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新・私の教材試論(3)

▼ はじめてみたもののちょっとご無沙汰だった「新・教材試論」を続ける。
ちよっと復習から
○新・私の教材試論(1)
では、これまで私の「教材論」をふりかえった。そして、なにをはじめたいのかを述べた。

○新・私の教材試論(2)
では、総論として、教材の2つの法則を勝手につくってしまった。(^^ゞポリポリ
・3K1Aの法則

・3Hの法則
である。
 総論からはじめたら、その各論について論じていくの筋道かも知れないが、ここでは必ずしもそうはしない。
いや、できないのである。
あくまで「試論」であるから、授業をやっていくなかでの「思いつき」「ひらめき」(そんなかっこいいものでもないが)
の自分のための覚え書きだ。
▼そんなこと書いていたら、なんか言い訳話のようになってしまう。いかん、いかん
Kからはじめる。
「理科は感動だ!」は「えーちゃん」こと小森栄治さんがよくおっしゃっていた言葉だ。
10年以上たって、この言葉がやっと実感を伴って、自分のなかに入ってくる。
「感動する」
ふだんの生活なかでも、よく使うことばである。ごくありふれた言葉だ。
これが、理科教育にとって最重要なキーワードとなる。
「感じて動く」のである。
「知る」でもない、「わかる」でもない。「感じる」のである。
「感じる」ために、「知」ろうとし、「わかろう」とするのである。
自らのセンサーを磨き、情報受容レセプターの感度をあげようとする。
そこに学ぶことの意義ある。
「動く」とは「変化すること」だ。
心が動く、
からだが動く、
見え方が動く、
すべての営みが動く
それは、「感じる」ことでそれまでとちがって、「変化する」のである。
その「教材」と出会う前と後では「変化する」のである
これは、これぐらいにしておこう。なんか「下手な作文」出だしみたいなっている。
▼ずいぶん前に書いた「私の教材論」でも

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すぐれた教材の原則(1)
 教師自身の自然観・感性をゆさぶるものであること。
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教師自身の思い入れ、惚れ込みようが、子供たちの「感動」をひきだす。まずは、教師自身が「面白い」「楽しい」と思えるものでなければならない。(教師自身が教えるのが、ワクワクするようなもの)

これは、きわめてあたりまえのことである。原則中の原則である。教師自身がつまらないと思いつつ、やる教材で、子供をひきつけることはできない。いかに名人と呼ばれる教師でも、これは無理である。

と書いている。やはり「感動」なんである。
まずは、教師自身の「感動」。
「感動するもの」
「感動に値するもの」それが、すぐれた教材の第一の必要条件である。
▼たとえば、教室を暗幕閉めて真っ暗にする。
暗幕に一箇所すき間をあける。そして、その穴の近くにスクリーンを持っていく。
なんと外の景色がスクリーン映るのである。
「感動である」。「知ること」でもない、「わかること」ともちがう「感動!!」
このときの感動を、私は30年以上の時間が流れたがわすれることができない。
「この感動を伝えたい。」
「こんな感動することもっと他にもあるんではないか」
それが、「教材」を意識しはじめた最初なのかも知れない。
▼この感動は、自分にはじまったことではない。
世の古今東西問わず、人々はそれにはじめて出会ったとき感動したのである。
不思議の謎解きをやりながら、それを発見し感動してきたのである。
感動は、次なる不思議・謎を生み、技術をつくりだしてきた。
人が、はじめてそれに出会ったときの「感動」、それは生徒たちにも共有させたい。
伝えたたい。
 それが「すぐれた教材」になるのではないか。
大いなるヒントが古今東西の科学史・技術史のなかに埋もれているのではないか。

これが、書きたくてこの(3)をはじめたのに…。寄り道しすぎかな。
<つづく>

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