってこれなの?
「ふしぎ!?」は深まるばかりだ。
まだ、半年生きのびているコウガイビル一号がいる。
今日の午後は、「観察」にでかけよう。

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【祝】理科ハウス一周年\(^O^)/

▼今日、5月16日は特別の日である。理科ハウスの誕生日である。「世界で一番小さな科学館」理科ハウスは、昨年の今日5月16日にスタートした。それから地球は自らは365回転し、太陽のまわりを一周してきた。おめでとうございます。\(^O^)/
▼この間に一度だけ私は、一度だけ理科ハウスを訪れた。昨年の夏休みの7月26日だった。そこには、なんとも言えないすばらしい空気が流れていた。見るもの、触らせてもらうものひとつひとつが感動であった。
 その「空気」をいちはやく感受し、楽しんでいる先客の子どもたちもいた。彼・彼女たちはもうそのときにすっかりホンモノを見分けていた訳だ。アタリマエのことだが、やっぱりあためて子どもたちのすごさに感動する。
あの「常連さん」たちは、どうしているだろうな。
▼「小さいこと」について、RikaTan5月号の「理科ハウス・開館からの一年」(P20)に森裕美子さん・山浦安曇さんが書いている。

 「小さいからこそできること」
 スペースが狭いという ことは、科学館にとっては致命的なマイナスでしょうか。理科ハウスはその狭さを逆手にとって、他ではできないやり方で科学体験の場を創出します。そのポイントは①何度でも足を運んでもらって、②なぞ解きを楽しめ、③科学コミュニケーションを深めることができる工夫です。

 すごい!!これぞ、「理科ハウス」流宣言だ。
さらには、「理科ハウスにはいつ来ても必ず前とちがうところがあります。」と言い切るのだ。
▼私たちは、この「理科ハウス」の歩みからなにを学べるだろう。私は、自分ページの表紙に「理科ハウス」の紹介にこう書いている。
◆ ここから「科学館」の歴史が変わる
  LiCa・HOUSe
 「世界でいちばん小さな科学館」=理科ハウス
 「理科ハウス」詣でからはじまる世界がある
これは実感である。まちがいなく「科学館」の歴史は変わるだろう。「等身大の科学」を科学する科学館こそが、これからは必要とされるのである。天下り式の「知」だけが提供される科学館はもう必要ない。必要なのは私の「ふしぎ!?」の謎解きをサポートする場だ。
 「理科ハウス」そのパイオニアとしての歴史を歩みはじめたのである。そこには、まちがいなく「これまでにない空気」が流れている。「理科ハウス」詣でからはじまる世界がきっとある。
こう書いていたら、ものすごく再詣でがしたくなってきた。日々更新の「理科ハウス」の今がすごくみたくなてきた。
Dscf2227▼外にでたら、一年前に「理科ハウス」オープン記念私的セレモニーとして発芽処理した「大賀ハス」が、一年後の元気に成長した姿をみせてくれていた。植えかえから、7週目の朝である。それを見ながら思うのだ、はじめて「理科ハウス」を訪れたときに思ったこと。
全国の理科室を「理科ハウス」化しよう。
それが、今、パイオニア「理科ハウス」から学ぶこと。

 

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【授業】「わがアリストテレスたちとのたたかい」

Dscf2163▼昨日、授業をすすめていた。シナリオどおりにすすめていた。「力と運動」に入っている。斜面をころがり落ちる力学台車の運動をとらえようとしている。直角定規(30°60°直角三角形)を使って、30°の斜面をやってみようと思って授業に先立って理科室でひとりやっていた。すごい!斜面だ。頭の中でイメージしているのと比べるすごい坂道だ。と、そんなこと思いながら、理科室の北側の窓の外を見ていた。なんと、そこに「斜面」があった。
なんでこんなことに驚くのだろう。毎日、見ている風景であり、毎日歩いている「坂道」なのに…。
これで何度ぐらいだろう。
ひょっとして、坂道ってたいした「道具」であったのでは…。
▼先行するクラスの方は、「斜面」→「自由落下」とやって、次は「力がはたらかないとき…」とすすみ等速直線運動とすすんでいく。自分で描くシナリオでもそうしている。
しかし、どうもモヤモヤとしたものがある。その正体がなんであるのか。私自身にもわかっていなかった。
昨夜、ちょっとゆっくりしていた。そして、みつけた。このモヤモヤの正体を明らかにする文章を。
▼それは、『極地方式入門-現代の科学教育』(高橋金三郎・細谷純著 国土社 1974.3.20初版)のなかにあった。
◎「七 「運動と力」の学習-わがアリストテレスたちとのたたかい- (中村敏弘 同書p181)
いつも【理科の部屋】でお世話になっている中村敏弘先生の文章だ。なんと40年近く前の文章だ。
さすが、中村先生だ。すごい実践記録だ。こんなのを「実践記録」というのだろう。圧倒される思いで読んだ。実に面白い!!これまでにも何回か読んでいるんだろうが、今回は特別である。
それは、今、そこを授業しているからだろう。
 モヤモヤの正体を明らかにしてくれた箇所は次にあった。  つづく
 

 

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【授業】『ここ宇宙ちがうぞ!』

▼昨日のこのblogで、はやい夏の訪れを報せてくれたヤモリくんの「吸盤」のことについて書いた。そしたら、津団さんから「吸盤」じゃないよと教えてくださった。そう言えばと、しばし、Webで調べてみた。その顕微鏡写真をみたり、ヤモリくんを9年間も「自由研究」でやった生徒の報告とかみつけることができた。なるほど、「吸盤」ではない。「大気圧」の利用ではなく、「分子間力」に行き着いた。地球の引力に抗しているのは「大気圧」ではなく、無数の「分子間力」。けっこう有名なことだとか…。私の安直なアタリマエがつぶれた、それが面白い。それにしても応答のある世界というのは楽しいものである。きっとそんな世界のなかから「科学」は生まれてきたのだろう。
▼授業の報告「三行レポ」風につづける。
「斜面を転がり落ちる力学台車の運動を記録タイマーでとらえる」実験から、つづいて「砂袋の自由落下の運動」をやった。教科書では「発展」として出ているが、これをやらなければ見えてこないことがあると思いやってみた。
「斜面」→「自由落下」、「自由落下」→「斜面」どちらがいいのだろう。
今回は、「斜面」→「自由落下」だ。
▼実験をはじめてそんなに時間がたっていなかった。
ひとりの男子生徒が、記録テープを尻尾のようにして落下する砂袋を見て…。
『やあ!何にもせんでも落ちるンや』(力を働かさなくても動くという意か?)
もうひとりのとなりの生徒が言った。
『アタリマエやん、ここ宇宙ちがうぞ!』
『無重力とちゃうわい!』
(゚o゚)ゲッ!!すごい!…私はこの会話聞いていただけ。でもすごく感動した。この切り返しは私にはできない。
そして、思った。
 私の頭にあるアタリマエとちがうアタリマエが、彼らの頭なかで育っているのかも知れないと。

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【授業】「落ちる」を科学する。

Dscf2129▼昨日も暑かった。日差しも厳しかった。暖かい大気と冷たい大気の入れ替え、それは「大気の物理学」つまり「天気の変化」をもたらす。これは、これまでの等身大の科学からある程度まで解き明かしてきたはず。そのとおりになってきた、夕方から雨だった。これは絵に描いた「夏の天気」のようだ。遅くから会議があったので、帰ったのも夜遅くになった。部屋に入ると、とんだやつも夏を報せてくれていた。窓ガラスにへばりくヤモリである。虫たちが光で集まってきている、その狩りにヤモリくんたちが登場だ。ずいぶんと肥えている。どこで、どのように冬を越し、春を迎え、今、夏を報せにやってきたのだろう。地球の引力に耐えるみごとな吸盤を駆使して狩りを続ける。
▼【授業】楽屋話をつづけよう。シナリオでは「自由落下」も記録タイマーでとらえるようにしている。準備室にこれまでに用意された落下物体である「砂袋」が不足している。夏のグランドに出て、砂袋の追加をする。そんなことをしながら、考えた「落ちる」という運動のことを、400年前のガリレオまで、「落ちる」は科学されなかったのだろうかと。そんなことあるわけない。
 昔のひとは、昔のひとなりに「落ちる」を認識し、科学していたはずだ。そして、納得していたはず、「ふしぎ!?」は不思議で認識され、それなりに解決し、折り合いをつけていたはず。
 ひょっとしたら、折り合いのつけかたは21世紀の現代まで引き継がれているかも知れない。そこのところが知りたい。
▼「落ちる物体」、それは何を見ただろう。樹から落ちるリンゴだろうか。
いや、そんなものではない。もっともっと日常的もの。
そうだ!!「雨だ!!」今降っている雨!
世の古今東西問わず、ガリレオの前にも、後にも「落ちる物体」だった。この「運動」をどのよに認識し、科学してきただろう。無性に知りたくなってきた。
 そう言えば、『ほくらはガリレオ』にも、これはあったはず。(P136)
▼「雨粒の速さ」をWeb検索するなかで、「雨粒の大きさと落下速度」ついてや、運動をシミュレーションしてくれる「3c 空気抵抗のある運動(雨滴の落下)」ページにであった。
 面白い!少しずつ「落ちる」運動を科学している気分になってきた。


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【授業】どこで日常的概念はくずれるのか

Dscf2081▼昨日も、暑かった。それは、もう「初夏」「梅雨」を通り越して、真夏のようであった。散策のスタート地点にあるケヤキも、それにあわせてすごいスピードで成長していっている。
つい最近まで、枝だけが青空にのびていただけなんてウソのようである。あれよあれよと言う間の出来事だ。そのケヤキの葉っぱに「虫えい」が今年もついている。見た目、ちょっと気持ち悪い存在だ、でもその「ふしぎ?」をたどっていくと、生命の営みの多様性に感動する。
▼もうひとつ辿り着きたい、出会いたいものがあった。KUMAさんからの情報では、もうモリアオガエルの鳴き声が聞こえるという。あの卵塊に出会いたかった。すきま時間をみつけて「アジサイ公園」にでかけた。残念ながらそれをみつけることはできなかったが、観察池のイモリくんたちは今年も元気だった。アジサイの葉ものびてきている、そのときは近いだろう。すこし繁く足を運ぶ必要がありそうだ。
▼当面の授業の一応のシナリオは描いているつもりでいる。でも、それはあくまで「シナリオ」であり、実際はどうなのか。やってみなければわからないところがある。
 授業は限られた時間のなかでやる必要がある。すべてをやれるわけではない。
いまやっているところは「力と運動」の関係だ。
○斜面ころがる力学台車の運動を記録タイマーでとらえる。
○自由落下する砂袋の運動を記録タイマーでとらえる。
○滑走するドライアイスの運動をストロボ写真でとらえる。
○「だるま落とし」で静止している物体の「慣性」をとらえる。
ならべてみるとこうだ。
▼アタリマエばかりだろうか。どこで「アタリマエ」(日常概念)がくずれて、「科学」概念が形成されるのだろう。
私は、かつて「すぐれた教材の原則(4)」
日常的概念をくだき、科学の基本的概念の形成に関わるもの
というのをあげた。今も、そのように思っている。
それでは、ここでは、それは何に相当するのだろう。
「力と運動」でアタリマエと思いこんでいるいることとは。
それを崩して、形成されるべき「科学の基本的概念」とは。
それは、いつ、どんな「教材」、「実験」で… 
シナリオを描いただけの私には、見えてきていない。

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【Web更新5/10】09-19【運動とエネルギー】他更新

Dscf2004新たの意 雨後のみどりの 教えたり
 09/05/8 (金)撮影@安富

■楠田純一の【理科の部屋】09-19 週末定例更新のお知らせ
 昨日は、Web更新と授業の「下ごしらえ」を午前中やって、午後が「草刈り」作業に出た。ともかく暑かった!
もう初夏を通り越して、夏だった。日曜日がWeb更新日ときめて週末更新をしだして、どのぐらい経つだろう。少なくとも、2009年になって19回目の更新だ。そのことが自分でいつでもわかるように今年になってからこのお知らせにナンバリングするようにした。これは、この一週間の情報発信の「足あと」であり、次なる一週間の展望でもある。

◆表紙画像2009 校庭の樹木シリーズ
 一週間のうちに、欠かすことのないテレビ番組がある。それが「NHK俳句」だ。どうしてもその時間帯に視ることできなければビデオに録っておいても視る。そうしなければ、一週間がはじまる(終わる)気がしないのだ。
その前に、「短歌」があるがどうも、ピタッとこない。いつか変わるかも知れないが、今はどうしても「俳句」なんだ。「俳句」の勉強をきちっとしてきたわけでもないし、昔から興味があったわけではない。
Web発信をしだしてからの話だ。それにしても「俳句」はいい。自然の営み切り取ってきて、五七五に凝縮して、無限の可能性をかたち(言葉)にする。どこか教材づくりに通ずるところがある。
 今回も、校庭の樹木シリーズである。職員室からも、いくつかの樹木がみえる。そのなかで、いちばん目立つのがこの樹である。雨上がりの初夏の太陽が照らす「みどり」は、「新鮮さ」「新しさ」の意味を教えてくれているようでもあった。

◆【運動とエネルギー】更新
 「授業」楽屋裏話を含めて、ここでの発信とリンクしてみた。
 いつものことながら、徐々に「ばっかり病」に向かっている。400年前との往復運動を繰り返している。
さて、今週は…。

◆「コウガイビル」を追う 更新 一匹目のコウガイビルは、今なお健在である。いわゆる「安定期」に入っているのかも知れない。
不思議が解決しているわけではない。早急になんとかしたいこともあるが…
今、やりたいと思っていること
○ 福岡伸一の「動的平衡」で、この「コウガイビル」の「ふしぎ!?」を解く試み
○ 今からが、コウガイビル出現のシーズン 目撃情報を集める
○ 「再生」「分化」「SE細胞」などとの関連から、次の単元【細胞と生殖】の学習構想につなげる。
○ 「これまでの研究」についての情報収集

◆新・私の教材試論 更新 まだ、まだ続けます。

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「ガリレオの相対性原理」とは

Dscf2035▼昨日は、「真夏日」であったという。大賀ハスの植え替えをしてから、ちょうど6週間がたった日だった。つまり、それから地球が42回転したのだ。その間にも薄氷がはった日も何日かあった。「真夏日」の感慨もひとしおである。ちょっとオーバーかな言い方かな。
 まだ忙しくて、買い込んだ「追い肥」を与えていない。でも元気だ、これまで気づかなかった葉も延びてきている。
今日こそ、「追い肥」をしておこう。タンポポの綿毛が2つ水面に浮かんでいた。
▼「運動」を考えている。授業の楽屋裏である。
大きな副タイトル「きみも21世紀のガリレオに」をあげているからであろうか、ガリレオのことが気になってしかたない。「たった400年前に」とするか、「400年も前に」するかによって全然ちがう。
その両方を行ったり、来たりしている。どちらにしろ、ここで大きなパラダイムシフトが起きている。これは、歴史的事実である。
 「運動」からめて「ガリレオの相対性原理」が気になってしかたない。
▼「相対性原理」は、アインシュタインの専売特許ではない。ガリレオにはじまるのである。
今朝もまた、私の家の側を電車が走った。走る電車の網棚の荷物はどこに落ちるのか。
もうちょっと大きな乗り物で考えてみよう。「地球号」という乗り物で、等速回転運動をしている。
…。
 今日は、半日(半回転するあいだ)は、「地球号」の上で、「ガリレオの相対原理」とは、を考えてみよう。
授業の「下ごしらえ」として…。

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「力の概念」の今

Dscf1990▼昨日の朝方は、まだ完全に雨があがっていなかった。恒例の朝の校庭散歩にでかけた。里山沿いの竹藪の近くの路で、筍をみつけた。それは、まさに「雨後の筍」であった。もうこの連休で旬は過ぎてしまっていたと思っていたが、ここではそうでなかった。大地のエネルギーをいっぱい吸収して、一挙に顔を出そうとしている。「雨後の筍」とは、それにしてもうまく言ったものだ。昔の人のすごい観察眼だ!
▼授業をすすめている。先行するクラスは、斜面に入った。斜面に力学台車を置いた。
そして聞いた。「この力学台車にはたらく力は…?」
「?(゚_。)?(。_゚)?」。
あれ唐突だったのかな。アタリマエのように考えてはいけないのかな。
そこで、私自身が知っておくべきことがあるのに気づいた。
▼ここで「力」と言った場合、生徒の頭の中には、「どんな力の概念が成立しているのか。」
それを知っておくべきだ。
 後になったが、翻って調べてみることにした。
まずは、前の「「記録タイマー」はどこから」のときに見た
■『理科教育史資料<第5巻理科教材史Ⅱー物理・化学教材史>』(板倉聖宣他編著 昭和62年 東京法令)を再びひっぱりだしてきた。
やっぱりあった。知りたいことにふれる記述が。
第4章「力の概念の導入」(P103)である。もう書き出しから納得である。

 1 「力」の概念の混乱からの脱却とその教育
 「力」はもともと日常的な概念でありながら、近代科学の成立によって初めて科学上の概念になったものである。同じ言葉でありながら、日常的に用いる「力」の概念と科学上の概念とは全く違うことも少なくない。(同書P103)

 と言う文章から初めて、明治以降の日本の理科教育のなかで「力の概念」がどう教えられてきたかの変遷が書いてある。
 はじめに驚く、ずっと今と同じように教えられてきたのではないのだ。いろんな歴史があっての今なんである。
このアタリマエがすごく新鮮である。
 次に、疑問が湧く。今はほんとうに「混乱からの脱却」ができているだろうか?と
▼今度は、現行の教科書を見なおしてみた。「力の概念」の変遷史をみたあとにみると、「なるほど!」という力の定義づけがなされている。
 では、今は、混乱はないのだろうか。ひとのことでは自分の頭の中は…(・_・)......ン?
 生徒の頭のなかにある「力の概念」ってどんなんだろう。益々知りたくなってきた。
▼今世間では、「○○力」と言うのがブームなようだ。教育の世界でも例外ではなさそうだ。
翻って考えてみよう。このときの「力」ってどんな概念から出てきているのだろう。
科学の「力の概念」とは、どこが同じで、どこがちがうのだろう。
でも、人間の頭の中で、そんなうまく使い分けなんかできるのかな。
次々と頭の中が「雨後の筍」になってきた。

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【授業】ガリレオになれるかな?

Dscf1963▼連休明けの昨日は雨だった。とくに午前中が激しかった。午後になって少し小降りになった。久しぶり、じっくりと「雲見」をした。その「雲見」はちょっとかわっている。雲発生の現場である。だいぶん見慣れてきたので、このときには、こんな感じで発生しているのを見ることができるかなと予想できるようになったが、最初はとても不思議だった。雨が降っている、もしくは止みかけている、そんなときに雲が盛んに発生しているのである。
なんとも、ダイナミックである。一斉に山火事でも起こり、煙が立ち上っているような感じと言えば近いのだろうか。でもちがう。さあっと消えていくさまはちがうな。「雲発生」実験なんかやる気がしなくなってしまう。この「雲見」をすれば充分だ。いや、ちがうか。
▼天気の学習をやっているときは、この学習を「大気の物理学」とよび、我々は大きな「大気の物理学実験室」
に住んでいる。だから、実験なんかしなくても、実験は日々刻々と繰り返されている。それをつぶさに観察しさえすれば見えてくるものがあると思った。
でも、やっぱりそれはちがうと思う。
自然は観察しているだけでは答えてくれない。
こちらが意図して問いかけなければ…。ときに、答えを予想しながら問いかけてみなければ
その問いかけの営みこそ「実験」とよんでいるんだろう。
▼先日、日本玩具博物館に車ででかるときの次男との会話。次男は、神奈川で仕事に就いて3年目かな。
私「今度、授業で運動力学やるねん。なんかあのあたりでようおぼえてる実験ないか」
次男「(・_・)......ン?、あんまりおぼえていることないな」
私「あの記録タイマーというやつはおぼえている」
次男「?(゚_。)?(。_゚)?」
私「なんで、おぼえているやろ、あのテープに点々をうって…」
といってもすぐさま思い出さない様子だ。ちょっとショックだ。
私「なんか、あのあたりでおぼえている実験ないか」
次男「そう言うたら、水ロケット飛ばしたん、おぼえとるな」
私「ああ、あれなちょっとなつかしいな。今は教科書にも出てるで」
次男「へー、そやけどあのあたりって面白ないところやな。なんか法則があって、それあてはめたら、こんなすごいことがわかるというのでないし、化学変化みたいにすごい変化がおこるわけでもないし…」
私「何言うとるねん。この世の中のものみんな動いとるやん その勉強言うたら 基本の基本や
面白いに決まっているやン ガリレオやあっこからはじまったんや」
次男「?(゚_。)?(。_゚)?、地味やしな」
Dscf1973▼どこかで同感している自分がいた。そしてその後に「運動力学教材」発掘を日本玩具博物館でふたりでやったのだ。
 昨日、理科準備室で「記録タイマー」のおいてあるそばで、ずいぶん古めかしい「記録タイマー」をみつけた。他のものは廃棄されたが、ひとつだけ残しておかれたのだろう。原理の説明のためだろうか。
少し感動した。「原理」がむき出しだ。今の方が便利でその本来の役割を正確にやってくれるだろう。
でも、それだけのこと!!ブラックボックス化しすぎている。
ガリレオの原初なる「ふしぎ!?」を解き明かす道具になっているだろうか。
いや、道具のこと語る前に
自分に問いかけよう。「私の思考は、ガリレオになれるかな。?」と。
【授業】の楽屋裏話のようなものだが、あえて【授業】とつけて記録しておこう。後ほどつないで考えてみるために・・・。


 

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新・私の教材試論(19)

Dscf1936▼長いと期待していた連休も終わってしまった。連休最終日の昨日の朝、ずっと曇り空をつくっていた雨がついにふった。そんなに長くはなかったが…。それが、大賀ハスを洗ってくれた。ちょっと「元気ないかな」と見えた大賀ハスが新鮮なみどりを取り返してくれた。同時に水面の油面のような膜は消えた。
あれは、いったいなんだったのだろう。元祖の阪本さんのアドバイスを受けて、固形の有機肥料を購入してきた。
油かす+骨粉のものを購入した。骨粉のリン酸を好むとはネットの情報だ。出かけてしまったので後日昼間いるときになるだろう。澄んできた水面にボウフラが活発に活躍している。もう完全に「ひとつの世界」ができてしまったようだ。
▼そうだなと思ったときに、書き綴っておこう。つながりのないことになってしまうが、それはあくまで「試論」だからといいわけしておいて。
 教科書をみながら、それぞれの実験・観察の起源をみるということを繰り返していると、
◆教材にも不易と流行がある。ことに気づく。
 さらには「定番」となっているものについては、それなりの訳があるように思う。多くの授業のフィルターをかけても、生き残ったのだから、当然、それなりの「すばらしさ」がある。
 しかし、どうしても訳がわからない「ガラクタ教材」も生き残っていることもある。
▼「ガラクタ」であるかどうかは誰が決めるのか。
それは、現場である。つまり、それを「教材」として学ぶ生徒と、それを持ち込む教師である。いよいよその時代が到来したのである。
 そこで思い出すのが、何度も引用させてもらっている森山和道さんの『ネットワークと教育』(もう15年近く前に書かれたもの、まずそれに驚く)のなかにある、次の一文だ。

そういう風に考えていくと、別に教育現場にコンピュータ・ネットワークなんか必要ないんじゃないか──そんな風に思えてくるかもしれない。しかし、それは違う。各人が全く違う目的で蓄積したデータベースや、全く違う目的のために造られたネットワークがシームレスに繋がっていくのが「ネットワーク時代」である。全く違う知識・思考方を、全世界規模で共有することができるのだ。

例えば、それぞれの教師が自分の授業ノート・データベースを構築し、公開する。それは巨大な授業のデータベースとなるだろう。それだけで、全く違う授業が生まれるかもしれない。

 ここでの「授業データベース」は、「教材データベース」と読み替えてもいいだろう。15年前のこの「可能性」の提言は、より現実味をおびてきている。しかし「可能性」は、現実ではない、あくまで「可能性」である。
▼現状はどうか。自分が教室に持ち込もうと「教材」をキーワードを指定してググってみればいい。すぐわかることだ、たいへんな時代になったものである。この時代の渦中にあることを知ることは、これからの教材研究ではじめになすことだろう。
 次になすべきことは、何か。
 これまでの教材史が教えてくれている。
「すぐれた教材は授業で生まれ、授業で進化する。」  のだ、だから自分の授業での事実を情報発信しよう。
『情報は発信するところに集まる』は今なお生きている鉄則!!


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日本玩具博物館に行った。

▼昨日、立夏、「こどもの日」。朝から職場に「コウガイビル」の顔を見に職場に行った。連休で、丸一日顔を見なかったのでちょっと心配していたが、「あいつ」は元気だった。ちょうど、背伸びの時間帯だったようだ。ちょっとほっとした。
 少しだけ仕事をして帰ってきた。
Dscf1928▼午後は、久しぶりに日本玩具博物館に次男と一緒にでかけた。車ででかければ、10分とかかるかかからないぐらいの近くにある。それなのにずいぶん「久しぶり」になってしまっている。さすが「こどもの日」ということもあるのだろうか。すごいにぎわいである。
▼今回訪問の目的は、【運動とエネルギー】の授業の「教材」入手だ。具体的には「だるま落とし」「逆立ちゴマ」などの入手である。これまでに持っていたものは、もう散逸してしまっているので。
 それにしても、ここにはたくさんの思い出がある。たくさんの「教材」に出会った場でもある。展示品をながめながら、その一こま一こまをつい思いだしていた。
▼「ソーラーバルーン」に凝っていたころ、48枚のゴミ袋を張り合わせたジャンボバルーンをつくって、ここではじまった「全国凧揚げ大会」にもって行って話題を読んだこともある。近くの休耕田を会場にしていた大会も、競馬場でやるようになって、今や姫路の大きなイベントとなっている。
Dscf1880▼「吹き上げ」というサイホンを利用した玩具は、夏の風物誌にピッタリだと思った。姫路のガラス細工職人の逸品だった。これは面白いと思った。科教協の「お楽しみ広場」に持ち込み全国に配布したのはいつのことだっただろうか。同じガラス職人の作品に「ポッペン」がある、これはガラスの弾性を示すすぐれた教材だと今でも思っている。
▼「浮いてこい」もここで初めてであったのではなかったかと思う。いろんな「浮沈子」がブームになる前だったと思う。そんなこんなで、私にとっては、教材の宝庫であったのだ。
それだけではなく、ここを会場に貸していただき、研修会をもったこともある。【理科の部屋】の伊笠さんと二人オフをやったときも、ここを案内させていただいた。(それからでもずいぶん経ってしまった。今回の訪問はそれ以来かな、ずいぶんの)
 そう考えるとここは、教材の宝庫であるばかりでなくコミュニケーションの拠点でもあったのだ。
今回を機に、また足繁く出かけたいと思う。
▼今回、ずいぶんいろんな「教材」になりそうおもちゃを購入させてもらった。
以前から思っている。「運動力学の教材はおもちゃにある」
すぐれたおもちゃは、きっとすぐれた「教材」になる可能性を秘めている。
「3K1Aの法則」「3Hの法則」もきっと成立するはず。

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どこまで生き延びるのか!?コウガイビル

▼端午の節句であり、立夏だ!!
ということは、「あいつ」と出会って半年ちかく(地球が太陽のまわりを半周する時間だ!)経つことになる。
「あいつ」とはじめて出会ったのは、11月14日の朝だった。名前すら知らなかった。
それ以来、あいつは何も食べていない。
なんでだ。生き物が何も食べないなんてありえない!はず
▼昨日は、夕方から雨がふるかもしれないという予報だったので、ほんと久しぶりに子どもたちと一緒に「畑仕事」をした。やるまでがなかなかその気になれないが、やりはじめると畑仕事はいい!
実にいい!生き物たちと会話をしながらの労働。誰かがいっていたが、『農業を必修にせよ』と。納得だ!!
ふだん手入れをしていないものだがから、草むらができてしまっている。それも楽しい、いろんな生き物のすみかとなっているのだ。でも、とんでもないものに出くわしてしまった。「マムシ」だ。こればっかりは、まあいいかこれも楽し!とはいかない。慌てて、持っていた備中で退治した。三角を攻撃した。それは、死んでしまった。
近くの川に葬った。そして「あいつ」のことを思い出した。
▼昨日一日は「あいつ」の顔を見ていない。「あいつ」はいきているだろうか。すごく気になって、これを書いている。「あいつ」=コウガイビルに対して、なんとも愛おしい感情すらもってきている。
 なんと言っても、半年ちかく一緒の空気を吸っているのだから。
「あいつ」は、いつまで生き延びるのだろう。!?
もう一度、若き日のC・ダーウィン(当時20代前半か)の観察記録を読んでみよう。

私は、南半球の各地で、陸生のプラナリアを十二種以上見た。ブァン ディーメンス ランド Van Dimen's Land
で得た若干の標本には、朽木を食わせて、約二ヶ月も生存をつづけさせた。一匹のプラナリアをだいたい相等しい大きさに横断すると、二週間のうちに双方とも完全な体となった。更に、片方が下面に開口を二つとも持ち、従って他の方は開口を一つも持たぬように切ってみた。施術後25日を経て、比較的完全に近かった方は、普通の標本と区別できぬまでになった。片方もその形がいちじるしく大きくなり、そして後端に近く柔らかい細胞集団のうちに透明な空間を生じ、その中には椀のような形の口の原基が明らかに認められた。しかし下面に裂口が開くには到らなかった。赤道に近づいたために、気温の上昇によって、すべての個体を殺すようなことがなかったならば、この最後の段階も構造を完成したに違いない。この実験はすでによく知られているところであるが、一方の個体の簡単な体の一端から、必須の器官がことごとく次ぎ次ぎに生ずるのを見るのは面白かった。プラナリア類を飼うのは極めてむずかしい。生活現象が終われば、一般に見る天然の変化の法則がここにも働いて、体は全体に柔らかくなり、液化する。そのはやさは、他に比べるものもないほどである。(「ピーグル号航海記 上」(岩波文庫)P54より)

これによれば、朽木のエサを与えて「二ヶ月も」と、ながく飼っているようにみている。
しかし、私の場合はちがう。なんもエサなど与えていないのである。それなのに半年も経とうとしているのである。
▼この不思議を解くために、いろいろ調べた結果。ちょっと奮発して
■『プラナリアの形態分化~基礎から遺伝子まで~』(手代木渉、渡辺憲二著、共立出版 1998.3.25)
を手に入れた。シロウトの私にしては、6500円は高価だ。
しかし、私には、それだけの価値のある本にみえてきた。
 なにしろ、きっちりと一つの章「14.陸産プラナリア,コウガイビル種類・生態並びに形態分化」(P259~)があるのだから。
 私の不思議に答えてくれる部分があった。
「14.9 飢餓と再生」(P275)にである。この章は牧野尚哉・白澤康子先生が書いておられる。
 コウガイビルの飼育では給餌が大切な要素となるが、餌に対しての反応は同一種内でも異なり積極的に摂取するグループとそうでもないものとがある。また長期間の飢餓に耐え、もとの体重の1/100に減少しても生存し続けることができる。このような生理的変化が、顕著な再生能をもつ本動物の器官形成にどのような影響を及ぼすのか、頭部再生の有無、形成所要時間、極性との関連について、採集直後の体重を100として、もとの30~40%に減少したグループを飢餓個体として実験を行った。
 なお、飢餓個体の設定は、採集された個体のうち、何としても餌を食べないものがあり、かなりの期間絶食にも耐えられるが、やがて死に至る。体重減少と生存期間の長短は一定ではないが、採取後減少の一途をたどる体重は、ある時点で平衡状態となり、これ以降急激に減少して死ぬものが多い。体重が安定をみせる状態を越えると個体は死を迎えることから、この安定期(もとの体重の30~40%)を飢餓状態と考えた。これらの飢餓グループと採集まもないものとを次の実験により比較した。(同書P276より)
 

Dscf1825▼ある程度、私の「ふしぎ!?」に答えてくれている。
それにしても、1/100の体重になっても生き続けるとは驚きである。
それでもやっぱり死ぬんだ!!これは間違いのないことなのだ。では、愛しのコウガイビルはいつ(・_・)......ン?
安定期はもう来ているのだろうか。
ここには、その「時間」のことが明確には書かれていない。もちろんわかっているのだろうが。
そこが知りたい。
C・ダーウインは、餌を与えても「2ヶ月も」と言った。
今は、このコウガイビルがいったいいつまで生き延びるのか。それが、知りたい。
Dscf1826▼この後、同論文では「再生」実験のことがくわしく報告されている。そして、この論文を『再生現象はもちろんのこと、生態的な問題についても未知の事柄が山積みしており、今後の研究材料としても充分な価値を有する動物であると思う』(同書P281)としめくくられている。
それから、少なくとも十年以上の年月が経過した。この研究はどこまで進んだのだろう。
「再生」のメカニズムも解き明かされてきたのだろうか。
それもぜひ知りたいものである。
「あいつ」が生きているあいだにやりたいこといっぱいだ。
この連休中も生き続けていてくれることを願うばかりだ。


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【Web更新5/3】09-18【運動とエネルギー】

Dscf1708 眼あげれば 誇りの庭に サツキかな
 09/04/29 (水)撮影@安富

■楠田 純一の【理科の部屋】週末定例更新のお知らせ

 今年に入って、18回目の定例更新のお知らせです。
Web更新のお知らせと同時に、私自身の一週間の「ふりかえり」と次の一週間の「展望」です。
今週は、ゴールデンウィーク中ということで、少しふだんできないようなことも「更新」しようと思ったが、それにはけっこうエネルギーがいるものである。それよりもいつもと同じこと繰り返そうと思う。
 こちらがそのつもりであっても、変化していくものがある。「更新」されてしまうものがある。それが本当の意味での「更新」だ。

◆表紙画像2009 校庭の樹木シリーズ サツキ
 サツキが目立つ、あまりにふれていて忘れてしまいそうな花。それにしてもみごとである。校庭に限らず
いたる家の庭に、道路にみごとである。これぞ校庭の花の「定番中の定番」だろうか。
 庭がその家の文化を象徴するものであるとするなら、校庭はその学校文化を象徴するものだろう。
今は、サツキと花水木が最も盛りだ。

◆【運動とエネルギー】更新 授業はまだまだ序章にすぎない。この後どんな展開にしていくのか、やりながら考えていくことにする。
授業の周辺のことも一緒に考えていくことにする。

◆「新・私の教材試論」 更新 こちらの方は、ほんと不定期更新だ。教材に関して気づいたこと、思ったことがあれば、ほとんど思いつきで更新をしていく。全然方向の定まらぬことばかり書いているようだが、こうしてならべてみると、なんか同じことばかり言っているような気もする。

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新・私の教材試論(18)

▼ほんと久しぶりに「ゆとり」の時間できた。そうすると少しふりかえってみる余裕がでてきた。
ここ数年、こんなときには必ずと言っていいほど思考が向かうところがある。
それは「整理」ということについてだ。私は、これまでの繰り返しの「失敗」と「挫折」から、ひとつの結論に達していたはず。
▼その結論を教えてくれたのは『佐藤可士和の超整理術』だった。ここに究極があると思った。
「整理のプロセス」をコピーして、それを眺めることから「仕事」をはじめるようにしたのは、ごく最近のような気がするが、それから一年が経過したようだ。
その一年前をふりかえるに、このblogで「2008年5月」を見てみた。
やっぱり便利だ。ここまで書き綴ってくると、こんな便利なものはない。いつでもどこでも綴られた「過去」にもどることができる。思考まで…。
去年の連休にもやっぱり同じようなこと考えていたんだ。
▼やっぱり続けておこう。私は、今二つの「試論」を続けている。「新・私の教材試論」「新・「自由研究」のすすめ試論」である。
いずれも、気ままに思いついたときに、書き続けていこうと思っているものだ。
「新・私の教材試論」の方は、期間限定で書きつづれるところまで綴るつもりだ。
▼「ピースピ」や「記録タイマー」の歴史をふりかえっているあいだに、教材について思うこと・気づくことがあった。目新しいことではないが、書き記しておく。
◆理科教育史は「教材」の歴史そのものである。
そんなことアタリマエのことで、多くの人が語ってきたことだ。
科学史と科学教育史が分かちがたく関連していることは、多くの人が認めるところでもある。「科学教育」つまり「理科教育」(ここの読み替えもこう単純でいいのかは疑問だが ソノハナシハ\(^^\) (/^^)/コッチニオイトイテ)にとって「科学史」に学ぶことの大切さは、多くの先達が強調してきた通りだ。
今なお、共感もできる、これからもそうだと思う。
▼移行期だ!!何十年ぶりかに、「理科」が「教室」にもどって来ようとする時代だ。
そんな時だからこそ、このアタリマエを今一度確認しておこう。
現行の教科書に記載されている「教材」ひとつひとつにも「歴史」があるのである。その「歴史」こそが、日本の理科教育史なんである。
 これからの教材開発のためにも、さらには未来の理科教育のためにも、
「教材」の起源を今一度をふりかえる「作業」は重要な意味をもつのである。
できれば、これを多くの人との「共同作業」としてやりたい。と強く思うのである。

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【授業】運動をとらえる

Dscf1757_2▼昨日も出かける前に、プチ「大賀池」にいった。植えかえ5週間の大賀ハスは順調に成長しているように見える。若干勢いがないように見えるのは、他の野山の「みどり」の勢いに圧倒されてしまったせいだろうか。このあたりで追い肥で応援してやる必要があるのだろうか。この連休あいだに検討してみよう。
▼連休に突入である。新年度からピッチをあげてやってきたこともここで一息だ。最初の峠かな。
こんなときは真壁仁の「峠」だ。
この峠は、そんなに高くないふりかえって見える風景は「一ヶ月」だけだ。

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい。
みちはこたえない。
みちはかぎりなくさそうばかりだ。

連休あいだは、しばし2009年度最初の小さな「峠」に佇んでみよう。
どんなみちが誘ってくるだろう。
Dscf1768▼その前に、少し先行しているクラスの授業を書きとめておこう。
「記録タイマー」という実験器の意味と使い方の次は、最初の「運動をとらえる」は、力学台車を床の上を走らせてみた。
記録タイマーで打点されたテープ、6打ごと(0.1秒ごと)に線を引き、番号をつけその順番にノートにはりつけていくという作業をした。
 ひとりずつ、自分のテープをつくるために実験を繰り返す。
力学台車を走らせているときは、まるでおもちゃで遊んでいる幼児のにぎやかさだ。
テープ切りの作業に入ると途端に静寂。
ときたま「あわーごっつうはやなっとる」などの声。
どうも「速さ」をとらえたのだということが見えてきたようだ。それができれば充分だ。
教科書に準じて、区間、移動距離、速さ(㎝/秒)の表づくりはそんなにむつかしい作業ではなかったようだ。


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【授業】「記録タイマー」を使って

▼今年度最初の月が終わってしまった。今日から五月である。
我らが寺田寅彦は言った。
「歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である」と。
その「歳時記」を春編から夏編に変えた。カレンダーも、五月に変えた。
感覚のレセプターも夏バージョンに切り替えてみよう。
何が見えてくるだろう。見えてきたら、またここに書き込んでみよう。
Dscf1756▼「記録タイマー」がどこからやってきたのかみているあいだに、実際に授業で使ってみるときがきた。
これを使っての授業、何回ぐらいやってきただろう。思い出しきれないぐらいだ。
でも、今回はちがうところがある。「記録タイマー」も進化していた。放電式にかわっていた。
「記録タイマー」の歴史をみているあいだに、この実験器具の画期的なところはどこにあるのか少しだけ見えたような気がする。
 それは、アタリマエのことだが、「記録」するというところにある。
▼アトウッドの実験器の画期的なところは、ガリレオ以来の「ふしぎ!?」を「スローモーションで見る」ところにあった。ところが、その煩雑にくらべてそれだけの納得を引き出すことはできなかった。そしてやがて、理科室から消えた。不幸なことに、実験そのものも消えてしまうことになる。
そして、「記録タイマー」の登場である。
 まだまだ究極の運動力学実験器とは言えないかもしれないが、「時間」を「記録」するという画期性がある。
▼力学台車を教卓で転がしてみる。この運動をとらえたい。どんな方法があるだろう。
そのひとつとして記録タイマーの登場だ。
我々は、「時間」を共通認識のもと使っている。
我々の地球号が一回転すれば一日 24時間だ。
その1/24が1時間
その1/60が1分
その1/60が1秒  だ。
こんなアタリマエをとりあえず真剣に話してみた。
この「記録タイマー」というやつは、
その1秒の1/60を「1点打」というかたちで記録する装置。
点と点のあいだに1/60秒が記録されている。
あいだ長ければ、それだけの距離移動しているのである。
…。
できるだけ、「機能」を中心にはじめにやっておいた。すごい器具だ!!と感動してみせた。
▼各班でひとりひとり「試技」をやってみた。
共感の声が聞こえてきた。
『(゚o゚)ゲッ!!ほんまや点がある』
『もっとはよひっぱたら…』

ひょっとしたら、「時間」を記録するなんて、驚異の行為なのかも知れない。
ここで時間は可視化されたのだ!
そうだ!
「記録タイマー」は「時間可視化装置!」なんだ。

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