動的平衡とコウガイビル
▼昨日も雨だった。雨が上がりかけたころ、新緑の山から雲が発生していた。この風景に再び感動する自分がいた。ことさらにめずらしい「風景」ではない。ずっと、ずっと自然が繰り返してきた「風景」である。
「ばっかり病」にすぐかかる私の意識から、雲が遠ざかりつつあるのか、数ヶ月前のこの風景に感動はうすれている。しかし、背景の変化で新鮮さがよみがえる瞬間がある。
背景の「山のみどり」に原因があるのだろう。新鮮なみどりが、雲が発生するアタリマエの風景を、新鮮な風景にしてくれている。
▼「きみも21世紀のガリレオに」の具体案をねらねばと思う。ところが、あいかわらず、あいつのことが気になってしかたない。コウガイビルだ。
【運動とエネルギー】の後に、考えている【細胞と生殖】でやればいいではないかと、自分をなだめてみるが、やっぱり気になってしかたない。そのときまで、あいつは、生きているだろうか。
「エサを与えなくても死なない」と知ったばかりである。しかし、それはにわかに信じがたいのである。
▼ずっと、ずっと問い続けている問い「生命はなにか?」
無手勝流のシロウト生物学で答えが出るような問いではない。それは百も承知である。でもなかでなかで、ある程度の納得を引き出したいのだ。
死んだかのふりをしていたコウガイビルが、再び活動しだして、頭の「コウガイ」部分の活発な動きをみていると
なにか。
『おまえにわかるかな』と謎かけをやられているような気分になる。
▼福岡伸一さんは、『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』等の著書なかで、繰り返し紹介している。
二十世紀の生命科学が到達したひとつの答えを
『生命とは何か?それは自己複製を行うシステムである。』
そして、動的平衡の概念が出てくる。
こうだ。
ここで改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。「生命とは動的平衡状態にあるシステムである」という回答である。(『動的平衡』p232)

帰ろうとしたら、コウガイビル第2号の方のナイロン袋がへんだった。破れたようだ、それもへんな破れ方だ。
いろんなことが予想される。またまたあらたな不思議がふくらむ。
袋を変えて一号と同じ種類のナイロン袋にした。
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