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【Web更新3/30】校庭の樹木シリーズ終了

03300020 惜別の なみだ桜や ほころびて
 08/03/30 (日)撮影@香寺
楠田純一の【理科の部屋】 本年度最後の定例更新のお知らせです。
 まだ「引っ越し」が出来ていないので、何とか旧パソコンをなだめすかしながらの更新です。それとて、表紙画像のみの更新ですが、本年度最後の「定例更新」ということで、少しは意味があるかなと思い報告しておきます。
表紙画像 校庭の樹木シリーズ サクラで終了
昨年の5月以来、毎週に一回、校庭の樹木をとりあげて画像と一句で表紙にしてきた「校庭の樹木」シリーズですが、一応今回で終了とします。ほぼ一年間にわたりる取り組みだったのですが、あらためて校庭の樹木を見直すきっかけになり、とても楽しかったです。同じ樹木でも、季節によりまったくちがった顔を見せてくれるのが、新鮮な驚きでした。
◇ 校庭の アカシアゆれて 白球追う
    07/05/12(土)撮影@香寺
からはじまり、
◇ 惜別の なみだ桜や ほころびて
    08/03/30 (日)撮影@香寺
まで、校庭の樹木には、樹木には、いろんな人の思いが込められていることを、再発見しました。それが、植物観察を越えて面白かったです。これにていったんこのシリーズは、とじることにします。
樹木についての勉強は続けたいと思っています。
長いあいだ つきあっていただいた方々に感謝します。深謝。

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シンプル イズ ベスト

▼残された時間が、さらに限られてきた。「整理」を続ける日々がつづく、究極の整理が、「捨てる」ことである。こんな原則に今さらのごとく気づきはじめている。
いろんなものを削ぎ落としていくと、ものの本質が見え始める。
▼今日は、「こちらがわ」に置くデータを整理してみようと思う。できるだけ、シンプルなかたちにしたいと思う。
いろんなものがゴチャ、ゴチャあるのは、「こちがわ」のアナログと同じである。
シンプルにするためのデジタルも、意識しておかねばいつのまにやら、混沌としてしまっているのである。
よりアクティブにするためには
「シンプル イズ ベスト」

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めざせ「手ぶらの知的生産」

▼あいかわらず、いろいろと、捨てながら「整理」をしている。「整理」が目的ではない、そう自分に言いかけさせながらの仕事だ。でも、やっぱり残してしまうのである。「こんなのもったいない」「また、いつか使うことがあるだろう」それは幻想だ。そんなもの使うことなんてないのだ。残された時間がいくらでもあるわけでない。なにより考える時間がもったいない。わかっているが優柔不断な私は、立ち止まってしまうのである。ゴミ箱いきの手をとめてしまうのである。なんともなさけない話だ。そこで、あれを読もうと思った。
▼『ウェブ時代をゆく』で梅田望夫は、今の時代を「知のゴールデンエイジ」と呼び、「知」を志向する人間にとっては、人類が出会ったことないような、すばらしい時代と力説している。
そして、今は「手ぶらの知的生産」が可能な時代と言っている。次のように

(1) 「しらべ、読み、考える」対象となる素材が、ウェブ上に無償でほぼ無限ともいえるほどに溢れ、それが今後さらに充実していく。

(2) 「知的生産の道具」(整理する道具、書く道具)が飛躍的に進化したとともに、クラウド・コンピューティング(第一章)の進展により「手ぶらの知的環境」が私たちにもたらされ、誰にも知的生産の可能性が広がろうとしている。

(3) 「知的生産の成果」(書いたもの)を誰もが自由に世界中に向けて公開(発表)し、その成果を多くの人と共有できるようになった 。

(4) 「知的生産の成果」の公開と共有をきっかけに、知の志向性を同じくする人々と知り合い、知をめぐる自由な対話が行える新しい環境が生まれ、それを通して個が成長する可能性も同時に開かれた。

(5) 「知的生産の成果」をウェブ上に公開する道具(その初期がブログ)を得たことでそれが個人にとっての信用創造装置としても機能し、個人が組織に頼らずとも「知的生産の成果」と「飯を食う」可能性を結びつけた。

(6) そんな諸々の個人の「知的生産」活動のプロセスがオープンに公開されることはネット空間を知的に豊穣なものとすることに寄与し、知らず知らずのうちにそれが社会貢献活動となっていく (例:教育効果などを生む)。

(7) 脳という物理的制約の中に閉じ込められてきた個人の経験や思考が他の人たちとゆるやかに結びつき始めることでたちあがる「群集の叡智」というフロンティアが生まれた。(p147)

みごとである。これからの道標である。すばらしい時代の読みとりである。
そうなんだ、もうこの時代にあっては、「手ぶら」でいいのである。
▼実は、もう捨てることに躊躇する必要はないのである。「手ぶら」でいいのである、それで充分に「知的生産」はできるのである。めざそう「手ぶらの知的生産」!!
「もったいない」のは、時間だ。どんどん捨てよう。脳だって、そうすることによって、よりアクティブになれるのである。

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【理科の部屋】4@folomyまもなく一年

【理科の部屋】4@folomyがスタートしてまもなく一年が経過しようとしている。folomyは、フォーラム@niftyの終了にともない、それまでのフォーラムで構築してきたネットワークを生かしてのSNSとしてスタートした。いまでは、いろんなSNSがあるので、目新しい存在であるわけではない。でも、ながいあいだ「フォーラム」に慣れ親しんできた私には、うれしいSNSである。
▼【理科の部屋】4@folomyも、一年がたち話題もいろんなトピックがたちあがり、豊かな展開になってきている。画像や動画も登場して、情報表現もより豊かになってきている。これからがますます楽しみである。
これまでの【理科の部屋】ふうに言うなら こうなるだろうか。

日本の理科教育情報発信基地
             
 【理科の部屋】4へようこそ        
                                
  (^o^)/ あなたもここで情報発信者に\(^o^)   

 情報は、発信されるところに集まる。

 あなたがノックされるところがドアです。

 時空を超えて響きあい・学びあい・高めあう世界を

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究極の「知的生産の道具」

▼毎日の忙しさで、日付も曜日も忘れてしまいそうである。とくに、春休みに入ってからは、時間のくぎりをつけにくくなってしまった。昨夜も遅く帰った。妻に、「何の日」と聞かれても思い出せなくて怒られてしまった。30年目の結婚記念日だったのだ。申し訳ない気持ちになる。
▼そんな多忙のなかで、このblogを書き続けることにどんな意味があるのだろう。ひとつの「こだわり」ができてしまっている。これが、私自身の「存在証明」のようになりつつあるような気がする。
「記憶せずに記録せよ」は梅棹が『知的生産の技術』で言ったことばだ。今の私には、このblogが記録する道具となっている。徹底的に、すべてを記録することよって、生産に結びついていくと確信したい。
▼「知的生産」とblogで思い出すのは、梅田望夫が『ウェブ進化論』での
 

最近は、ブログこそが、自分にとっての究極の「知的生産の道具」かもしれないと感じ始めている。(『ウェブ進化論』P165)

このことばである。まったく同感である。
紆余曲折をへながら、ここにたどりついたという感である。
いかなる状況のもとでも、これを書き続けることによって、「生産」につながる生活をしたいものである。

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知恵の集積回路はまだ遠く

▼ 私たち、今まさに「知識の集積回路」を手に入れようとしているのかも知れない。
しかし、いまなお「知恵の集積回路」は遠いのである。

■p.180
私たちは、グーグルを「世界をより良い場所にするための機関」
にしたいと切望している。── ラリー・ページ
We aspire to make Google an institution that makes the world a better place.──Larry Page
Letter from the founders,
『ウェブ時代 5つの定理』より


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それでも、地球は回る

時間の経過がわからなくなるときがある。
それでも、確実に
地球は一日に一回 自転する
その地球に住まいしているのだから
誰もが その地球号の乗員である
いかなる意志や意図とは関係なく
一日に一回 回るのである
これは 厳然たる 事実である
そして 365回 回転している あいだに
一回 太陽のまわりを 回り
季節はめぐる
この事実を 自覚しているか いなかで
営みのなにかが かわるのかも

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「時間の財布」

▼ここのところ毎日が、多忙の極致である。「やらなければいけないこと」と「時間」のおりあいがつかないのである。こんなときにかぎって旧愛機のノートパソコンは、メモリー不足で絶叫し言うことを聞いてくれないし・・・。
こんなとき、またあの『定理』が頭をよぎるのである。

■p.201
「ニューノーマル」時代における成功とは、タイムマネジメントに尽きる。
この時代における通貨は、時間なのである。── ロジャー・マクナミー
Success in the New Normal is all about time management. Time is the currency of this age. ──Roger McNamee
How to Succeed in the New Normal, SandHill.com, May 23 2005
参考  梅田望夫著『ウェブの時代 5つの定理』(文藝春秋)より


▼とりあえずは、楠田純一の【理科の部屋】週末定例更新はおあずけである。表紙画像だけは、撮っておいたので後日ということにする。
問題は、メールだ@niftyのメールを読み書きできないが、これは当分一時的にgmailだけで対応することにする。
メールをいただく場合は、そのようにお願いします。mixiのメッセージでもいいです。

しばらくblogでのコメントも遅れて失礼なことになるかもしれないがお許しください。
こんなblogを書く時間があったら、「やるべきこと」の方に時間を回したらという考えもあるが、この時間だけは、すべてに優先させてとりたい。この時間こそが、時間を創造することになると確信しているから。
▼どうも、私はついつい「時間の財布」を意識しなすぎるようだ。
時間は、けっして無限にあるわけではない。
財布のなかみを意識せずに、高価な買い物ができないように、財布のなかみの「時間」と相談しながら、買い物をしなければならない。一日は24時間、一年は365日 これはみんな共通した財布の「なかみ」だ。
 今日は、修了式だ。平成19年度しめくくりの日。より「時間の財布」を意識する日にしよう。

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時代と季節を読み解く『ウェブ時代 5つの定理』

▼この本に凝ってしまいそうである。昨日にひきつづきであるが、『ウェブ時代 5つの定理』である。私は、この度の『知的生産の技術』を読むで、自らの文脈で本を読むことの重要性を再認識したところである。そのことを実践するのに格好の対象となるような本をみつけた。それが、この本である。
著者梅田自身も講演のなかで次のように語っている。

この本は手元に置いて、何年かに一度でもぜひ開いてほしい。そのときどきのベスト10を選んでみてください。まったく違った言葉を選んでいる新しい自分を発見するはずです。
そのときのあなたを映し出す鏡となり、そのときどきに勇気を与えてくれると思います。
そんな座右の一冊としてこの本を長く使っていただけたら、大変嬉しく思います。

▼時代と自らの季節を読み解く『定理』がここにある。これは、「読む」と言うより、「引く」と表現したほうが、その営みにふさわしいのかも知れない。そこに書かれているのは「定理」なんだから。自らの必要性に応じて辞書を引くように、そのときにピッタリの「定理」を見つけだし、その定理を使って、その課題を解決していけばよい。
▼2008.3.23現在、今朝の私が、この本を引いてみよう。
ぴったりときたものいくつかあげてみよう。
◆今の気持ちについて
■p.256
君たちの時間は限られている。
その時間を、他の誰かの人生を生きることで無駄遣いしてはいけない。
ドグマにとらわれてはいけない。
それでは他人の思考の結果とともに生きることになる。
他人の意見の雑音で、自分の内なる声をき消してはいけない。
最も重要なことは、君たちの心や直感に従う勇気を持つことだ。
心や直感は、君たちが本当になりたいものが何かを、
もうとうの昔に知っているものだ。
だからそれ以外のことは全て二の次でいい。── スティーブ・ジョブズ
Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma─which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others・opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.──Steve Jobs
Steve Job's Commencement address at Stanford University, June 12 2005

◆今の私の「季節」について

■p.98
世界を変えるものも、常に小さく始まる。
理想のプロジェクトチームは、会議もせず、
ランチを取るだけで進んでいく。チームの人数は、
ランチテーブルを囲めるだけに限るべきだ。── ビル・ジョイ
World-changing things always start small. The ideal project is one where people don't have meetings, they have lunch. The size of the team should be the size of the lunch table.
──Bill Joy
Hope Is a Lousy Defense, Wired, December 2003

■p.73 不動産における三つの重要な要素は、 「場所、場所、場所」とよく言われる。 同じように、スタートアップの形成で重要なのは、 「人、人、人」である。── ゴードン・ベル It is often said that the three most important factors in real estate are “location, location, and location.”Likewise, the three most important factors in the formation of start-up companies are “people, people, and people.”──Gordon Bell Gordon Bell, High-Tech Ventures, Addison-Wesley Publishing Company Inc., 1991

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『ウェブ時代 5つの定理』

▼いろんなことを決断をせまられる季節である。人間は欲張りだから、いくつもの道を選ぼうとする。でも生きる道はひとつしかない。とりわけな不器用な私などは、このようなときに迷うのである。迷うことばかりに時間を費やしてしまって・・・。
迷ったときに人はどうするか。自分の生きてきた道で体験し失敗から得た教訓によって、次なる「一本道」を選ぶのである。梅田望夫のいうところの「けものみち」がこれかも知れないと思いつつ。
▼ここに時代の未来を切り拓く人々の言葉群がある。それは、Webの時代を開拓してきた人々の言葉である。このような人々のことをビョナリーというらしい。
『ウェブ時代 5つの定理』(梅田望夫著 文芸春秋 2008.3)
この時代の「道標」がここにある。
どれをとっても示唆に富む道標である。
言葉群をこのリンク集で読めるのもありがたい。ひとつだけとりあげてみよう。

■p.83
チームワークは木のようなもの。
コミュニケーションが幹の部分を形成し、
根っこの部分には、お互いの尊敬と
共通の目標の認識がなくてはならない。── ゴードン・ベル
Teamwork is like a tree, with communication as its trunk and with mutual respect and recognition of common goals as its major root structures.──Gordon Bell

 道に迷ったら、この「道標」群を参照してみよう。

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ある若者との出会い

▼その若者は、約束どおり春分の日の昨日13時に学校にあらわれた。この若者は、前にこのblogにも書いたが、本校の卒業生Iの後輩である。大学の後輩でもあり、同時に職場でも後輩であり、部下であるという。経緯を繰り返すと、20年近く前の卒業生のIは、中学校時代に科学部に所属しており、部長をしていた。私は、そのときの顧問である。この度、教え子のIは、これまで勤務していた職場をかわることになった。ついては、これまで一緒に働いていたスタッフが、「送別会」をもようすことになった。そこで、Iのこれまで歩んできたなかで、思い出に残る人物に取材してビデオレターを制作して、それをプレゼントしようという企画である。その思い出に残る人物のひとりとして、私を選んでいただいということである。光栄である、教師冥利に尽きるというものである。
▼私は、この話を、Sさんからメールをいだいて聞いたとき、感動してしまった。2つのことでである。ひとつは、私をどのようにして、私を捜し出したかである。Iは今もときどき、後輩・同僚に、中学校時代にやった、「教室全体のピンホールカメラ」などの実験の話をするらしい。うれしい限りである。そこで、後輩のSさんは、それこそネットの時代である。ピンホールカメラ等の話をたよりに検索されたようだ、そして私のWebページ、blogをみつけられたようだ。そして「あなたが当事者ですか」というメールにいたったようである。Iに秘密裡にこおこなっておられたので、
名前では、Iのときどきの話だけがたよりだったようだ。Webの時代を象徴するような話だ。
▼もうひとつ感動することは、このSさんのことだ。名古屋から、ここまで時間をさいて、私を訪ねてきてくださったということについてである。それは、同時にSさんをして、そんな行動までとらせたIの構築してきたヒューマン・ネットワークのすばらしさに対しての感動であった。きっと、職場の人間関係を大切にしながら、仕事をすすめているからこそ、こんなプロジェクトがもちあがったものだろう。
▼現れた若者、Sさんは素晴らしい技術者であった。本来Iの中学校時代の思い出を語り、彼へのメッセージを語るのが、本意だったが、この素晴らしい若者との出会いに喜んでしまい、いつか自分のことばかりをしゃべってしまったような気がする。
 「頭骨標本づくり」の話からはじまり、「ピンホールカメラのこと」「ファラデーの『ロウソクの科学』のこと」「水から水素を取り出す実験」「ホームページのこと」「パソコン通信の話」「Web2.0時代のこと」「柳田國男のこと」「柳田邦夫のこと」等々、とどめなく脈略もなく私はしゃべりまくった。それをいやな顔もせず、聞いてくれるだけでなく、それに相づちを打ち、応答してくれるSさんは、すごかった。一時間半はまたたく間にたってしまっていた。
最後に、たまたまちょうどポケットに入っていた「非接触温度計」をとりだして、「最近はこんなことに凝っていると紹介しておいてください」と話をしたとき、つかさず「それ、私も使ったことあります」とおっしゃるのには驚嘆してしまった。学生時代に「鉄づくり」の研究をしたとき、融けた鉄の温度を測るのに使ったことがあるというのには驚くばかりであった。かつて科学館の学芸員をめざしたこともあるという。今度お会いするときには、Sさんの話をいっぱい聞きたいと思った。
▼とてもうれしい企画がきっかけの、この若き技術者Sさんとの出会いから、私は次世代を生きる若者のエネルギーをいっぱい「おすそ分け」してもらったような気がする。今日は、卒業生Iさんに、このプレゼント企画のお披露目があるという。
次代を生きる若者たちに幸あれ!!
( ^_^)/□☆□\(^_^ )カンパ-イ!
そして、ときどき私たちにも「おすそ分け」をください。

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『日本ヒガンバナ学会』発足から半年

▼昔から「暑さ寒さも彼岸まで」と、言われる。すごし、願望も含みながら、昔の人はうまくいったものだ。今日は、春の彼岸の中日だ。今朝は、昨夜からのちょっと強い風をともなった雨がふっている。天気のツボと、天気図をみてみる。すこし、この冷たい強い風の「意味」がわかるような気になった。
▼さて、「彼岸」と言えば、「ヒガンバナ」だ。先日、ある知人から驚くべき声かけを受けた。「また、お彼岸が近づいてきているから、またヒガンバナでたいへんやな」と。
最初は、何のことを話されているのかわからなかった。怪訝そうな顔をしていると、説明してくれたった。その説明によると。私がここ数年来ヒガンバナに凝っていることを知っておられて、お彼岸が近づくと、ヒガンバナの写真を撮ったりするのに大忙しになるだろう、ということだという。そこまではいい。さらに続けてが驚くべきだ。その知人は、春のお彼岸にも、ヒガンバナが咲くと思って、また忙しくなるのだろうというのである。
 田舎育ちだが、もう都会に住まわれるようになって長年が経つから、やもえぬことかも知れないが、ヒガンバナについての認識はその程度のものかと驚くと同時に残念でもあった。
03200003▼えらそうなことは、私も言えたものではない。昨年の秋のお彼岸の中日にたちあげた『日本ヒガンバナ学会』は、開店休業状態になっている。この時期にこそ、リンク集なり、これまでに行われてきた「ヒガンバナ研究」の論文を読んだりしたいと思っていたが、それも思うだけになってしまっている。メンバーは、現在19人だ。書き込みをしていただいた方々にも、失礼してしまっていることがたくさんある。mixiで、これからの時代の理想の『学会』をつくるという夢を持ってのスタートだったが、歩みはそう直線的なものではなかった。
まあ、いいか。
ゆっくり歩むものは、遠くへいく。でいこうと思う。
まずは、楽しみながらメンバー50人をめざしたいな。
▼門先の定点観測地のヒガンバナは、春の彼岸をむかえて、枯れはじめている。冬の光をたっぷりうけて、ひとりじめしていた光が、そうはできなくなってしまったからであろうか。雨がやんで、明るくなったら写真をとってアップしようと思う。

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【Web更新3/19】緊急更新!!

03150019 朱き実 太古の生命継ぎ ここにあり
 08/03/15 (土)撮影@香寺

楠田純一の【理科の部屋】の緊急更新(^_^;)のお知らせです。このblogでも書いて通り、いつもWebページの更新をしているWindows98ののったわが愛機のノートが、どうやら寿命のようです。定例更新もままならぬ、ピンチです。次の代のノートに「引っ越し」を検討しているところです。そんな状況ですので、今回は、緊急の表紙画像のみの更新です。

◆表紙画像 校庭の樹木シリーズ ソテツ
朱き実 太古の生命継ぎ ここにあり
  08/03/15 (土)撮影@香寺
 校庭の樹木シリーズも、ほんと長くやり続けています。もう終わりかなと思っています。校舎の南玄関にソテツは、悠久の太古の世界をイメージさせてくれます。朱い実(もちろん正確には実ではなく種子)は、太古から生命のつながりを象徴するかのようです。これを使っての「裸子植物」の授業は、ずいぶん昔の思い出です。
ここから、デンプンを採る試みもやったことがありました。剪定で、むき出しになった朱い実は、いろんなことを思いださせてくれます。

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「ホシノヒトミ」って 誰いちばんはじめに

03170010▼学校で少し「仕事」につかれたので、デジカメをもって近くを散歩してみた。春の野にでて一番さきに目につくのは「ホシノヒトミ」である。ホトケノザ、ナズナ等々と色づきつつある野は、本格的な春の訪れを教えてくれている。心も陽気になってくる。
▼ところで、このホシノヒトミであるが、この時期のこの植物にピッタリの名前を誰が一番さきにつけたのだろう。もちろん「オオイヌノフグリ」「イヌノフグリ」という正式(?)名をもつ、ちょっと下品な名前だ。でも、それはこの実の時期のネーミングであり、けっしてこの花の時期のネーミングではない。やっぱりこの花の時期には「ホシノヒトミ」が抜群であるのだ。春の目覚め、それを象徴するようで、姿かたちの形容もうまい。
03170017▼家に帰ってから、『日本植物方言集成』(八坂書房)を開けてみた。「オオイヌノブクリ」がみつからない、しかたない、「イヌノフグリ」でひいてみた。あった、「ほしのひとみ」千葉(柏)となっている。そうなんだ、千葉なんだ、今も使われているのかな。いちど、【理科の部屋】でも話題にしたこともありますね。他の名前はどうだろう。もっと、もっともろなものありますね。「いぬのきんたま」(和歌山(有田))です。さらに「のぶくさ」(紀伊)「はたけくわがた」(和歌山)とあります。
▼この花の時期のものとしては、「はたけくわがた」なんていうのもみごとですね。草花のネーミングは、すばらしい科学ですね。観察科学です。その形容をじっくり観察して、自らの生活や遊びと結びつけて名前をつけるわけです。子どもは、昔からネーミングの名人です。それは、はじめてみて、その感動をビィビィドな感性で言葉にしていくわけですから。それにしても「ホシノヒトミ」と最初に呼んだのは、誰だったんでしょうね。

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「捨てる」技術

▼なんとも、困った状況だ。Windows98の愛機ノートが思うように動かなくなってしまった。もうつき合うこと十年目である。これをメイン機として使ってきたので、いろいろ困ったことがある。まずメールである、ふつう状況では、これを使って、メールのやり取りをしてきていただけに、連絡がとれなくなってしまう。
▼次に困っているのが、Webページの更新である。本来なら、今朝は週末の定例更新をお知らせすることにしていたのにそれができない。画像も準備し、句も詠んだというのに・・・。
Web更新の方も、まもなく立ち上げから10年の年月が経とうとしている、紆余曲折はあったが、けっこうな量の情報を「蓄積」してきている。それも、そろそろシステムを変えるときがきているのかも知れない。
▼どうしてこんな状況になってしまったのだろう。それは、ハード面でいうなら、今さらWindows98の時代ではないということだろう。ソフトがそれに対応していないのである。無理な面があるのである。作業的には、私には充分なのだが、なにも、そんな高度なことが、私には必要ないのだが。
▼もっとも、根本的な問題は、私が「捨てない」からだ、情報収集、情報発信はするが、「捨てる」ことをしないからだ、メモリーがいっぱいになってしまい、快速に動いてくれない。過去の情報・DATAを、また必要になってくることもあるだろうと、「とりあえず置いておこう」と貯め込みすぎているのである。
なんともこれは象徴的である。
すべてがこうなってしまっているように思う。なんでもキャパシティというものに限界がある。
今のピンチはチャンスかも知れない。
今の私にいちばん必要なのは「捨てる」技術だ。

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「究極のクリップモーター」の歴史

▼ひとつの教材・教具の歴史を追ってみると、とても面白い。そこから見えてくるのは、その教材=実験・観察が、どのような教材観をもって開発されていったのかということであったり、開発した教師の授業観であったり、生徒観であったりする。私は、これまでに「スライム」について、現代理科教材発展史『スライム』として、まとめたことがある。これについても完結したと思っていないが、これをまとめる過程で、とてもたくさんのことを学ぶことができた。今や、もっとも普及した教材とも言える「PVAのりを使ったスライム」の開発者・鈴木清龍先生は、昨年なくなった。
▼その鈴木清龍先生が、『やさしく本質的な理科実験4』のまえがき「実験集の歴史と特質」のなかで、とても興味深いことを書いておられる。

理科ぎらい、理科ばなれがいわれますが、そんな状況のなかで実験書、ものづくりは花ざかりのようです。超教科は脱学校を生みだしています。(それはあだ花か。)私たちは脱学校のなかから、学校での学習が再構築されると考えていますが。
 それは、これまでの蓄積の成果を自らのものとして、子どもの要求に敏感に反応し対応できるように自らをつくっていくことによるしかないのではないでしょうか。 2001年8月  (同書P4)

 数々のすぐれた実験を開発してこられた鈴木清龍先生らしい、本質をついた提言である。今一度、聴いておきたい提言でもある。
Himekas0038▼けっして私独自の開発によるものでないが、オリジナルに近い実験に『究極のクリップモーター』がある。「世界で最もシンプルなクリップモーターである」と断言し、「究極のクリップモーター」とネーミングしてから、はや20年の年月が経とうとしている。その後、いろんなところで紹介し、今では教科書や実験書に登場することも頻繁である。この実験も授業のなかで生まれたものである。それまでの「台つきクリップモーター」を授業でつくっていて、台にすべき消しゴムなり発砲スチロールを準備するのを忘れてきていたある男子生徒の発見によるものである。その男子生徒は、手持ちぶさたにしていて、磁石が電池にくっつくことを「発見」するのである。まさにコロンブスの卵である。台は必要なくなったのである。かくして、「究極のクリップモーター」は生まれたのである。
▼先日、【理科の部屋】4@folomyで阪本さんが、世界ではもっと「究極」があるのでは、と次のような実験を紹介してくださった。
http://dangerouslyfun.com/homopolar-motor
いや実に面白い、クリップは使わない。すごい発想だ。原理・原則がむき出しだ。その発想に感動した。バランスよく続けるということでは、少し難があるかも知れないが、とても面白い展開だ。
▼いつか私は、現代理科教材発展史『究極のクリップモーター』をまとめたいと思っていた。阪本さんの紹介してくれた簡易モーターをみながら、この作業をはやくやりたい気持ちをかきたてられた。まずは、少しずつ、資料を収集するところからはじめたいと思っている。これからの「発展」も射程に入れて。
もし、これを読んでくださっている方で、関連する情報をお持ちでしたら、ぜひ教えてください。お願いします。<(_ _)>

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食塩の結晶・台所でみつけた宝石

03140016▼生徒と一緒に、数ヶ月前からやっていた「食塩の結晶」の様子を見に行った。けっこうきれいな結晶ができていた。実験といっても、さしたることをしたわけではない。ただの市販の調理用食塩の飽和溶液をつくり、放置していただけだ。ひとつは、プラスティクの解剖皿にいれ、理科室の後ろの誰もさわらないような棚の上に放置し、もうひとつは、ビーカーに入れ、これまた理科室の日陰の棚に放置していた。それだけである。
▼「また、見てみような」と言ってわすれかけていた。生徒がときどき言っていた『あれどうなったやろ』と。それを昨日見に行ったというところである。生徒から出たことばは、『わあー、できとる できとる きれいや』『ほんま、先生言うとったみたいに四角や』。その言葉で、なにかうれしくなってしまうと同時に『ほんまに 四角やな サイコロみたいやな』と感動してしまったのだ。なんにもしないのに、こんなきれいなものができてしまう。やっぱり不思議だ。
それも、どれも同じように四角いサイコロのようなかたちをしている。生徒は夢中できれいな(透明な)、大きなものをさがそうとする。そして、生徒から出たことばは、「先生、理科って面白いな」。教師の殺し文句だ。\(^o^)/
▼結晶さがしをしながらの会話。
T  『そんでも、おかしな話やな』
   『大きい小さいあるけど どいつも こいつもみんな同じかたちしとるんやろ』
S 『えー?(゚_。)?(。_゚)?』
T 『誰も、あれからさわってへんで そんやのに』
S 『自然にできたんとちゃうん』
T 『そうやな、それが面白い。そやけど人類がはじめて四角みたのんて、これやないやろか』
 と、唐突なる質問をぶつけてみた。自分でもそんな気がしてきたのである。
T 『自然界で、真四角なものって、これではないかな』
 だれでも、注意深く観察すれば、すぐわかる。食塩、これは生活必需品。誰もがこれを目にしてきたはず。
 そして、この真四角に驚いたはず。真四角の概念はここからはじまった。これが、私の仮説。
S 『先生、それやったら 調べてみたら …』
T 『ほんまやな 調べてみるわ あんたも 調べてみいな』
▼ 食塩の結晶を『台所でみつけた宝石』と呼んだのは田中実先生だった。こんな身近な「宝石」の研究から、理科がはじまるのかも知れない。「理科」のはじまりを、生徒に教えられたような気分になった。
・もっと大きな結晶をつくりたい。どうすれば・・・。
・人類は「真四角」を食塩に発見したは、ほんとうか。
・食塩からはじめる「化学ものがたり」
・食塩をめぐる「常民の科学」は
・世界の三大物質のひとつ 「しおのなかま」の学習の出発に食塩をもってくる学習プラン
・塩作りと化学のはじまり
・塩をめぐるフィールドワーク プロジェクト
・食塩の結晶づくりから、「巨大結晶づくり」への挑戦

思いつくままにあげてみてもいっぱい楽しそうなことがある。理科!!\(^o^)/
03140038▼生徒と一緒に観察していたら、Y先生が、 青い色の発光ダイオードの光をあててくれた。きれいだ。神秘的ですらある。ひとりの面白さは、ふたりの面白さに、さらに三人・・・。
ほんとうの学びは、学び合いをひきだし、高めあいにいたる。
「食塩」をヒューマンネットワークのなかで学んでみたいものだ。

 

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一つのこと

▼公立高校一般入試の日の今朝は、雨だった。
あたたかい雨である。心を落ち着かせ、存分にあらん限りの力を発揮してほしいものだ。
▼ふと、あの言葉がよぎる。

一つのこと  
         斎藤 喜博     
いま終わる一つのこと
いま越える一つの山
風わたる草原
ひびきあう心の歌
桑の海 光る雲
人は続き道は続く
遠い道 はるかな道
明日のぼる山もみさだめ
いま終わる一つのこと

なぜだろう。頭にうかぶのは
何度か読んでみる。

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新理科実験・工作・バインダー

▼一昨日、卒業式の前夜、家に帰ると、机の上に大きな包みが宅急便でおくられてきていた。「あれなんだろう」と包みの差出人をみる。左巻健男さんからだった。『 新理科実験・工作・バインダー3冊(大蔵書院)』を1セットだけ注文していたものが、送られてきたのだ。卒業式がおわって帰ってきた昨日、包みをあけてなかみを見た。
なんとも、なつかしい気分になる。初版で、ビデオ付きででたとき、確か購入して、これをもとに自分でも実験をした記憶がある。もう、20年近く前のことになるだろうか。もちん、ビデオもバインダーも、その当時勤務していた学校に置いてきた。
▼三分冊になっているバインダーをパラパラとめくってみる。なんとも新鮮である。まったく、色褪せることなく、面白い、今や教科書でも「定番」となった実験も数多くある。これまでの科教協などで取り組まれ開発・蓄積されてきたものを左巻さんたちが中心になってまとめたものなんだろう。準備物・ねらい・解説・材料器具などの入手方法なども、具体的でわかりやすい。ビデオまでついていたのだから、「よし、自分でもやってみよう」という気になったのだろう。
▼その後も、多くの実験・観察の書も出版されてきた。ひとつ、ひとつの実験・工作も、多くの教師の手で「進化」してきている。しかし、一方では、たった今、新規に開発された実験のように思われているものもある。それだけでなく、とっくに一定の解決しているようなことまで、エネルギーをそそぎ議論を繰り返していることもある。それは、これまでの取り組みが共有化できていないからである。かつて、【理科の部屋】では、インターネット版【お薦め実験】として、檀上さんを中心に【DB】化、を試み共有化をはかったこともある。そうすることによって、あらたな実験・工作が開発され授業に生かされるとかんがえたからである。
今、Web2.0の時代である。さらにネット環境の進化によって、より豊かにこの試みが具現化できる可能性ができてきている。
▼では、どこからはじめるか。ひとり、ひとりが「十八番実験」の公開からはじめてはどうかと思う。自分のHP,Webページで、blogで、SNS(【理科の部屋4】@folomy、mixi版【理科の部屋】など)、MLで情報発信をおこなうのである。「情報は発信するところに集まる」で、その実験・工作に関する情報は、発信すればするほど多く集まってくるのである。そんな意味では、実に楽しい時代に私たちは生きている。
▼【理科の部屋4】@folomyで、「究極のクリップモーター」というトピックで、外国の「究極のモーターづくり」を紹介してくれている。あの台無しの「究極のクリップモーター」が、もう「究極」で、これ以上はシンプルにならないとおもっていたら、どうやらさらに「究極」があるようだ。多くの頭脳で考えれば、どんどん「進化」していくものかも知れない。今一度、インターネット版【お薦め実験】の巻頭言の自分の文章を読みかえしてみた。10年前である。まったく同じ心持ちとなった。

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「ハレ」の日

▼今日は、卒業式だった。学校にとっては、特別の日である。「ハレ」の日である。地域の人々や、保護者も参加しての「通過儀礼」であるとも言える。
「通過儀礼」などというと古めかしいことばなのかも知れない。
もちろん主役は、生徒である。主役である生徒一人一人にとって、意味ある「ハレの日」、節目になってくれることを願うばかりである。
▼天気は、おあつらえ向きの天候であった。ストーブも不用なぐらい
朝から、体育館もあたかかであった。
卒業生の「はい」の返事が、校歌がひびきわたった。多くの感動を呼ぶものであった。
卒業生たちの前途に幸あれ。

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「ハレ」と「ケ」

▼昨日は、朝方は雨だった。その雨は、あたたかさを増した雨だ。12日(水)に卒業式をひかえ、ちょっと不安な雨だった。その準備のことなどをかんがえると、ちょっといやな雨である。ところが、やがて雨があがり晴れてきた。ありがたい限りである。これで、気分も晴れやかに準備がすすむ。
▼ところで、「ハレ」と「ケ」ということばがある。柳田國男によって、意識化されてきた言葉であると認識している。
柳田は、この「ハレ」と「ケ」が曖昧化されてきたところに、近代の社会の特徴をみようとした。「ハレ」はもちろん「晴れ」から来ているのだろう。「晴れ舞台」「晴れの日」などの「ハレ」だろう。それは、非日常的な、特別の儀式・行事などをさししめしているのだろう。
▼学校にも「ハレ」の日がある。その最大のものが「卒業式」であろう。この「卒業式」こそは、一年の最大の行事である。それだけに、「ケ」=日常では、行われない特別のものが準備されなければならない。
身も心も、モノも・・・。
「ハレ」の日の前日の今日、卒業生ひとりひとりに「ハレ」の体験をプレゼントするためにも、可能なかぎりことを・・・。

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【Web更新3/9】『知的生産の技術』読了

03080021 宙(そら)に向け かたみに植えし 
      アカシアの
 08/03/08(土)撮影@香寺

■ 楠田 純一の【理科の部屋】更新のお知らせ
週末の定例更新です。
遅々たる歩みですが、定例化すること、少しは楽しみにしてくださっている方に応えることできるかと続けます。
この歩みも、もうすぐ10年です。思えば、遠くへきたものです。
表紙画像 校庭の樹木シリーズ ニセアカシア
宙(そら)に向け かたみに植えし アカシアの
 08/03/08(土)撮影@香寺
 「かたみに植えし アカシアの」は、校歌の一節である。卒業式を12日にひかえて、みんなで校歌を歌うことが多い。とてもいい校歌である。卒業記念にと植えられたのであろう「ニセアカシア」枝は、春の空(宙)にWebの広がりのように伸びていた。

『知的生産の技術』を読む。 
http://homepage3.nifty.com/KUSUDA/KENKYU/johou/titekiseisanyomu.htm
2ヶ月あまりに渡っての「blogで読む」は終わりました。最初に意図したこと以上に、私には大きな成果がありました。同時に、これからの「課題」もよりあきらかになって来ました。再読を記念して、もう一冊、この名著を購入することにしました。およそ、40年にわたるロングセラーは、何版をむかえているんでしょうね。楽しみです。
ロングセラーには、わけがあるということが、よくわかりました。
今回の読みは、「私の文脈」で読むということを意識していました。このロングセラーを、他の人はどう読んできたのだろう。そのあたりは、今後、【理科の部屋4】@folomyでも続けていきたいと思います。
また、Webページ更新も不定期になろうとも継続していきたいと思います。


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真壁仁の「峠」

▼なぜか、ふいに野の詩人 真壁仁「峠」を思いだした。
「峠は決定をしいるところだ」ではじまる。


風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない。

見えるかぎりの風景を眼におさめる

少し「峠」で佇み、着た途をふりかえってみる。そんな日があってもいいのかも…
▼2ヶ月あまりにわたる、『知的生産の技術』を読むは、どんな意味があったのだろう。その前と後、なにかがかわるのだろうか。心象風景にどんな変化が出てくるのだろう。それがわかるのは、つぎの「峠」にたったときなのかも知れない。

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「おわりに」(2)情報時代の教育

▼『知的生産の技術』を読む。ここで、読むのはここまでとする。くぎりをつけたい。再読の期間中、何度となく確認したことがある。それは、
●ここに間違いなく「原点」が存在する。ということである。
40年前の提言は、現在も有効であり、ひとつも色あせれることなく、むしろ「これからの途」を照らし、輝きを放っている。時代を貫く、本質的・根元的なものが、ここにあるからだ。
▼「知的生産」という営みによって、生み出されるもの、それは「情報」である。それは、最初に確認した。(P9)
「知的生産」「情報」の概念も、この本からスタートし、普及・定着していったのである。「情報化社会」と世間が騒ぎ出す、ずっとずっと以前の話である。
梅棹は、この本を「情報時代のあたらしい教育」項でしめくくっている。「はじめに」も「学校はおしえすぎる」と、学校・教育を論じるところからはじめている。(P1)これは、何を示唆しているのだろう。
いずれにしても、梅棹のなかに、教育・学校の課題というは大きくあったことは間違いない。
▼もう少し、具体的に最後の提言をみてみよう。

今日、時代のあたらしい状況に対して、われわれは、自分自身をしつけてゆかなければならないだろう。
(P216)

なんと、今日的な課題であろう。驚くばかりである。私自身の歩みをふりかえってみる。恥ずかしいばかりである。あまりにも「しつけ」が未完でありすぎる。くやむばかりである。より具体的つづける。
情報の管理は、物資の管理とは、原理のちがうところがある。「もったいない」という原理では、うごかない。さまざまな形の、新しいしつけが必要だ。たとえば、紙切れや印刷物をなくさないこと、書類を折ったり、まるめたりしないこと、字をかくのを面倒がらぬこと、など、子供のときから訓練しておけば、らくに身につく性質である。(P217)

▼さらに、最後の最後につぎのように提言する。
わたしは、やがて「情報科」というような科目をつくって、総合的・集中的な教育をほどこすようになるのではなるのでないかとかんがえている。(P218)

この提言から30年、今から10年前、高校に『情報』科が新設された。それは、この提言に応えるものとなっていたのだろうか。
それからも、年月はたっている。梅棹のいう「時代のあたらしい状況」(P216)がうまれてきているのではないだろうか。その状況への対応を考えるうえでも、この本は「原点」となるだろう。
▼ほんとうに長々と続けてきたblogで『知的生産の技術』を読む、はいったん終了する。まだ、まだ書いておかなければならないこともいっぱいあるような気もするが、それはまた別の機会にする。なお、SNS(【理科の部屋】4@folomy)、Webページの更新はつづけていくつもりです。
この間、「いっしょに」読んで、伴走してくださった方、コメントをくださった方、リンク・トラクックバックをしてくださった方々、ほんとうにありがとうございました。みなさんのおかげで、拙い試みがここまで続けることできました。
今後とも、よろしくお願いします。 深謝。<(_ _)>

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「おわりに」(1)技術の体系化

▼『知的生産の技術』を読む、からはじめる。ほんとうに長いあいだ、続けてしまった。今年の1月6日のblogからはじまっているので、ちょうど2ヶ月がすぎたことになる。こんなことしたは、もちろんはじめてである。この2ヶ月間の「読み」で得た成果は数多くある。「blog」で読むから「三位一体」読み(blog、Webページ、SNSで読む)に変えていくことによって、多くの人たちと「いっしょに」読むことができた。それが、あらたなヒューマンネットワークを作りだした。これが、かずある成果のなかでも、いちばん大きいだろう。
▼梅棹の「おわりに」には、未来に向けての2の提言がある。まずそのひとつは、こうである。

この本でとりあつかったのは、個人における知的生産の技術である。当然、集団あるいは社会のレベルにおける知的生産の技術にまで、議論は発展してゆかなければならないはずのものである。しかし、いまは最初のこころみとして、これでおゆるしをこう。(P215)

40年前のこの提言は、このあと、この本を「原点」としながら、集団的な取り組みへと発展していく、そのひとつがNPO法人 知的生産の技術研究会 (知研)である。その多様なる展開は、学ぶところが多い。ここのトップページが、ヒューマンネットワークをWeb図化しているのも示唆的で興味深い。
梅棹は、さらにつづける。
わたしがこの本で書こうとしたのは、おおげさにいえば、やはり一種の学問の方法論ということになるかもしれない。ひとつひとつの技術についていえば、まったくバカみたいなことで、だれでも知っているようなことなのだ。ただそれが、全体としてひとつのシステムにくみあがろうとしている。さまざまな技法が、あい連関して、共通のプリンシプルでむすばれているのである。そういう点では、一つの方法論とみることもできよう。(P215)

みごとな方法論の提示である。これは、40年の時空を超えて今なお有効である。いな、むしろ混沌とした時代の今こそ、有効なのであろう。Web2.0時代の今日こそ、「知的生産」の「技術」を「集団あるいは社会のレベル」において議論していかなければならない。
▼しかし、大言壮語だけでは、ほんとうのところははじまらない。こうも言う。
この本に述べたことは、どれひとつとっても、理屈は、しごくかんたんである。ただし、この種のことは、頭でいくら理解しても、やってみなければまったく無意味である。自分でいろいろ、試みていただきたい。(P216)

まずは、自分でひとつでもやってみることから、はじめたいものだ。

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「文章」(3)文学からの自立

▼日々は過ぐるものにあらず つくりものである。と思っていても、現実はどんどん思いとはなれてことはすぎるものである。
▼『知的生産の技術』を読む。最終章「文書」の最後である。昨日は「こざね法」「KJ法」にくわしくふれて、引用を多くして、梅棹の文脈を中心に読んだ。それは、この章にかける梅棹の意気込みに圧倒される部分が読みとれたからである。その意気込みは、この章の後半「まずわかりやすく」「用語・用語の常識」「文章技術の両極」「国語教育の問題」つづく各項でも同様である。
 そして最後に、こう書く。

 やや急進的な意見かもしれないが、将来の日本文明における知的生産の技術、とりわけ、文章によるコミュニケーションの重要性をおもって、こういうこともかんがえてみたのである。(P214)

ここに梅棹の本意のすべてが集約されているのではないだろうか。
▼時代は「IT時代」とよばれていた時代から、いつか「ICT時代」と呼ばれる時代になっていた。人々は当然のごとく、C=コミュニケーションの重要性に気づいたからにほかならない。それは、40年前の梅棹の気づきでもあった。「文章」もコミュニケーションを図るための「道具」であるとかんがえれば、ページさいて力説していることが納得できてくるのである。


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「文章」(2)こざね法・KJ法

▼昨日から、本格的に「卒業式」の準備・練習を本格的にはじめた。「卒業式」は学校の最大の儀式的行事であ
る。「ハレ」の行事である。みんなの力があつまり、ながく思い出に残る卒業式を創り上げたいものである。
▼『知的生産の技術』を読む。最終章をつづける。昨日の読みは

文章というものは、基本的には、たぐり出すものではなくて、くみたててゆくものだとおもう。(P201)
で終わっていた。
では、具体的にどのように「くみたててゆく」か、が今日の読みである。
かくべき内容のための素材を蓄積する技術については、すでにこの本のなかで、たびたび述べた。(P202)

なるほど、「知的生産」の営みによって創り出される「生産物=情報」の典型が「文章」であるとするなら、この本でこれまでに述べられてきたことは、かくべき内容の蓄積の技術についてのものであったかも知れない。
素材を集めて、いよいよ「調理法」である。ますます具体性をもってくる。
しかし、一般には、素材をならべただけでは、とうていかんがえがまとまったということはできない。断片的な素材をつかって、まとまりのあるかんがえ、あるいは文章を構築するには、つぎのような技法が役にたつだろう。(P202)
として
▼【こざね法】の紹介にうつる。脳内を具象化するかのである。この方法は、今も有効であるし、これからも発展性のあることであるので、少しくわしくみてみることにする。まず、紙切れを用意する。紙切れはB8である。
その紙きれに、いまの主題に関係のあることがらを、単語、句、または短い文章で、1枚に1項目ずつ、かいてゆくのである。おもいつくままに、順序かまわず、どんどんかいてゆく。すでにたくわえられているカードも、きりぬき資料も、本からの知識も、つかうそうなものはすべて一ど、この紙きれにかいてみる。ひととおり、でつくしたと思ったら、その紙切れを、机の上、またはタタミの上にならべてみる。これで、その主題について、あなたの頭のなかにある素材のすべてが、さらけだされたことになる。
つぎは、この紙切れを1枚ずつ見ながら、それとつながりのある紙きれがほかにないか、さがす。あれば、それをいっしょにならべる。このとき、けっして紙きれを分類してはいけない。知的生産の目的は分類ではない。分類という作業には、あらかじめ設定されたワクが必要である。既存のワクに素材を分類してみたところで、なんの思想もでてこない。分類するのではなく、論理的につながりがありそうだ、とおもわれる紙きれを、まとめてゆくのである。何枚かまとまったら、論理的にすじがとおると思われる順序に、その一群の紙きれをならべてみる。そして、その端をかさねて、それをホッチキスでとめる。これでひとつの思想が定着したのである。こうしてできあがった紙切れのつらなりを、わたしは「こざね」とよんでいる。 (P202.203)

こざねのれつがいくつもできたところで、さらにそれらのこざね同士の関係を考える。そして、論理的につながっているものを、しだいにあつめていく。(P204)

 こうして、論理的にまとまりのある一群のこざねの列ができると、それをクリップでとめて、それにみだしの紙切れをつける。あとは、こういうふうにしてできたこざねの列を、何本もならべて、見出しを見ながら、文章全体としての構成をかんがえるのである。(P204)

ここまでくれば、もう、かくべき内容がかたまっただけでなく、かくべき文章の構成も、ほぼできあがっているのである。あとは、かさねられたこざねの列を、上から順番に、1枚ずつとりあげてみながら、その内容を文章にかきおろしてゆけばよいのである。(P205)

ずいぶんと、ながながと引用してしまった。
こんなに引用するのは、ここに確かに、これからの時代にも活かせる文章を書く「技術」を示唆してくれていると、あらためて感じたからである。そして、梅棹は、力づよく言い切る。みごとである、そこも気に入ったからである。
これは、凡人のための文章術である。(P205)
▼これは、文章術にとどまらない。さらには「発想術」につながっていくのである。そして、例の川喜多二郎の「KJ法」につながるのである。何十年も前に、この本を最初に読んだとき、あわてて『発想法』の本を買い求めた記憶がよみがえってくるのである。時代は、「コンピュータの時代」から「ネットの時代」へ、さらには「Web2.0の時代」へ大きく変化してきた。しかし、「文章を書く」「ことがらを発想する」などという「知的生産」の基本的な営みについては、時代を貫き、未来につながる鉄則があるように思う。「こざね法」にしろ「KJ法」にしろ、これを現代に具体的に適応するか。その「技術」とは・・・。今を生きる、すべての「凡人」の課題である。

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「文章」(1)才能より訓練

▼今朝、メーラーをあけると、とてもうれしいある若者からのメールが届いていた。その方のメールは「自分の上司が、中学校時代に科学部の部長をやっていて、そこでいろんな実験をやったりした(「教室全体のピンホールカメラ」等の)、それらの体験が、今の人生を方向づけたと話てくれる。」そのときの顧問教師をさがして、私のWebページに行き着いた。もしかして、私がその顧問教師なのでは という内容であった。もう20年近く前の話である。当事者にたよりをいただくのもうれしいが、教え子に関係する人からのメールなんて、はじめてだ。きっと、この「上司」との関係もうまくいっているんだろうし、「上司」くんもがんばってくれているんだろう。うれしい朝だ。
▼もう少しになった、『知的生産の技術』を読む。最終章「文章」である。
まずこうだ。

今日においては、職業的な文筆家でなくても、文章をかかねばならない機会はたいへん多い。文章がかけるということは、いまではすべての知的職業人の基礎的技能のひとつである。(P197)

この状況は、40年経った今、加速化した。特別の「知的職業人」でなくても、ごくふつうの「生活者」ならその機会は多い。ネットの時代、これからますます多くなるだろう。
現にこうして、私は、今も「文章」を書いているのである。私も、あまり「文章」を書くことは得意なほうではない。むしろ、苦手である。一番悩ましいところは、「おそい」というところだ。
そんな私にも、救いの手をさしだしてくれている。
さらさらと、いくらでも文章がかける人をみていると、本当にうらやましいと思う。こういうのは、生まれつきの才能ということもあろうが、わたしはやはり、教育と訓練におうところが大きいと思う。(P199)

では、どのような「訓練」が必要なのであろうか。こう示唆する。
文章を書くという作業は、じっさいには、ふたつの段階から成り立っている。第一は、かんがえをまとめるという段階である。第二は、それをじっさいに文章にかきあらわす、という段階である。一般に、文章のかきかたというと、第二の段階の技術論をかんがえやすいが、じつは、第一の「かんがえをまとめる」ということが、非常にたいせつなのである。かくべき内容がなければ、文章がかけないのは、あたりまえである。文章をかくためには、まず、かくべき内容をかためなければならないのだ。 (P200)

私のわずかながらの浅い体験からも、これは納得できる話だ。私の「おそい」もここに起因していることが多い。
そして、基本的な「かまえ」としては、つぎのように示唆してくれている。
文章というものは、基本的には、たぐり出すものではなくて、くみたててゆくものだとおもう。(P201)

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【Web更新3/2】『知的生産の技術』を読む

03010011 若ヤツデ いつか大樹の 夢語り
  08/03/01 (土)撮影@香寺
楠田純一の【理科の部屋】週末定例更新のお知らせです。
表紙画像 校庭の樹木シリーズ ヤツデ

 若ヤツデ いつか大樹の 夢語り
  08/03/01 (土)撮影@香寺
何を次の表紙にするかは、私の一週間の課題だ。校庭を毎日、散策しながら考えてみる。今回、花の時期にないかとさがしていたヤツデである。この花がとっても気に入っていて、校庭にないものかとずっとさがしていたのである。そして、やっと西土手にこれをみつけた。近くの里山には、この大きなものがあるから、そこから種がここまでなんらかのことがあって運ばれたのだろう。いつか、里山にあるような大樹になるのだろうか。これから、どんな運命が待ち受けているのだろう。
『知的生産の技術』を読む。
http://homepage3.nifty.com/KUSUDA/KENKYU/johou/titekiseisanyomu.htm
もう、これを読みだして、2ヶ月になろうとしている。初期の目的は「これまでを整理する」ことであった。ところが、読み進めていくあいだに、とても40年も前に書かれたものとは思えない、Web2.0時代の今、そしてこれからに役立つ、示唆的なことがいっぱい書いてあったのだ。ほんとうに以前にこの本を読んだのだろうかと自分を疑ってみたりするぐらいであった。自分のなかで、あらためてblogやWebページの意義も自覚できた。その面白さも再認識されるものとなった。かつて、詩人谷川雁は「原点が存在する」と言った。
どんな思いのなかでの言葉だったのだろう。ちがった思いかも知れないが、同様の言葉を発したい気分である。
私の「原点」は、ここにあった。最終章「文章」と「おわりに」を残すのみとなっている。今週中には、読み切ってしまうつもりではいるが、それはあくまで予定である。
 

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「原稿」(2)原稿用紙にかく

▼3/1(土)づけ朝日新聞「文化」欄に面白い記事があった。「片づけたい」今も昔も 情報整理説く本人気再燃という記事である。なかなか興味ぶかい、『「超」整理法』の野口悠紀雄さんや、アートディレクターの佐藤可士和さんに取材されての記事である。人気の「整理本」あれこれでは、もちろん我らが原点『知的生産の技術』も登場する。記者は中村真理子さんという方だ。さらに、もっとくわしく取材記録など知りたいものだ。
▼さて、その『知的生産の技術』を読むを 続ける。いよいよ最後が見えてきた。一挙に最後まで一応読んでみたが、そこはあせらずステップバイステップでいく。「原稿」の2回目である。
傍線をつけたところは、比較的少ない。
確かに、「他人のために書く」=「原稿」という、普遍的なところを設定しての論なんだが、どこかやっぱり選ばし人々の「原稿」が想定されているように思う。
本、雑誌などの「原稿」についての話が中心である。この本、雑誌の世界が、40年前と今では、ドラスティクな変化してきている。その状況認識のもと、今も これからも参考になる部分を捜してみる。

ここで原稿の書きかたの技術について、くわしい解説をするつもりはない。なにしろ、まだルールも確立していない点が少なくないという現状だ。ただ、もっとも基本的な点だけをのべよう。原稿は、原稿用紙に書く。これが、原稿を書くうえでの、いちばん基本的なルールである。(P184)

昨日のべたように、ここでいう「原稿」を書くは、「ハレ」の文章を書くのである。「ハレ」は、あくまで「ハレ」であって、日常ではないのである。かしこまった部分がなければならない。日常=「ケ」の延長ではないのである。そう考えたとき、梅棹の原稿用紙に書く、とあえて言っている意味もわかってくるのである。
原稿用紙の形式のような、いわばささいなことがらを、くどくどのべたのは、それが、意外なところでわたしたちの文章や発想法を、ひいては知的生産の内容を制約しているところがあると信ずる。(P188)

「原稿用紙」へのこだわりが、何を意味するのか。それを上記のようにのべている。
▼そして、それは外的な制約からでもあるのである。それが次である。
日本でも、文選にはモノタイプをつかいだしているが、伝統的な手でひろう方法のおきかわるには、ほどとおいようだ。その理由は、なんといってもアルファベットだけですむ国とちがって、ぼう大なの漢字をつかいこなさなければならないため、活字数がかぎられたモノタイプでは、文選を完全に機械化することができないからである。そこで、依然として100年ちかくまえからと同じ方法で、版をくんでいるのである。そして、それにともなって、こつこつワクのなかに字を埋めてゆくという原稿書きの方法もまた、おそろしく非能率的で、前時代的な労働だとはわかりながら、改められることもなく、今日まで伝承されてきているのである。(P189)

これを読めば、この制約を梅棹は、否定的とらえかえたいと願っていることがわかる。そして、今、この制約は印刷技術の大進歩によって、大きく変わってしまったのである。Webだけでなく、ここでも大きく「知的生産」の世界に革命が起こっていることがわかる。
印刷の問題よりも、原稿の執筆者のほうはどうしてくれるのか。わたしはいま、200字詰めの原稿用紙のワクのなかに、字を1字ずつ埋めこんで、この原稿を書いている。考えよりも、手のうごきがおそいために、はかばかしくできあがらない。これが、タイプライターで書けたら、どんなにすばらしいかと思う。ヨーロッパやアメリカの連中にくらべて、われわれの書くものが、少なくとも量的には問題にならぬくらい貧弱なのは、あきらかにこの原稿の書きかたの原始性にもとづいている。(P191)

このあと続けている「清書」「コピー」の問題を含めて、日本語ワープロの出現により、梅棹の願いは、現実のものとなったのである。
「原稿」を書く、制約から解き放たれた今、これから、私たちはどんな「原稿」書いていくのだろう。
ほんとうに、「ハレ」の文章と「ケ」の文章の境界は、シームレスとなってきている。むしろ、そのことに価値が見出せる時代となってきている。等身大に書く、「ケ」の文章が、多くの人に目にふれることも可能な時代になってきている。梅棹の理想は、ほんとうにここへきて実現したのだろうか。
もう「原稿用紙」に「原稿」を書く必要はないのだろうか。もう少し時間をかけて考えてみたい。
 


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「原稿」(1)他人のためにかく

▼昨日は、四年に一度の日であった。特異な日であった。母親の体調があまりよくない。野良仕事だけに打ち込んできた人である。ちょっと畑に出過ぎたのかも知れない。今日また病院につれていくつもりである。
今日から、三月である。学校というところは、月ごとにステージが変わる。回り舞台である。一日ちがうだけでも、舞台は変わる。大道具、小道具すべてが変わって・・・。この舞台でなにが・・・。
▼『知的生産の技術』を読む。「日記と記録」の章で、梅棹の文脈と私の文脈が重なる「感動」を味わった。もう、これ以上は蛇足では、との懸念も抱きつつ読み始めた。「さにあらん。」とすぐわかった。冒頭からこうである。

さていよいよ、知的生産の諸技術のなかでも、いちばんやっかいな部分について、考えてみなければならない順番がまわってきたようである。それは、文章の技術についての話である。それも、発表ということを前提にしての、文章のかきかたの話である。手紙や日記については、すでにのべた。ここにいうのは、特定の個人や自分自身にあてた私的な文章でなく、原則として、公表されてたくさんの人に読まれることを前提にした、いわば社会的な文章のことである。(P177)

ここで、梅棹は文章を二つに分けている。
●「私的な文章」 非公開・非公表  自分自身のための文章 特定の個人が読む
●「社会的な文章」 公開・公表   他人のための文章     たくさんの人が読む
従来の二分法である。
柳田國男流に言うなら、文章には「ケ」の文章と「ハレ」の文章があるというわけである。
今日においても、有効な二分法である。「でも、そればっかりなのかな」という思いもある。
この二分法でいくなら、「私的な文章」は多くの人が書いていたが、「社会的な文章」を書く人は、特定のひとにぎりの人たちに限られていた。
でも、こうも言っている。
 そういう文章をかかねばならない機会は、現代においては、だれにでも、なんべんでも、まわってくる。さまざまな仕事の発端から終結まで、その計画、経過、結果について、いつもなんらかの報告が期待されているのである。仕事をした人間は、だれでも、その仕事について、情報を提供をする社会的責任をおうているのである。(P177)

「責任」については、ちょっとおいておくにして、誰もが「公開する・公開される」文章を書く機会というのは、梅棹が40年前に「現代」と言った時代から、加速度的に変化して来ているのである。
『ウェブ進化論』の梅田望夫は、Web2.0時代の今日の社会を「総表現社会」と呼んでいる。
では、その「総表現社会」において、「社会的な文章」、「ハレ」の文章は、如何に書かれるべきか。どんな留意すべきことがあるのだろう。
 この章にどんなヒントがあるだろう。さらにくわしく読んでいこう。

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