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新・私の教材試論(7)

Dscf8729▼はやくも小正月である。2009年の1/24は終わってしまったことになる。なぜか、心のなかに正体不明の「あせり」見えかくれする。
 これではいかん。光太郎の「牛」だ、あれを想起しよう。今年は、そうきめたはず…。
小正月の前夜は、「とんど」だ。今年は、久しぶりに市川べりに「とんど」に行った、正月飾りのものも燃やした。
この時期のこの行事、「七草粥」、「とんど」等々これらのなかに、「科学」を見ようとするのは、あまりにも独善的な妄想であろうか。
▼「科学」「理科」の話をつづける。
大竹三郎先生の「教材を仕上げるのだ」という表明だった。
さらに、「これから」に大いなるヒントを書いてくださっている。

やはり、自分の中に、それだけの必然性がなくてはなりません。そうした必然性は、果実の熟するのに似ていて、ある期間の熟成を待たないと、具体的に現れてこないようです。それもなにかのきっかけが必要です。わたしの場合実験改善の必然性も、新しい実験の発見も、そのきっかけは、授業における子どもの発言です。また、授業をした先生のつまずきです。(同書 P120より)

なんと説得力のある言い切りだろう。神髄の表明である。
数々の教材を開発してこられた大竹先生の真骨頂がここにある。
▼私は、「鉄と硫黄の化合実験」の教材開発史をふりかえりたくて、この本をひっぱり出して読むことになった。それが、とんだ収穫である。
「二十一世紀の原子論者!」を説いた大竹先生の真意を読んだ気がした。
しかし、ここまでだけだっだったら、私は、ここの「試論」としては書かなかっただろう。
実は、私としてはここまでが前段なんです。
私は、この本を少なくとも一回や二回は読んでいるだろう。アンダーラインも引いたりしているから、それなりに意識して読んだことがあるんだろうと思う。
 しかし、まったく読んでいなかった。自らひきつけ、自らの文脈のなかでは読んでいなかった。
そんな気になってなってきた。そこで、もう一度最初からこの本を読み直してみることにした。
▼そしたら、あったのだ。
どうして書き記しておきたことが。
「教材を仕上げる」道のりは遠く、けわしい。しかし、道のりの先にある喜びは大きい。
大先達は、この道に、道に迷ったときのために、『道標!』を立てて置いてくださった。
それは、<学校の実験の条件>として、
5つある。
① 授業の課題が実験の方法に明確に表現されていること
② 当該の学問から見て許容できる正確さをもつこと
③ 短時間でできること
④ 道具・装置、操作が簡単であること
⑤ 安全であること          
(同書P16より)
私は、これを読んだとき思わず膝を叩いた。
そして、驚いた。
「なんだもうここに書いてあったのか」とちょっとくやしい気分にもなった。
▼この『道標』には、解説板までついていた。(゚o゚)!!
この5条件を具体的に書かれている。
① 子どもたちの気持ちを捉えるものであること(たとえば、おもしろさ、意外さ、きれいなど)
② 目的がわかりやすいこと(先生の説明があって、実験がわかるのでなく、子ども自身の口から先生が期待する答えが出せる)
③ つぎへの発展に結びつくものであること(そのやり方や装置、問題が他の実験で広く使えるなど素材的であること、あるいは応用できること)
以上三つを考えています。(同書 P47より)

まいりました。感服です。
▼私は、この「新・私の教材試論」のはじめに、すぐれた教材の2つの法則を浅学無知を省みず提案している。
・3K(感動・簡単・きれい)1A(安全)の法則
・3H(ホット・本質的・ホンモノ)の法則
である。(参照 試論(2)
大先達の『道標』と見比べてみる。
みごとに重なってくる。
「なんだ、もう言われていたのか」という思いのつぎに
「やっぱり」という気持ちになり、そしてなにか「うれしさ」がにじみわいてきた。

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