「頭骨」コレクションの思い出-2
私たちは、自然の流れの前に跪く以外にそして生命のありようを記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からずっと自明のことだったのだ。
これは、あの名著『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著 講談社)のエピローグの結びの一文である。
この一文になぞって言うならば
私たちは、「生命のありよう」を記述する以外に、感動することができる。
それは、現代進行形の「生命の営み」に対してはもちろんのこと、「生命の営み」の跡を残したものについても同様である。そのひとつが「頭骨」である。
「(゚o゚)ゲッ!! うまいことできとるな」
「なんとも みごとやな」
「美しい!!」 と。
「頭骨」は、「生命の営み」への感動を呼び覚ましてくれるすぐれた「教材」なのである。
▼私の「頭骨」コレクションの思い出をつづける。
ひとりでは、なかなか勇気のいる「頭骨標本づくり」を、仲間と一緒にやっていた時期がある。それが「イノシシ学会」である。今から考えると、みごとなネーミングである。猪鍋をつつきながら、理科の授業のこと・教材のことを語り合い、学び合う。それと同時進行で、外では用意された大鍋で、イノシシ、鹿、クマなどの頭骨をグツグツと炊くのである。それは、夜を徹して行われた。火の当番はかわり番子。
一夜あけてみれば、そこにはよく「煮込まれたお宝」があった。ここまで、煮込むと肉もはがれやすくなっている。
お宝の山である。誰もがお目当てがある。しかし、それは限られている、だからそれは「くじ引き」だ。うまく「お目当て」があたるときもあるし、そうでないこともある。
▼そこからが、また仕事である。肉をはがす作業である。たわし、歯ブラシ、爪楊枝、ピンセット、割り箸等々いろいろな小道具をつかいながらワイワイと言いながら剥がしていくのである。その作業は、私たちにとって「観察」のときであり、「教材研究」の時間でもあった。
誰もが異口同音に「感動」の言葉が発せられる。
「へー、そうなん。うまいことできとるな」「きれいに出来てるな」「この軟骨が働きが…」
一般には、「草食」の肉は剥がれにくい。そんなこともやっているなかでわかってくること。
▼あれから、ずいぶんと歳月が流れた。
あの「頭骨」たちは、今、どこの授業で「生きかえっている」のだろうか。
今も、多くの子どもたちに「生命の営み」の感動を与えるのに一役かっているだろうか。
さっき、外に出たら、オリオン近くに流れ星をみた。
| 固定リンク
コメント