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新・私の教材試論(19)

Dscf1936▼長いと期待していた連休も終わってしまった。連休最終日の昨日の朝、ずっと曇り空をつくっていた雨がついにふった。そんなに長くはなかったが…。それが、大賀ハスを洗ってくれた。ちょっと「元気ないかな」と見えた大賀ハスが新鮮なみどりを取り返してくれた。同時に水面の油面のような膜は消えた。
あれは、いったいなんだったのだろう。元祖の阪本さんのアドバイスを受けて、固形の有機肥料を購入してきた。
油かす+骨粉のものを購入した。骨粉のリン酸を好むとはネットの情報だ。出かけてしまったので後日昼間いるときになるだろう。澄んできた水面にボウフラが活発に活躍している。もう完全に「ひとつの世界」ができてしまったようだ。
▼そうだなと思ったときに、書き綴っておこう。つながりのないことになってしまうが、それはあくまで「試論」だからといいわけしておいて。
 教科書をみながら、それぞれの実験・観察の起源をみるということを繰り返していると、
◆教材にも不易と流行がある。ことに気づく。
 さらには「定番」となっているものについては、それなりの訳があるように思う。多くの授業のフィルターをかけても、生き残ったのだから、当然、それなりの「すばらしさ」がある。
 しかし、どうしても訳がわからない「ガラクタ教材」も生き残っていることもある。
▼「ガラクタ」であるかどうかは誰が決めるのか。
それは、現場である。つまり、それを「教材」として学ぶ生徒と、それを持ち込む教師である。いよいよその時代が到来したのである。
 そこで思い出すのが、何度も引用させてもらっている森山和道さんの『ネットワークと教育』(もう15年近く前に書かれたもの、まずそれに驚く)のなかにある、次の一文だ。

そういう風に考えていくと、別に教育現場にコンピュータ・ネットワークなんか必要ないんじゃないか──そんな風に思えてくるかもしれない。しかし、それは違う。各人が全く違う目的で蓄積したデータベースや、全く違う目的のために造られたネットワークがシームレスに繋がっていくのが「ネットワーク時代」である。全く違う知識・思考方を、全世界規模で共有することができるのだ。

例えば、それぞれの教師が自分の授業ノート・データベースを構築し、公開する。それは巨大な授業のデータベースとなるだろう。それだけで、全く違う授業が生まれるかもしれない。

 ここでの「授業データベース」は、「教材データベース」と読み替えてもいいだろう。15年前のこの「可能性」の提言は、より現実味をおびてきている。しかし「可能性」は、現実ではない、あくまで「可能性」である。
▼現状はどうか。自分が教室に持ち込もうと「教材」をキーワードを指定してググってみればいい。すぐわかることだ、たいへんな時代になったものである。この時代の渦中にあることを知ることは、これからの教材研究ではじめになすことだろう。
 次になすべきことは、何か。
 これまでの教材史が教えてくれている。
「すぐれた教材は授業で生まれ、授業で進化する。」  のだ、だから自分の授業での事実を情報発信しよう。
『情報は発信するところに集まる』は今なお生きている鉄則!!


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