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「整理と事務」(5)

▼今年もはやくも一ヶ月がすぎた。今年のスタート元旦のblog「今年の抱負」をあらためて読み直してみる。一ヶ月たってもあまり変わっていないなというのが感想である。これが、blogの効用というやつであろか。過去の自分が「他人」として、みることができる。今日の「自分」がどこから生まれてきたのかがわかる。面白い(^^)V
元旦のblogのしめくくりは「ともかく今年の抱負のキーワードは「楽しむ」である。」とした。さて、一ヶ月でどこまできたのか。
▼このblogも、連続して書き出して、昨年の12月、今年の1月と2ヶ月が過ぎた。飽きっぽい私には驚異のことかも知れない。前記のようにいくつかの効用が出始めるかも知れない。楽しみである。o(^o^)o ワクワク
新年の抱負のときには考えていなかった『知的生産の技術』を読むという営みであるが、今、読みかえしているとその必然を感じしまう。読みがひじょうにゆっくりになってきている。「ゆっくり主義」の私には、それでいいと思っている。でも、あまりにもスピードが落としすぎると、思考が渋滞をおこしてしまうということがある。
▼「整理と事務」のところは、今日できりあげよう。知的生産のための「空間」のことついてふれている。(P92)そして、梅棹の結論はこうだ。

以上のようにわけると、知的生産のために必要な部分空間は、四種類となる。仕事場と、「事務所」である、資料庫と、材料おき場である。(P93)

なるほどである。けっして、ひろびろとしたスペースを要求しているのではない。空間の「機能分化」をいっているのであろう。だいたい部屋や机の上がぐちゃぐちゃになるのは、この分化ができていないからであろう(見た目のことではない。)。自分をふりかえってみてもそうである。「整理」進行形の私には、ヒントになる。
▼「事務近代化と機械化」のところで、最初に読んだ(30年以上昔だと思うが)、蛍光ペンで強くラインを引いているところがある。よほど共感したのだろう。
知的生産活動一般の技術は、はなはだしく未開発のまま放置されているようにおもわれる。そういうことは個人の内面における深遠な個性的創造的活動だから、技術化などはできないのだ、などとおもっているうちに、もっとも世俗的なビジネスの世界の、平明な技法の進歩に、たちまちおいこされてしまったのである。今日においては、知的生産は、その技法において、ビジネスの世界にまなばなければならない点が、ひじょうにおおいようにおもわれる。(P94)

読みかえして、なるほどと思う。みごとな提言である。それから40年たっても、今なお状況がかわっていないような気もする。しかし、一方では、「これからはちがう」という気持ちもある。Web2.0時代になって、人々は気づきはじめている。「知的生産」の楽しさを。誰もが「知的生産」を楽しむ時代になったのである。「知的生産」復権の時代となりつつあるのである。それは、テレビ番組などをみたらわかる。どんな番組に人気があるか。
このことについては、別のときに少しくわしく考えてみたい。
いずれにしても、先の提言が、きわめて今日的であることにはかわりない。40年も前に、こんなことよくぞ言ったものだ。一例としてあげているPERTにいたっては、その先見性には驚くばかりである。
▼この章は、ここまでにする。次は、第6章「読書」である。今日は、新年一ヶ月しめくくりの日、どんな「楽しみ」が待ち受けているだろう。さあ、出かけよう。

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「整理と事務」(4)

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▼昨日は、ひさしぶりにちょっとした雪だった。雪は定点観測地のヒガンバナにも覆い被さっていた。最近、「日本ヒガンバナ学会」にもすっかりご無沙汰してしまっているので、雪で覆われたヒガンバナ画像を送りたいが、夜が明けてもう少し明るくなるまで、待ちたいがそれをしていると遅刻だ。ストロボ撮影になるが、とりあえずその様子を撮った。校庭も様子はおなじだった。シャーベット状態であった。
▼『知的生産の技術』を読む。またしてもやや足踏み状態になるが、歩みは止めないようにしよう。ゆっくり、ゆっくりでも、前にすすめよう。「垂直式ファイリング」に落ち着いた著者梅棹は、この方式の具体的展開方法をくわしくのべている。それが「分類項目をどうするか」(P87)「キャビネット・ファイル」(P88)あたりである。さらにその展開は家庭生活にまで及んでいる。それが「家庭の事務革命」(P91)である。そして、次のようにしめくくる。

ファイリング・システムは、だれでもが、どこででもやれることなのだ。必要なのは、実行すること、そしてなれることなのである。(P92)

▼やはりここでも、自分の場合に引きつけて読もう。読みかえしてみて、気づいていっていることなのであるが、このあたりでのこのシステムのキーワードは、「分類」にあるように思う。このシステムがうまくいくかどうかの鍵をにぎっているのは「分類」である。これが、うまくいけば、あとは自然の流れでこの整理システムは成功しただろう。どのように「分類」したらよいか、迷っているあいだに概観、俯瞰することができなかった私は、このシステムが邪魔臭くなってしまっていた。そのうちに出会ったのが、山根式「袋ファィル」システムである。このシステムは「分類」を「アイウエオ順」に徹することによって、ある面「アバウトな分類」でよかったので、私にはフィットした。その後活用という面では、課題があったところ、それを「時系列にならべればよい」という提案の野口の『「超」整理法』が登場する。そのころから、パソコンを使いはじめていたので、パソコンを整理の道具として使うことと関連して、自分なりのシステムをつくりあげる必要性を感じてきていた。

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「整理と事務」(3)

▼今朝は、雪だ。昨夜から積もりそうな降り方をしていたので、心配になったので外にでてみた。門先はシャーベット状になっている。まさか、これで「警報」はないだろうな。「警報」がでていたら、ここではゆっくりできないので・・・。ネットに確認に行った。そのときちょっとなつかしいページに寄り道した。「宇宙から地球を眺める」というページである。元々は【理科の部屋】で西園寺さんに教えていただいたものだと思う。「アメリカの気象庁に相当する政府機関(NOAA)が打ち上げている気象衛星を、個人の趣味として追いかけています。」というページだ。みごとな画像がいっぱいある。特に、この時期の画像は、みごとである。教材にしたり、一見の価値ありである。壁に使ったりさせてもらったことがある。「警報」はでていない つづけよう。
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▼『知的生産の技術』を読む。先週からのつづき、「整理と事務」も3回目になる。著者は、自らの「整理法の模索史」を体験的に語りながら、辿り着いた「垂直式ファイリング法」を紹介している。くわしいこのシステムのことは、省くが私もこのシステムを真似ようとしたのである。すべての文書類をフォルダのなかにほりこみたてて分類・保存をしようとしたのだ。さすがにキャビネットまでは買い込まなかったが。これで

すべての雑多な書類が、すべて同一型のフォルダーによって規格化され、単位化されているのである。(P87)

のはずだった。
▼ことは、こんな簡単ではなかった。徹底しなかった、できなかったのである。私の模索史はつづく、ここの部分が今も、続けている「袋ファイル」システムにつながっていくのである。また、驚くのは「ファイル」「フォルダ」「キャビネット」の用語どんどんでてきている。用語そのものだけとりあげても、私にとっては、ここに「原点」があるようだ。
著者は面白いこと言っている。
生物学に、個体発生は系統発生をくりかえす、という有名な法則がある。それは、こんな場合にも適用できるのだろうか。わたし自身の文書整理の歴史をふりかえってみると、それはまさに、世界におけるファイリングの歴史を再現しているようにみえるのである。(P86)

私のようなものが、同じですね。などというのはちょっと不遜であるが、そうなんですよね。私の場合は、まだまだ進行形なんですよね。
▼それしても、面白いと思うのは、こんなところにも自然から学ぶことあるんですね。なんとも自然は偉大だ。
やっぱり「自然は最高の教科書」だ。

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【Web更新1/27】【実践DB】更新

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漆黒の 輝きも凍て イヌツゲの
 08/01/24(木)撮影@香寺

▼寒さつづく休日だった。ちょっと日が長くなってきている。日差しのなかに、春の「におい」がし出している。この「におい」の正体ってなんだろう。「におい」の正体は、なんらかの分子であるはず、では何の分子なんだろう、そんなこと妙に知りたくなってしまう。
楠田 純一の【理科の部屋】 更新のお知らせ

◆表紙画像 校庭の樹木シリーズ
 漆黒の 輝きも凍て イヌツゲの
  08/01/24(木)撮影@香寺

 同じ樹木について繰り返すことが多くなってきた。イヌツゲの実についても同様だ。
イヌツゲの 気づけば実り 夏休み
 07/07/22 (日)撮影@香寺
でとりあげている。ちょうど半年ちがうのである。この間にみずみずしいみどりが、漆黒の輝きに変化したのだろうか。なんとも長期戦ではないか。なにか理由があるのだろうか。雌雄異株らしい。私には、けっこうめずらしいものに映るが、その眼でみていなかったというだけのことかもしれない。
『知的生産の技術』を読む
こちらの方も、連続してなんとか更新をすることができた。「三位一体」読みもいろんな面白いことがでてきて面白い。結局は40年前の本を読みながら、これからの「知的生産」の「技術」を学ぶことになってきているのがうれしい。これが、実は本来の趣旨だったのかも知れない。「原点を問う」ということは、座標軸を確認することであり、現在地を知る行為なんだろうと思う。そして、未来へのベクトルの方向性を定めることつながると思いたい。
http://homepage3.nifty.com/KUSUDA/KENKYU/johou/titekiseisanyomu.htm
◆【実践DB】三態変化「状態変化と体積変化」
ずいぶんと久しぶりの【実践DB】の更新である。きっと5年ぶり、いやもっとかもしれない。
【理科の部屋4】@folomyでは、授業【実践DB】の構築をよびかけている。それぞれの方が「授業実践」「授業ノート」「授業メモ」等々をどんなかたちでもいいWeb発信をされれば、それは巨大なる【実践DB】となると考えるからである。なにより自分自身が次に授業をするときに役に立つのである。明日になれば、自分も他人である。
たとえばこうだ。ここでいうなら、状態変化のときに分子(原子)運動のようすを「固体ブルブル…」と教えたとする、あと液体、気体はどうだったかな。記録していないな。そんなとき、googleに「固体ブルブル」とうってみる瞬時に、そのページがでてくるのである。ひょっとしたら、他の人がちがう目的で発信したページが飛び出してくるかも知れない。それが、また有用なる情報であり、参考資料となるだろう。
私たちは、なんとすごい時代に遭遇しているだろう。
久しぶりに更新してみて、少しずつでも、【実践DB】更新をしていきたいと強くおもった。
http://homepage3.nifty.com/kusudadb/Santai/5-taiseki.htm

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「整理と事務」(2)

▼一日のビジョンを描き、それに基づいて一日をデザインしてみる。朝の仕事である。この仕事を請け負うのが、このblogなのかも知れない。ビジョンの通りにならないのが、「日常」である。だからこそ面白いとも言える。一日のビジョンはその日の朝に、一週間のビジョンは日曜日の朝にと考えてみたりするのだが、はたして・・・。
▼『知的生産の技術』を読むを続ける。第5章「事務と整理」である。全体読みして、反復読みして、ポイント読みして・・・・。そのつど納得、発見がある。やっぱり奧が深い。今日は、整理を実現するための「原則」のところを読むことにする。次のように

あり場所が、そのときどきにかわるのでは、どうしようもない。別ないいかたをすれば、整理の第一原則は、ものの「おき場所」をきめる、ということである。 (P81)

続けて
つぎに、その「おき場所」のきめかたは、体系的でなければならない。せっかくおき場所をきめても、そのきめかた法則がなければ、とうてい記憶しておくことができないから、けっきょく必要なものがでてこない。(P82)

納得できる部分である。きわめてうなずけるところである。だからやっかいなのである。このおき場所の決定の試行錯誤こそ、私の「整理」失敗変遷史のはじまりであったのかも知れない。
▼次も心当たりがあり耳が痛い。
「おき場所」のつぎは、「おきかた」の問題だ。おくときには、つんではいけない。なんでもそうだが、とくに本や書類はそうである。横にかさねてはいけない。かならず、たてる。ほんとうにかんたんなことだが、この原則を実行するだけでも、おそろしく整理がよくなる。(P82)

これは的を射た提言である。最初にこれを読んだときから、これだけはやろうと心がけてきた。あくまで心がけてきたのであり、「できた」のではない。今もなお・・・(^^;ゞポリポリ
▼とどめが次だ。
おき場所がきまったら、そのおき場所をまもらなければならない。つまり、とりだしたらあとはかならず、もとの位置に「もどす」。これがつぎの原則である。(P82)

 これは「しつけ」の問題だ。私は恥ずかしながら「しつけ」が出来ていない。わかっているがやめられない。どうしても広げばっなしにしてしまうのだ。悪戦苦闘の原因がここにあることもよく承知しているのだが・・・。
▼懺悔のための読みのようになってしまった。これはいかん。展望をもつために、「ここに原点がある」ということで読み始めたはずが・・・。今日も、この「整理の三原則」を胸のなかで、リピートしながら生活してみよう。
p(^^)qガンバッテ!

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「整理と事務」(1)

▼昨日は「大黒さんの日」だった。黒豆ごはんと「めい」をたべた。おいしかった、私は、黒豆ごはんが大好物である。こんなもの誰が考えだしたのだろう。少し調べてみたくなるが、ここは少しひかえよう。01250006
朝から、学校の運動場に融けない雪で幾何学的模様が「浮かび上がった」。若い先生に「あれなんですか」と質問された。そのときまで気づかなかった。ほんとだ。みごとな樹形になっている。「まるでナスカの地上絵かな」「宇宙人でもきたんやろか」、理科教師とは思えぬ冗談をいいつつ。とりあえず、写真だけは撮っておこうと。次の休み時間に、別の教師から「あそこだけ、温度が低いということですよね。あの下になにか埋まっているんですか」と言われてはたと気がついた。運動場の図面があることに気づいた。見事にその樹形のとおりラインが引いてあった。それを確認して、大発見をしたように言っていると、別の教師が、さも当然のように言った。『ああ、あの下に暗渠があるんや、だからうちの運動場は乾きやすいや』と。知ってみれば、なんのことはない、たわいのない話である。でも面白い。
▼『知的生産の技術』を読むを続ける。第5章「整理と事務」である。ここは、ひとつの山である。この本は、「カード」の提案をした本で知られるのだが、私は、ここにもこの本の神髄があると思う。
これまでとちょっとちがった読みをしてみる。一度、章全体を読んでみて各論をみていくことにする。章の終わり結論が書いてあった。

知的生産の技術のひとつの要点は、できるだけ障害物をとりのぞいてなめらかな水路をつくることによって、日常の知的活動にともなう情緒的乱流をとりのぞくことだといっていいだろう。精神の層流状態を確保する技術だといってもいい。努力によってえられるものは、精神の安静なのである。(P96)
 

 要点というより、「整理」の目的といっていいかも知れない。
▼ここを読みながら、「整理ベタ」を自認する私が、これまでにどのように悪戦苦闘してきたかもふり返ってみたい。
そもそも「整理」とはなんだろう。どうすることなんだろう。著者は語る。
ものごとがよく整理されているというのは、みためはともかく、必要なものが必要なときにすぐとりだせるようになっている、ということだと思う。(P81)
必要に応じて、過去を現在によびおこすということこそ、整理ということなのである。(P83)

みごとな解答である。その通りである。これが、できないのである。これがヘタクソなのである。蓄積の量とか、みためではないのだ。とは言っても、凡人には「みため」も大きな難関なのである。
▼では各論へというところで、時間だ。今日は、ここまで・・・。

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「市販品と規格化」

▼昨夜遅く帰ると、中村敏弘先生からの今年の『季節のたより』カレンダーが届いていた。うれしい。これで、今年も一年間、これを楽しませてもらいながら暮らせる。今年のは、さらにバージョンアップされて、きれいにすっきりした感じがする。ついつい12ヶ月分見せてもらってしまう。いいな。その月々の机の上がが楽しみである。深謝<(_ _)>
▼今朝、起きてすぐ外に出てみると白いものが、ちらちらと・・・。薄明かりのなか、定点観測地のヒガンバナにも白いものがかぶっている。ああ、少し「日本ヒガンバナ学会」のご無沙汰してしまっている。発足から、4ヶ月を経た。この季節のヒガンバナにこそ目をやりたいといいながらのご無沙汰だ。「やっぱり、おまえもか」とヒガンバナに笑われそうだ。(^^;ゞポリポリ
▼『知的生産の技術』続ける。「市販品と規格化」(P75)のところである。写真の整理のところで、ちょっと寄り道したが、「規格化」の話がつづく。まず、こうだ。

規格化をつよくおしすすめることは、身辺から雑多な要素を追放し、知的作業をやりやすくするために、たいへん有効な方法である。わたしはまず、自分のつかう紙類の徹底的な規格化を断行した。検討してみると、わたしの知的活動のために必要な紙類は、ほんの数種類しかないことがわかった。(P75)

続いて、著者は数え上げる何種類だろうと。そうすると、著者の場合は6種類だったと、さらにはその規格化をめざすために、注文してつくらせている。さすがの徹底ぶりである。
▼では、「今の私は」と考えてみる。何種類あるだろう。まず、システム手帳の「リフィル」これは罫線の入った安物である。表しか使用しない。これはこの本の「カード」で学んで以来ずっと続けている。これは、以前の「カード」の役割をさせているものだ。システム手帳にはまったときは、いろいろのリフィルを使っていたときもあったが、それも逆に邪魔くさいと思ってしまって。あれ、扱っている紙類の次がなかなか出てこない。もちろん「仕事」では扱わざる得ないわけだが、私的には出てこないのだ。ときどき「リフィル」以外に、罫紙を使うことあるが、そういうときというのは、後から考えると「整理が悪くなっている」ときであることが多い。メモ書き用には、印刷の失敗した用紙を、リフィル(バイブルサイズ)のサイズに近く裁断しておいて使っている。メモ書きでは「ポストイット」を何種類か使っている。これもあまり徹底はしていない。
 いろいろ考えてみるが、あまりないのだ。「リフィル」以外は、きわめて雑多になってしまっているのだ。この際、私の場合は「リフィル」一本化でいった方がいいのかと思っている。
▼話を本にもどす。著者は「規格化」ということで、別注で自分にフィトしたものを作らせるわけだ。どうして「市販品」ではだめか。二つあげている。
 ①高いこと 
 ②同じものがそろわないこと
と。そして、さらには「市販品」にしろ「特別注文」するにしても、ここがポイントという。
 
一般に、このような知的生産における事務革命をすすめてゆく過程で、いちばんむつかしいのは、わたしの経験では、ものを「かう」という段階かもしれないとおもう。(p77)

そして、最後に「なぜ規格化する必要があるのか」と、陥りやすいクレバスを指摘して次のようにまとめる。示唆に富む提言でもある。
しかし、どんな規格品をつかっていても、それによってつくりだされる知的生産物が個性的・創造的であればいいのである。材料や、道具や、ムードなどのところで個性を発揮すると、それで安心してしまって、ほんとうの知的生産のレベルでの個性発揮がおるすになるおそれがある。個性的エネルギーが、情緒のレベルで消費されてしまうのである。(P78)
 
これからも肝に銘じておきたい。
▼次回は、次はいよいよ「整理と事務」である。今の自分の生活と関連させなが、より等身大に読んでいきたいところである。では・・・。

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「むつかしい写真整理」

▼あたらしい朝だ。外に出たらまだ月は高い位置にあった。比較的おだやかな天候だ。気温もそんなに高くないようだ。昨日は、なかなか自分で時間を刻むのがむつかしい一日であった。できなかった「仕事」も多い。まあとりあえずリセットして、今日をがんばろう。「一日一生」だ。
▼可能なことは、やりつづけよう。『知的生産の技術』を読むをつづける。今日は、ちょっとスポット絞ってよもう。「むつかしい写真整理」(P74)である。タイトルどおり、これは「むつかしい」、私自身も悪戦苦闘の思い出しかない。著者がこの本を書いた約40年前から考えると、画期的な変化をとげたものにこの「写真」がある。今や「写真」と言えば、デジタルが一般的で、標準ですらあるのだから、これらを同じように考えてはいけないと思う。しかし、「知的生産」の「資料」という観点から見れば、一貫したものがあることも確か。
▼自分の場合をふりかえってみると、残念ことや恥ずかしいことばかりだ、まずは私は、「おもいでのアルバム」
というものを、もっていない。過去の写真は、ほんと散逸してしまっているのだ。我が子の「成長のアルバム」も整理できていない。写真でそうなんだから、ビデオにいたってはなおさらである。(^^;ゞポリポリ
だから、次の文を読んでも、ちょっと「それ以前の問題」と敬遠してしまうのだが。

資料整理という観点からみれば、日づけ順のスクラップ・ブック段階であって、過去の追憶にはやくだっても、未来への資料としては、たいへんつかいにくい。(P74) 

反省ばかりしていても仕方ない。気持ちとりなおして「未来への資料」というところに焦点をあてて「整理」を考えていきたい。
▼やりやすい方から考える。デジタル写真は、撮り始めてから10年以上たっている。それまでのアナログ写真にくらべると、比較にならないほど撮っている。それらが、HDD、MO等に眠ったままになっている。比較的早い段階から、整理の方針だけは立てていた。これも人に教えてもらってであるが、それはソフトを使ってである。使うソフトは「蔵衛門」である。(私のHPの師匠であるイルカさんに教えてもらった。蔵衛門がフリーソフトかシェアソフトとよばれている時代からだから、これまた古い。どんどんバージョンアップしてきているようだが、何度かバージョンアップしたものを購入して「その準備」だけはしている。さて、決行はいつになるだろう。
▼デジカメ情報、デジカメ写真の撮り方等々についても、【理科の部屋4】@folomyでは話題されること多い。いろいろ教えてもらいながら、これから、この「苦手」と敬遠してきた領域を楽しんでいきたい。

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やっぱり理科は楽しい

▼今朝起きたら、また冷たい雨だ。生野峠の向こうは雪だろうか。きょうの天気のツボをみる。やっぱりそうだ。寒い一日になりそうだ。今日のblogは迷っている。『知的生産の技術』をつづけるべきか。それとも、昨日の記しておくべきか。迷った結果「よりリアルタイムな等身大情報発信」に従って、理科教師の一日を記しておく。
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▼やっぱり理科は楽しい、面白い。まずこれから、三十年以上中学校理科の授業をやってくると、いくつかの自分のお気に入りの実験・観察がある。いわゆる持ちネタ十八番ネタというやつである。そんななかのひとつにこの実験がある。三態変化の授業のなかで「状態変化と体積変化」として扱う実験のひとつである。ここで扱う実験はどれも好きだ。なにしろ液体から気体への変化は劇的である。「液体ふらふら」から「気体ビュンビュン」への体積変化は1000倍にもなる、ドラスティクなんだ。だから、実験もドラスティクなものが多い。
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▼そのなかでも、また「お気に入り」中の「お気に入り」である。でも、もう10年近くやったことがない。これまでの実践で画像としてしては残していないので、それを残したいとも思っていた。昨日、同僚の協力もあって、やらして
もらうことができた。準備物が少なくてすむというのが、この実験の魅力のひとつである。ゴム風船と丸底フラスコ
そして軍手。丸底フラスコに入れた水をどんどん加熱する。やがって沸騰する。ドンドン湯気がでていき、丸底フラスコの中は、透明ちかくになる。水蒸気である。水の気体だ。それを確認したら、風船をかぶせる。私が、この実験をはじめて知ったのは、岡山の岡田幸夫先生に教えてもらったのだ。もう20年以上前の話だ。そのときの岡田先生の提案では、風船をかぶせるのにカードリングつかっておられた。私の場合、その後何度もしっぱいしながらであるが、いろいろモタモタせずに、軍手をつけておいて一挙に「エィッ」とやってしまった方が簡単にできてしまったので、それでやってしまっていた。ただ、風船をかぶせる前に、風船の口を水で濡らせておくのがコツかな。
▼風船をかぶせてしまうと後は簡単。風船はやがて膨らみはじめる。水蒸気入り風船だ。湯気が出ている。さわると熱い。あたりまえだ。100度を越えているから水蒸気なんだ。パンパンになったら火を引く。やがて水蒸気入り風船はしぼむ。どんどんしぼむ。ここで終わりではない。ここからが、この実験のメインイベントとなる。しぼみきった風船は、丸底フラスコの中に膨らんでいくので、冷えれば冷えるほどんどん丸底フラスコに張り付くように。そのあとまた加熱すると…  
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▼ああダメだめだ。こんなことかき始めといくら時間があってもたりない。
いつか実験紹介か実践報告のようになってしまっている。(^^;ゞポリポリ 「理科が楽しい・面白い!!」を実感する一日であった、ということを書きたかったのだ。もうひとつだけ、昨日は、長い間理科教師をしてきて恥ずかしい話なんだが、はじめて実物のプラナリアをはじめて見た日だった。エビを飼っておられる理科の先生に見せてもらった。エビの水槽のなかに紛れ込んでいたようだ。簡易に分割実験も見せてもらった。職員室の机の上に、これから観察せよと、ミニ水槽もおいてくださった。さて、どうなるやら・・・。
やっぱり理科は楽しい!!面白い\(^O^)/

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「きりぬきと規格化」

▼昨日は、前夜の冷え込みから考えると、雪が予想されたが、そうではなかった。生野峠でせき止められ、「上がるとシンシン」で落ちてしまったようだ。でも昼間の冷たい空気だけは流れ込んできているようである。今朝も同じ様子だ。大気の『巨大な物理実験室』に生活しているように思って、空の変化、天気の変化みていると、けっこう面白い実験が毎日、刻々と行われているようだ。
▼『知的生産の技術』読み進める。昨日のblogで書いた「三位一体」読みいろんな波及効果もたらしつつあるようだ。特に【理科の部屋4】@folomyでの、いろんな方の「知的生産」の「技術」の紹介は面白い。刺激にもなり学ぶところ大である。ここでの読みを進める。
第4章「きりぬきと規格化」(P65)である。「きりぬき」については、ここに書いてあることに感化された私は、この「技術」を真似てまったくこのとおりしばらくのあいだ続けた。その方法とはこうである。

 こんどかんがえた方式は、スクラップ・ブックをやめて、ばらの台紙にはる、というやり方である。ハトロン紙をA4版の大きさにきって、その片面だけ、きりぬきをはりつけた。そして、記事の大小にかかわりなく、台紙一枚に記事一つという原則をかたくまもることにした。たいていの記事は、A4版のおおきさいないおさまる。それよりおおきい記事は、一部にのりつけて、あとはおりたたむようにする。どんなちいさい記事でも、一枚に一つである。台紙には、新聞の名まえと日づけを、かならずかきこむ(P68)

時間のかかる作業であった。しかし、けっこうたまってくると楽しい作業でもあった。紹介されている、オープンファイルのフォルダーも大量に買い込んだ。今、当時貯め込んだものは納屋の段ボール箱にほりこんだままのもの、焼却してしまったもの、袋ファイルに居場所を変えて眠っているもの等々である。いずれにしても今、活用していることはない。しかし、今考えてみるに、これら一連の作業は、その後出会う「DOSの世界」の作業と非常に似通った作業ではないだろうか。「ファイル」「フォルダ」等々の言葉からして。
それは、次の文でよくわかる。
それによって、おおきい記事もちいさい記事も、みんな、同じ形式をあたえられて、単位化されるのである。そして、その規格化・単位化が、その後のいっさいのとりあつかいの基礎になっている。分類も、整理も、保存も、その上でのことである。(P71)

▼ここでわかる。ここで語られていることは、コンピュータの「DOSの世界」をも貫き、今に至るのである。新聞記事そのものをどのように「資料化」するかということについては、Web2.0時代の今日、もっと進化した「技術」があるだろうし、学んでいきたいところでもある。
 しかし、ここにすべてのDATA取扱の「基礎」があるということだけは、見なおしておきたい。
▼この章からは、少しスピードアップを図っていきたいと思っていたが、なかなかそうは簡単ではなかった。それもまあ内容がそれだけあるということで・・・。今朝の新聞記事は、ちょっと違ったように見えるかも。

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【Web更新1/20】『知的生産の技術』を読む更新

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氷雨にや 震えてもなお サンゴ樹
 08/01/20 (日)撮影@香寺

楠田 純一の【理科の部屋】定例更新のお知らせです。

◆表紙画像 校庭の樹木シリーズ 「サンゴ樹」
 氷雨にや 震えてもなお サンゴ樹
  08/01/20 (日)撮影@香寺

 今回も、樹木選定にはちょっと苦労した。でも、いったん選定してしまうと、その樹木がえらく愛おしく思えたりするものである。今回のサンゴ樹は、町木である。前庭の西の方にある。確かに「サンゴ」のような実をつけるはずなんだが、今年それを見た記憶がないのだ。どうして?(゚_。)?(。_゚)?
 昨日は、大寒であった冷たい雨にふるえながも、「サンゴ」の名に恥じずに、どこかあたたかさを含むような冬芽であった。それを詠んでみた。

『知的生産の技術』を読む ページ更新 である。
 この本をblogで読み始めて、2週間がすぎた。全ページ218ページのところ、今はまだ64ページまでしか読んでいない。まったく遅々たるあゆみとしか言いようのないスローペースである。しかし、「これでいいか」という思いもある。ゆっくりと読みながら、あたらしい「発見」もいっぱいある。読み進めながら、「やっぱりここに原点があったか」と思うことしばしばである。けっして、過去の名著ではない。今の時代にあっても名著中の名著である。時代を貫いて、読むに値する本だからこそ「名著」というのだろが。
 【理科の部屋4】@folomy、blog、Webページでの「三位一体」読みもはじめての試みである。それぞれ特徴を生かしながら読み進めたい。
http://homepage3.nifty.com/KUSUDA/KENKYU/johou/titekiseisanyomu.htm

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「有限への恐怖」

▼昨日は厄神さんで、今日は私の57歳の誕生日である。少年時代は、この厄神さんと誕生日という組み合わせがとてもうれしかった。高度経済成長期、「誕生日」を家庭で祝うということ、この片田舎でもはじまっていた。でも、ケーキを買ってまでとは行っていなかった。ちょうど前の日が「厄神さん」さんである。村のお宮さんでは、夜店も出たりしてにぎやかだった。おまつり気分になるところである。ここへスライドしたのである。例年一日ずらして、我が家の「誕生日パーティ」は、19日の夜であった。「ケーキ」ではなく、自家製「お好み焼き」であった。鉄工所に勤めていた亡き父は、鉄工所から特性の鉄板を持ち帰ってくれた。そして、家でつくた野菜たっぷり、ソースたっぷりのお好み焼きでパーティである。おいしかった。あの鉄板はどこへいってしまったんだろう。
いつの間にやらカウントダウンのはじまる年になってしまった。(^_^;)
▼『知的生産の技術』続ける。カード法、カードを使ったシステムを次のように宣言している。

カード法は、歴史を現在化する技術であり、時間を物質化する方法である。(P60)

みごとな「まとめ」である。みえないものとされてきたものを「見える」ようにする技術であるというのである。可視化ということであろう。認識・創造のプロセスにおいては、きわめて有効な手段であるということだ。
▼このカード・システムに対する批判感情にきっちりと返している。
 当時若者の心を惹きつけていた作家・高橋和巳の言葉「カード式に整理されすぎた精神は、かえって不毛になるだろう」にかえすように
わたしにも、その気持ちがよくわかる。じっさい、思想というものは、ちゃんとした文脈をもっているものであって、ばらばらばらにほぐしてカードに書いて、それを機械で処理をしたりできるたちものでない、という気もちがわたしにもある。カードをもって、カードをもって、知識を整理するなどということは、浅薄な能率主義者のすることであって、すくなくとも思想をあつかうもののすることではない、というほどの感じである。それはちょっと、コンピューターに対する不信感とにたところがある。いくら能率的であろうとも、そんなもので高級複雑な人間の問題をあつかえるわけがない……。(P61)

まずは、同感するところから入っている。そして、なによりも注目しておきたいのは、ここでも「コンピューター」が引き合いに出されているというところである。
そして強く打ち出していく。
わたしたちにはいつも、無限の世界とのつながりを心のささえとしているようなところがあるらしい。カードはその幻想をこわしてしまうのである。無限にゆたかであるはずの、私たちの知識や思想を貧弱な物量の形にかえて、われわれの目のまえにつきつけてしまうのである。カードをつかうには、有限性に対する恐怖にうちかつだけの、精神の強度が必要である。(P61)

 決意のようなものすら感じさせる返し方である。
▼さらに自らもカード法の限界にふれながら、道具論を展開する。
ただし、道具はしょせん道具である。道具はつかうものであって、道具につかわれてはつまらない。道具をつかいこなすためには、その道具の構造や性能をよくわきまえて、ちょうど適合する場面でそれをつかわなければならない。どんな場面にでもつかえる万能の道具というものはない。(P62)

この道具の話になると、わたしはどうしてもイリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』を思い出してしまう。ちゃんと読んだわけでない著書だ。でも「コンヴィヴィアリティ」という言葉、理念にこだわってだろう。どこかできっちりと頭の中を整理したいものだ。
▼今の私にとっての「道具」については、「コンヴィヴィアリティのための道具」=「カード」→「コンピュータ」→「インターネット」こんな図式を描いてしまうのである。
 ひとつの課題がある梅棹も例にあげた高橋和巳流にいうならば、「我が心 コンピュータにあらず」にどう返していくか。古くて新しい課題である。今に引きつけながら、どう返すか考え続けたい。
▼ずいぶんながくもたもたと「カード」のところにこだわった。それも、この著の中心部がここにあるからだろう。また、もどってくるかも知れないが、次回こそ次の第4章「きりぬきと規格化」に話をすすめたい。

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蓄積・貯蔵から創造へ

▼一日がせめて30時間ぐらいあればいいのにと思うことがある。でも、それはいくら考えても無理なことであるから、できること考えよう。限られた時間をどのように使うか。使い方を考えよう。「ゆっくり」な私には、きっと最期まで課題だろう。「今日こそ」と思って目覚めた。
▼ちょっと寄り道したくなったこともあったのだが、やっぱり『知的生産の技術』を続ける。「分類が目的ではない」(P57)から続ける。
いくつかの文章を引用してみる。

 たしかに個々のカードは、経験や知識の記録である。しかし、それをカードにしたのは、知識を分類して貯蔵するのが目的なのではない。何万枚ものカードも、死蔵していたのではなんにもならない。それを活用しなければならないのだ。カードを活用するとはどういうことか。それは、カードを操作して、知的生産の作業をおこなうことである。
 操作できるところが、カードの特徴なのである。蓄積と貯蔵だけなら、ノートで十分だ。(P58)

続けて、こうだ。
カード操作のなかで、いちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とをいろいろにくみかえててみる。あるいはならべかえてかえてみる。そうするとしばしば一見なんの関係ないようにみえるカードとカードのあいだに、思いもかけぬ関連が存在することに気がつくのである。そのときには、すぐにその発見をカード化しよう。そのうちまた、おなじ、材料からでもくみかえによって、さらにあたらしい発見がもたらされる。
これは、単なる集積作業ではない。それは一種の知的創造作業なのである、カードは、蓄積の装置というよりはむしろ、創造の装置なのだ。(P58)

きわめて示唆的だ。これは何を言っているのか。今日的な表現をとれば「リンクさせる」ということを言っているのではないだろうか。蓄積された情報(カード)は、リンクされることによって、まったくあらたな情報を創り出す。私は、今、授業【実践DB】の構築をよびかけ、自分なりにできることをやっていきたいと思っている。それを考えるとき、これは、示唆に富む提言に読めてくる。
▼カード法の有効性を唱える言葉が続く。
 これはいわば、目にみえない脳細胞のはたらきを、カードというかたちで、外部にとりだしてだがめるみたいなものである。あるいは、そうして外部で目にみえる形で操作することによって、内部の作業の進行をたすけようというのである。(P58)

さらにくりかし強調する。カード法の神髄がどこにあるのかを
 くりかえし強調するが、カードは分類することが重要なのではない。くりかえしくることが大切なのだ。いくつかとりだして、いろいろなくみあわせをつくる。それをくりかえせば、何万枚のカードでも、死蔵されることはない。

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▼私の場合に引きつけて考えてみる。カード法に心酔した私は、カードいっぱいつくろうとしたのだろう。何年続けたのか、くわしくは思い出せない。カードの貯蔵は、カードボックスだけでなく、スチール製のケースも残っているので、やっぽど「これでやっていこう」と思っていたのだろう。私の場合は、このカード法のシステムは、パソコンのカード型データベース(具体的には「THE CARD3」)に、引き継がれる。また、アナログでは「カード」は、システム手帳の「リフィル」が引き継ぐことになる。感動と挫折のくりかえしだったような。(^^;ゞポリポリ
▼今思うことは、書き留めておこう。今は、この一日、一日のblogが「カード」だと思うんです。また、【理科の部屋】でのひとつひとつの発言やWebページの一ページが一枚の「カード」だと思うです。「死蔵」させないために、どんな営みが必要なのか。さらに「原点」を読み続けます。

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時間がたてば他人とおなじ

▼14年目へ向けての第一歩の朝が明けた。昨日は、学校でも避難訓練を実施した。マスコミも「13年目」をとりあげていた。決意をあらたにした人も多い。私もそのひとり。「今、自分にできることを力いっぱいやろう。」と。
▼『知的生産の技術』を読むこと続ける。カードとコンピューターの酷似性にふれた部分(P54)まできていた。
「今」に引きつけながら読んでみると、よく納得ができる話がつづく。

そこで、カードをかくときには、わすれることを前提にしてかくのである。つまり、つぎにこのカードをみるときには、その内容については、きれいさっぱりわすれているもの、というつもりでかくのである。したがって、コードなしの記号や、自分だけにわかるつもりのメモふうのかきかたは、しないほうがいい。一年もたてば、自分でもなんことやらわからなくなるものだ。自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ、ということを忘れてはならない。(P54)

 これは、カードの書き方にふれての文章である。しかし、それはカードのことだけを言っているのではない。
▼「ものを書く」という営みそのもの意義を語っているように思う。私たちがものを書いている場合のいくつを考えてみる。「日記をかく」「実践記録を書く」「報告文を書く」「論文を書く」・・・。すべてにあてはまりそうである。
▼もっと、もっと今の自分に引きつけて考えてみよう。「このblogを何のために書いているか。」
これは、未来の自分に対して情報発信をしているのである。今日がどんなことがあって、何があって、それをどう思い、どう動いたかを等身大に「書く」のである。未来の自分=他人にとって、もっとも有用な情報となるだろう。ここでの第一の情報活用者であり愛読者は、未来の自分である。従って、未来の自分がわかりやすく書くことは鉄則である。ひょっとしたら、別の他人とっても有用な情報になるかも知れない。しかし、それはあくまで二次的な話である。
▼幸い、私たちは今、めぐまれた時代に遭遇している。「書く」という営みをWeb発信をしておけば、あとから検索や情報の共有も比較的簡単に可能になってきている。「等身大」がつながれば、世界大になる可能性もあるわけだ。また、今までは考えることができなかったような創造的な営みが生まれるかもしれない。巨大な知恵のDB
構築することも夢ではなくなるかも知れない。
 また話が飛躍しすぎかも知れない。(^^;ゞポリポリ 
▼今日の「発見」を楽しみに、さあ・・・。

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あの朝から13年が。そして…

▼1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒。あれからちょうど13年経った。あの瞬間も、私は今と同じようにパソコンの画面に向かっていた。朝起きて、【理科の部屋】に向かうことは日課であったから、いつもと同じように「対話」を楽しんでいた。さきほど当時のログをみてきました。「U-CAS」のことなどが話題になっていた。揺れたこの瞬間、本棚の本が落ち、寝室の本棚の上の陳列していた土産物が落下した。ほんとうに何が起こったかを知るのはずいぶん後からだったのだ。
▼当時のログをみていても、わかるが多くの人が、安否を気遣ってくださっている。「兵庫県南部地震」であるから、全国からみれば、当然該当地域だ。お互いがそうであった。安否を気遣い会った。神戸のあの人は、親戚のあの人はどうだったのだろう。どうしているだろう。TVで次々と映し出される惨状をみて、これはただごとではないことがわかってきた。ライフラインが寸断され、電話もままならぬとき、パソコン通信・インターネットのネットは有効にはたらいた。後に95年が「インターネット元年」と呼ばれるのは、このときにネットの力を人々が実感したからだろう。
▼実感したのは、ネットの威力だけでは、ネットの「つながり」を支えるヒューマンネットワークの偉大な力であった。ヒューマンネットワークが、多くの命を救った。それを目の当たり見たのだ。「ボランティア」いうことば、ごくふつうに使われだしたのもこのときからである。この年は、「ボランティア元年」でもあったのだ。
▼少し落ち着いてくると考えだした。「私に今何が出来るだろう。」「理科教師として何をすべきだろう。」と。
そして、【理科の部屋】では、その年の4月から【オンライン学習会】で、『変動する日本列島』(藤田和夫著 岩波新書1985.6.20初版)を読み始めたのである。「近畿トライアングル」は授業でも教えていた。「現在進行形で、大地は動いている。」ことも授業で繰りかえ話をしてきていた。しかし、それはちがっていた。「物語」としてしか教えていなかったのだ。この震災であらためて、ほんとうに「現在進行形」「未来進行形」であることを知ることになったのだ。もう一度、自分自身が立つ大地の進行形の歴史を学びなおす必要があった。見慣れた山・丘・崖・河・川・池・湖等々すべてが、この大地の進行形物語の結果できたものであることを再認識する必要があった。そして、未来進行形大地の物語を生徒たちとともに学んでいこうと思ったのだった。学習会は、その年の10月まで続いたのだった。
▼あれから、13年が過ぎた。私たちは、どこまできたのだろう。私は、なにをしてきたのだろう。多くの犠牲者たちの「いのち」の発信に応答してきただろうか。改めて「いのち」の応答の継続を決意する13年目の朝だった。

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「京大型カード」(2)

▼三連休明けの昨日は、いろんなことが一挙にやってきた日だった。「忙」しいとは、「心」が「亡ぶ」と書く。「いそがしくして、こころをほろばすことなきように」は、とは誰の言葉だったんだろう。書物にでも書いてあったのだろうか。心が楽しいそがしでありたい。多忙でなく「多望」でありたい。
▼『知的生産の技術』を続ける。「京大型カード」の私の場合を書いた。それを続ける。本にそって言うなら第三章「カードとそのつかいかた」(P49)になる。本に沿いながらも、できるだけ自分の場合にひきつけ、等身大に読み、等身大に語っていく、これはこれまでどおりである。
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▼「授業づくり」に一番よく使ったカードであるが、それ以外にカード一本にすべくいろんなことにこれを使っていた。ノート、手帳のかわりだから当然である。住所録や読書カード、日記などにもつかっていた。著者も書いているように「もってあるく」(P58)必要性も出てきた。そのときには、カードのためのバインダーが市販されていたので、それを使っていた。これを研修にいったり旅行にでかけるときも持ち歩いていたように記憶している。
そのカードは貯まってくれば、カードボックスに入れて保存をしておくようにした。一旦保存をしてしまったら、そのままになってしまったカードもいっぱいある。なんのために書いたのやら・・・(^^;ゞポリポリ
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▼カードに書くことに言及した部分がある。ここになかなか示唆的な話が出てくる。

カードにかくのは、そのことをわすれるためである。わすれてもかまわないように、カードにかくのである。標語ふうにいえば「記憶するかわりに記録する」のである。あるいは、「頭にいれずにカード・ボックスにいれる」である。(P54)

続けて、今日的なことが出てくる。
その点、カードはコンピューターににている。コンピューターも、人間のかわりに機械が記憶するのである。たしかに、このふたつの「装置」には、どこか共通点がある。どちらの知的生産のための道具としては、いわば「忘却の装置」である。(P54)

 なんと、40年も前に、こんなことが書かれていたんですね。私がコンピュータに出会うのは、うんと後だった。(89年12月にはじめてパソコンを購入している。この文章が書かれた20年後ということになる)だから、最初に読んだときには、ここには線もひいてないし、なんのことかもわからなかったのだろう。
▼コンピュータとカードの類似性の指摘は、すごく面白い。実はここがいちばんの醍醐味というか。「知的生産」ということばを創った大元にまでもどって、今日とこれからの「知的生産」の手法、「技術」を考えていくのだ。と言えば飛躍しすぎだろうか。また、つづける。

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「京大型カード」(1)

▼昨日は、朝から白いものが、ちらちら。村の総会があった。昼間は成人式。夕方には、「とんど」だった。なにか正月気分は、ここまでですよ。と言われているようなくぎりの一日だった。
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▼さて、『知的生産の技術』を読むを続ける。カードの有効性のあと、いよいよ「京大型カード」である。これってどうなんだろう。この著書には、「京大型」となっているが、人によっては「京大式」と呼んでいるようだ。実は、私も「京大式」と呼んできたように思う。どこかで変わっていったのかな。知っている人がいたら教えてほしいものである。
▼私の場合からはじめる。この本に感化されてカードを使っていた。憑かれたようにカードを使いはじめた。今も、その残りをひっぱり出してきた。今、よくよく見てみると私の使っていたものにも二種類あるようだ。ひとつは、表の右下に「THINK CARD (B6)」と書かれたものと、同じく右下に「コクヨ シカー13」と書かれたものである。いずれも表はちょっと太めの罫線が入っている(今はかったところでは幅は8mm程度である)。裏は5mmの升目である。左には二穴の穴があいている。コクヨの方には、表右肩に□の枠がある。いずれも梅棹が「わたしのカードの原型」(P47)と呼んでいるものとは違う、こうしてみると、きっと当時はいっぱいろんな種類のカードが出回っていたのだろう。でも、それらの源は梅棹の「原型」にあることは間違いない。
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▼私の場合をつづける。このカードをいろんなことに使っていたが、その第一は「授業」である。教師にとっての第一の「知的生産」物と言えばなんと言っても「授業」である。授業づくりに使っていたのである。授業づくりの「情報収集」に使っていたのである。一時間の授業に一枚を原則としていた。授業内容によってはなかなか一枚に収まりきれないこともあったが、それは一時間の授業でおさまりきれないからだと思っていた。そのときは、別のカードを準備すべきと思っていた。「一時間一枚」が原則であった。資料、参考事項を裏に書くこともあったが、これも原則、表の使用のみであった。こうしておくと、授業展開の順番を吟味したりするときとても便利だったのである。
▼こうして書いているとすぐ時間がすぎてしまう。もっと語っておかねばならぬこといっぱいあるような気がしてきて・・・。【理科の部屋4】@folomyでも、この本を一緒に読むことを提案したところ、いくつものコメントをいただいている。ありがたい。やっぱり応答ある世界というは楽しいですよね。コメントの中にも屡々登場するのは、このカードのことである。しばらくは、このカードに着いてここでも書くことになるだろう。

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【Web更新1/13】『知的生産の技術』を読む

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 こころざし 宿し春待つ 理想の木
   08/01/13 (日)撮影@香寺
□楠田 純一の【理科の部屋】定例更新のお知らせです。
▼表紙画像 校庭の樹木シリーズ 理想の木
  こころざし 宿し春待つ 理想の木
   08/01/13 (日)撮影@香寺
 この「理想の木」ってなんなの。ほんとうの樹木としての名前はなんなのだろう。校庭の東に卒業記念にと植樹された、この木がある。ずっと以前から気になりながらみていた。「理想の木」と名付けられいるのだから、いろんな思い入れがあるのだろう。寒風のなかの冬芽には、その思い入れや、こころざしが宿っているかのように思えた。
『知的生産の技術』を読む
 こんなWebページをつくってみた。これは、ここのblogで読んでいるのを、どこかに集約をしておきたいという思いからである。自分で読みかえすときに便利かと思ったので。
私のWeb発信は、ここのblogと、楠田純一の【理科の部屋】、【理科の部屋4】@folomyと三位一体でやっていきたいと思っている。これからも。
▼昨日は、久しぶりに車で神戸まで行った。親戚の法要であった。時雨がしたり晴れたりの天気であったが、ちょっと移動しただけで、ずいぶんと天気はちがうものである。見えない大気の動き、見えるようにしてくれているのが「天気の変化」なんだと、また空を見た。
 今朝は、冷たい雨がパラパラと・・・。今日は大気はどのように動くのかな。

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野を行く

▼昨日は朝から少し余裕があったので、【理科の部屋4】@folomyを楽しんだ。やっぱり応答のある世界というのは、なにより楽しいものだ。やっぱり「あの人」はいた。いっぱい学ぶところがあった。そのあと『知的生産の技術』を読むというページをつくってみることにした。ここで書いていること、Webページでもまとめておきたいと考えたからである。これは、後ほど公開したい。
▼その『知的生産の技術』を続ける。次は第2章「ノートからカード」へである。ここから、どういうわけかこれまでとちがって線を引いたり、蛍光ペンでマークしたところが少なくなるのである。面白さ失せたのかというとそうではない。もう全文にメッセージが込められているのである。
▼全文こめられたメッセージのひとつが、「等身大に書く」ということだ。「直輸入の伝統」(P33)では、「NOTE BOOK」の自らの体験にひきつけたエピソードなど、ぐっと惹きつける。そして次の一文である

あの、大学ノートのケイの間隔は、ほんとうは何によって規定されているのか、ご存知のかたは教えていただきたい。(P35)

この問いかけなど一学徒としてのスタンスを表明している。けっして大学のえらい先生が一方通行で講義をしているそのようなスタンスではないのだ。学びの途にある人間の率直な言葉である。そのような等身大の口調こそが、「学ぶ」とはこう言うことなんだよ、「研究」とはこうなんだよ。と教えてくれているようである。
▼「天皇のノート」「ノートの進化」「ノートからカードへ」「野帳」「野外調査法とカード」「共同研究」そして、あの「京大型カード」へと話が進むのである。
カードの有効性、優位性を語る話のながれなんだが、私はここからいくつものメッセージを受け取っていたように思う。著者との意図とは関係なく、それは今読みかえしてみて気づいたことでもあるんだが。
そのメッセージとは「研究というのは面白いものなんだよ」「野外調査はこうしてやるだよ」「研究というのは、こうして共同研究としてやるもんなんだ」・・・。
 まったくそのような世界を知らない私には「憧れ」のような感情をもった。「私も、やってみたい」と強く思うようになったのではないかと思う。
▼どうも、本から話がどんどんそれていくが、それが私流ということで、続ける。このときの「憧れ」のようなものが、
後々まで尾を引いているのではないかと思う。一介の現場教師に「研究」などちょっとほど遠い、別世界の話である。野外調査の面白さは、わかっていてもなかなかそんな時間の確保がむつかい。その通りである。
 でも「憧れ」はときどき顔出した。言葉にしたこともある。かつてサークル誌『地下茎』に『野を行く』というシリーズをつくったのも、「私も、やってみたい」のあらわれであった。ページ化したものもある。
『紅花を追って (1)「山形・最上」編』
『紅花を追って (2)「京都」編』
『丹生を追う』
『姶良火山灰を追え』
『ヒガンバナを追え』から『ヒガバナ情報』へ、そして『日本ヒガンバナ学会』
まだまだ、ページ化できていないものもある。ページ化しているものも、すべてが中途である。
これらの「研究」もどきもすべて、このときの「憧れ」が原点にあるように今思う。
▼本に話をもどす。次がいよいよ「京大型カード」である。長くなってしまったので、今日はここまで・・・

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【理科の部屋4】@folomyが楽しい

▼今朝も、目覚めるとまず【理科の部屋4】@folomyへ行ってきた。これは、15年目になる、私の日課である。それから一日がはじまると言ってもいい。ここのところ、blogの面白さに気づき、これを書くことを日課のひとつに加えようとしている。そのため【理科の部屋4】@folomyでの応答がやや鈍ってきているが、やっぱり【理科の部屋】が面白い、楽しいことにかわりはない。
▼何が楽しいのか。と問われると困ってしまうところがある。体験をしてみなけばわからないところも多いから、かつて私は、【理科の部屋】への案内文をよく書いていた。すぐ見ることができるページでは、【理科の部屋2】の紹介がある。ほぼ6年前の紹介文・案内文である。パソコン通信が終焉をむかえる前に書いたものである。自分で書いておきながら、今読みかえしてみて驚いている。今、【理科の部屋】の紹介文を書いたとしても同じようなことになるだろうと思う。
秘かには、【理科の部屋4】@folomyの案内文をつくりたいとは思っているのだが。(^^)V
▼ここでいくつかの提案じみたことを書いている。具現化したものもあるし、これからというものもある。6年前からくらべたら、Web環境を大きく進化してきた。これからSNSやblogなどを駆使していくなら、より豊かな【理科の部屋】コミュニティが構築されていくだろう。そうして【理科の部屋】も進化をとげていくだろう。でも、一貫している作風がある、それはヒューマンネットワークである。
▼楽しい、面白さをあまり「分析」してみるいうのは本意ではないが、ちょっとだけ・・・。
【理科の部屋】の楽しさは、そこに行くと「あのひと」「このひと」がいるということである。「ひと」がいるのである。間違いなく画面の向こう側に「ひと」がいる。「ひと」がいるから楽しい、面白いのである。その「ひと」に会いに行くのである。ひととひとが出会い、時空を超えて「響き合い、学び合い、高め合う」世界、それが【理科の部屋】。
▼さあ、今日は少し時間がつくれるかも知れない。応答できるかも知れない。
もういちど「あのひと」に会いに行こう。o(^o^)o ワクワク

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「発見の手帳」(3)

▼今年に入って、はやくも10日が過ぎた。ここまでは、とりあえず連続して書き綴ったことになる。書き続けてみると、いままでにない楽しみができてくる。それは自分の書いたものを読みかえすという楽しみである。過ぎ去った日の自分は明らかに「他人」である。過去の自分との対話ができる。これはなかなか面白い。
▼『知的生産の技術』に続けて、こだわろう。これにこだわることで「未来」が見えてきそうな予感がするので。
「発見の手帳」の章は、3回目になる。
 ダ・ヴィンチの手帳からはじまり「発見の手帳」=ウィルソンの霧箱へと来たところまでであった。
その後、著者は「発見の手帳」の原則をあげている。

 さきにもいったように、「発見」はまったく突然にやってくるものである。それをその場でとらえて、即刻記録するものであるから、その記録の装置としての手帳は、いつでも身につけていなければならない。これが、「発見の手帳」についての第一原則である。(P30) 

これが、後々のモバイルや「ケータイ」へと繋がっていくように思う。
▼次の原則に入る前にこれまた非常に重要なことを書き記している。
「発見の手帳」は、単なる精神の成長の記録などではなくて、知的蓄積のための手段なのだから、それは、あとで利用できなければならない。かいてあることのうち、じっさいにどれだけをあとから利用するかは別としても、すくなくとも利用の方法だけは確立しておかねばならない利用の方法もないようなものなら、とうていながつづきするはずがないのである。(P30)

そして、大原則へと話が進む。
一ページ一項目という原則を確立し、そのページの上欄に、そのページの内容をひと目でしらせる標題をつけることにした。(P31)

▼ここまで引用していて、「発見」したのだが、これはこのblogそのものと通じるところがあるのではないだろうか。ひょっとしたら、私はこの本を再読しながら、blogの意義性や有効性を引きだそうとしているのかも知れない。続けよう。次の大原則「索引をつくる」ことに関して、こうのべる。
自分の発見、自分の知識を整理して、それぞれのあいだの相互連関をみつけることができるのである。これをくりかえしているうちに、かりものでない自分自身の思想が、しだいに、自然とかたちをとってあらわれてくるものである。(P31)

これは、「索引」をつくるという作業の意義にふれながら、「検索」そのものの大切さを醍醐味を語っているようだ。
今、私たちはgoogleに代表されるような、とんでもない「知」の集積回路を手に入れてしまった。この時代にあっても、ここで書かれている「発見の手帳」の原則は有効なのである。
▼次は「ノートからカード」へとつづく。書きながら私自身にも、いくらのことが見え隠れしだした。つづく。

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「発見の手帳」(2)

▼ここで読むぞと決めた『知的生産の技術』だが、なかなか思うようにはすすめない。
何しろ、この本には、「これは」という単語や文章がちりばめてあるのである。ふつうはひとつ本に出会い、ひとつの単語やフレーズ、文章が心に響き、永く記憶していることがあればいい方である。ところがこの本はちがう。
続々とである。「発見の手帳」の章だけでもいっぱいある。そのなかでも、次の文は、これ以降のキーになる部分である。「発見をとらえる」(P28)抜粋

「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるものである。まいにちみなれていた平凡な事物が、そのときには、ふいにあたらしい意味をもって、わたしたちのまえにあらわれてくるのである。たとえば宇宙線のような、天体のどこかからふりそそいでくる目にみえない粒子の一つが、わたしにあたって、脳を貫通すると、そのとき一つの「発見」がうまれるのだ、というふうに、わたしは感じている。
宇宙線は目にみえない。目にみえない宇宙線を観測し記録するためには、それを目にみえるかたちでとらえる装置が必要になる。「ウィルソンの霧箱」とよばれる装置は、それである。
宇宙線は、天空のどこかから、たえず地球上にふりそそいでいて、だれの大脳をも貫通しているはずだ。したがって、「発見」はだれにでもおこっているはずである。それはしかし、瞬間的にきえてしまうものだ。そのまま、きえるにまかせるか、あるいはそれをとらえて、自分の思想の素材にまでそだてあげるかは、その人が、「ウィルソンの霧箱」のような装置をもっているかどうかにかかっている。「発見の手帳」は、まさにそのウィルソンの霧箱なのである。

みごとな文章である。この文章を引用したくて、今日のblogを書いているようなものだ。
技術的なことは、このあとの二次的な問題となる。
▼こうして見ると、このblogは、私の「読書カード」のような役割をさせることてもできるなと思った。
▼三学期3日目、私の「ウィルソンの霧箱」はなにをとらえることができるだろう。

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つん読!?いつか

▼始業式だった昨日、少し遅めに家に帰ると、例のAmazonからの包みが2つ机の横に置いてあった。一昨日も、同じくAmazonからの箱が届いていた。「また、読みもせん本ばかりかってどうするん!!」「本なんか読んどる暇会ったら、ちょっとは・・・」こんな声聞こえてきそうだ。(^^;ゞポリポリ
▼このごろ、ほんと本屋にいかなくなってしまった。最初は、bk1だった。そして、Amazonに変わった。オンライン書店で本を買いだしたはじめは、感動だった。田舎に暮らす人間には画期的であった。手に入れたい本があるけど、それはまた神戸でも出張にでかけたとき捜して買うか。だったものが、「この本が欲しい」と思って、注文すれば速いときだと翌日にも手に入れることができるから、これはびっくりである。最近では読みたいけど、絶版になってしまい入手困難だった本まで、簡単に手に入れることができるようになった。それも破格的な値段で。
便利になったものである。しかし、これがまた困りものである、ついつい衝動買いばかりしてしまうのである。財布のなかみをチェックしなくて、興味の赴くままに・・・。妻のことばを借りれば『読みもしない本を・・・』<(_ _)>
▼昨日着いたのは、『「手帳ブログ」のススメ』(大橋悦夫著 翔泳社)と『インターネットコミュニティと日常世界』(池田謙一編著 誠信書房)である。一昨日は『新・知的生産術ー自分をグーグル化する方法ー』(勝間和代 ダイヤモンド社)である。こうしてタイトルをならべてみるとなぜ触手がはたらいたのかなんとなくわかりそうである。
目次を確認するパラパラと読み始める。「当たり!!」だったかどうかは、そのときに決まる。とりあえずは「つん読
」である。
▼「つん読」は、スペースが必要だしなによりもったいない。少しだけ弁解すると、「つん読」もすごい威力を発揮するときもある。一度は読んでみたいと思って手に入れているわけだから、それなりに興味を惹くところがあったのだ
。時間をおいて「つん読」で寝かせておくと、また入手のとき同じ興味が湧いてくると即読めるのである。これはありがたい。それで夢中になって読んでしまうこともしばしばである。
 さて、この三冊、「つん読」で寝かせておくが、いつ起きあがってくるだろう。
「買っておいて良かった」と思える日はくるのかな。
▼3学期2日目、今日はどんな「発見」があるだろう。
今から、一日の「取材」準備をしてでかけよう。p(^^)qガンバッテ!

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「発見の手帳」(1)

▼今朝は、起きて外に出たら、なんとすごい霧である。オリオンはもう沈んだかどころではないのだ。未明の闇だからよけいだろう。さて、続けることができるときに続けてみよう。『知的生産の技術』である。前回は、ここまでいこうとして、「はじめに」だけで圧倒されてしまい、ここへいけなかった「発見の手帳」である。
▼第一章「発見の手帳」(P21)これまた、内容豊富である。ダ・ヴィンチの手帳から始まる。あの万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチである。googleで検索していると、どうやら今はネットで現物を見ることこともできるようだ。たいへんな時代になったものである。そのこと書いているとわき道へそれてしまうので先にすすめる。
ダ・ヴィンチの手帳にいたく感動した梅棹は「発見の手帳」にいたるのである。
▼自分たちで開発していった「発見の手帳」なにがどのように書かれていたのだろう。少し引用したいと思った。しかし、それをやっていたら時間を食いすぎる。要点だけまとめて見ると、
 ・この手帳では「発見」を書くのである。
 ・毎日の経験のなかで、なにかの意味で、これは面白いと思った現象を記録するのである。
 ・文章で記録するのである。
・・・・・・・・・・・・・・・ここまで書いていて私の時間がなくなった。またの機会にする。つづく

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▼昨日は、七草粥を食べる日、我が家の「七草粥」を記録しておく。さあ今日は始業式だ。どんな「発見」のある一日となるだろう。

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【Web更新1/6】教師のための情報学入門

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  初春の 校庭そっと バラ蕾
  08/01/05 (土)撮影@香寺
楠田純一の【理科の部屋】定例更新のお知らせです。
◆表紙画像 校庭の樹木シリーズ バラ
  初春の 校庭そっと バラ蕾
  08/01/05 (土)撮影@香寺

 バラを樹木シリーズに入れていいのかな。ともかく今年も校庭の樹木シリーズ続けます。まだ、まだ名前のわかっていない樹木もある。季節の変わっているので再登場、再々登場もありうる。そんなつもりでいきます。正月休みの余韻の残る校庭に、めだつことなく「そっと」バラ蕾が淡い色をおいてくれていました。正月のあでやかさでなく、さりとて厳寒のきびしさでなく、暖かな色合いで。
教師のための情報学入門
 20世紀末に、大袈裟なタイトルをつけて設けたページです。しばらくほったらかしにしていたのですが、blogやSNSのことも含めて状況が大きく変化してきたように思います。そこでこのWeb2.0時代に合わせて、以前作っていたページをベースにしながら、自分で使いやすいように改変しようと思います。多くの人から学びながら・・・。今、再々度ここで読み始めた『知的生産の技術』、これを読みすすめることで得られた成果も生かせたらと思っています。

▼昨日は、「初講」に出かけた。いろんな年代の人があつまっている。だんだんと代替わりがしてきていることはたしかなようだ。来年度は、私の家にあつまってもらう予定である。
▼今朝7日は、「七草粥」を食べる日、我が家では、「七草」は、七種類でなくナズナを「ななくさ」とよび、それで代用している。なんとも手前勝手な知恵だ。(^^;ゞポリポリ
 それにしても、みごとなものである。この「七草粥」とは、正月でご馳走をたらふく食べて、弱った胃腸にやさしくした「粥」を食べる。そこへ、旬の野菜をいれて。みごとだ。「常民の科学」はここにもあるのかも。
そう言えば、庄司和晃さんの年賀状一口コメントは「まだまだ常民の力を発見して下さい」だった。
春の七草については、リコリスさんの「春菜摘みと春の七草」がとても参考になり、面白い。

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『知的生産の技術』を読む

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▼昨日も年賀状の整理を少しだけやった、返信応答の分がいくつかあったので。そのあと、仕事に出かける。いくつもの「未整理」の仕事がある。それも、ゆっくりゆっくりと…である。
▼今年の抱負の第一に「まずは整理」をあげている。またキーワード「楽しむ」だとあげている。そんなこともあって、新年になってからはじめていることがある。それは『知的生産の技術』(梅棹忠夫著 岩波新書 1969.7.21初版)を読むことである。言わずと知れた、あの名著である。すきま時間を使ってだから、一挙に読んでしまっていない。それに、なかなか理解のゆっくりの私だから、そうはならない。ゆきつもどりつ、もどりつ・・・である。
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▼初版は1969.7.21で、私の手元にあるのは、第12刷で1970発行である。なんと古い話だ。はじめて手にしたのは、私が大学生のころということなる。どんな経緯でこの本を手にしたのか、記憶にない。きっとブームになっていたんだろうと思う。発刊から一年で12刷まで言っているのだから。すぐ読んで、自分の勉強法にでも生かしたのかというと、そんな記憶はない。ただ、この仕事をはじめてからは、何度か読んだ記憶がある。それを意識してこんな文章を書いたこともある。22年も前のことである。
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▼この仕事をはじめてから、意識的に読んだのだろう。その痕跡が線を引いたり、マーカーでしるしを付けたりしていることからわかる。マーカーも変色しているので歴史を物語っている。読めないような字の落書きもある。再度(何回目か)読み始めて、すぐはっと思った。やっぱりそうだ、「ここにすべての原点がある」と。
▼何度目かの読みの時には、ここに書かれていること、そのままやってみようと、試みて挫折もしている。それは、追い追いに語っていこう。私は、ここで思いついたのだ。今度の読みは、このblogで書き込みながら読んでみようとおもったのだ。記録として残しながら、ある程度公開もしながら読む。ひょっとしたら、面白い情報が飛び込んでくるかも知れない。
今、読むからこそ価値が生まれることもある。
ゆっくりと、ゆっくりと読みながら等身大に語ってみよう。
「今」と「これから」を考えるために。
▼ページをめくりはじめる。ところで、この「知的生産」ってなんなのだろう。もはや、この言葉はいっぱんに使われているし、わかりきったことのように私たちも使っているが、翻って考えてみると即答に窮するのである。まずもって語っておきたいのは、この著で使われたのが始まりであるということだ。梅棹の造語なのである。(P9)
さて著者はどう言っているか。
 

ここで知的生産とよんでいるのは、人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合である(P9)

また、こうも言っている。
 
かんたんにいえば、知的生産というのは、頭をはたらかせてなにかあたらしいことがらー情報ーをひとにわかるかたちで提出することなのだ(P9)

ここで改めて認識した。知的生産によって、生産されるものはなにか。それは「情報」なんである。これで人に聞かれても答えれるぞ(^o^)
 はやくも大きな収穫だ。読んだはずだけど、こんなこと書いてあったのかな。読んだつもりになっていただけなのかも知れない。なんと今日的なテーマなんだろう。
▼今日的提言が続く。「知的産業の時代」「生活の技術として」「現代人の実践的素養」「物質的条件の変化」「個人の知的武装」と、知的生産活動のすすめが続く。えっ、これはいつ書かれたものと疑いたくなるぐらいだ。とてもではないが、40年も前に書かれたとは思えない。そして、自分で自分を疑ってみる。「これをほんとうに読んだのだろか」と。著者はきっぱりと言い切る。「今日は情報の時代である」(P15 2行)なんという時代の読みだ。
▼「はじめに」のしめくくりは「この本のねがい」でしめくくる。これがまたすごい提言のでいっぱいである。「知的生産の技術には、王道ないだろうとおもう。」(P20 6行)と言い個人の「知的生産活動のすすめ」を次のようにしめくくっている。
知的生産の技術について、いちばんかんじんな点はなにかいえば、おそらくは、それについて、いろいろとかんがえてみること、そして、それを実行してみることだろう。たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。(P20)

▼なんと、とんでもないことをはじめてしまったものだろう。これが今の正直な気持ちだ。最初は、軽い気持ちだった。blogにでも書きながら読めば、記録も残しながら自分の「整理」にもなるかな、という。書き始めたときは今日のタイトルは「発見の手帳」であった。この本の次の章のタイトルだ。そこまでまったく行かない。
やっぱり、私は「ゆっくり、ゆっくり」なのだ。「ゆきつもどりつ・もどりつつ」である。
しかし、わかったことがある。繰りかえすが、すべての「原点」はここにあるということだ。
次は、いつ書くかわからない。でも必ず、「blogで『知的生産の技術』を読む」。これは決めたこと。

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『ウエブ日記のすすめ』

▼4日(金)は仕事始めだった。年末年始の休日のあいだにそれなりに仕事はたまっている。ひとしきり片付け仕事をする。次にあたらしい仕事も次々と入ってくる。学校が動きだしているのである。あたりまえである。さあ、どんな一年になるだろう。抱負に描いたことができればいいのにと願いつつの仕事始めの一日であった。
▼ところで、このblogであるが、今年に入って5日目の書き込みになる。「三日坊主」は過ぎたのかな。でもわからい、仕事が混んでいけば当然。まあ「三日坊主」でもいいではないか。それを2回続ければ「6日坊主」3回続ければ「9日坊主」になる。やめれば、またはじめればいい。やめること恐れてはじめることに躊躇していては、ほんとうになにも始まらない。継続していれば、それなり意義も生まれてくると思っている。過去の何度もの失敗から。
▼ところでこの「日記」のことで、以前からちょっと気に入って文章がある。 『ネットワークと教育』で、私がHPをつくりはじめたころ、その意義について示唆をいただいた森山和道さん
の書かれた文章で『研究者の方々へ、ウェブ日記のすすめ』というものである。これもずいぶん以前に書かれたものである。メールマガジン『Popular Science Node』Vol.002(1999.06.29発行)記載されたというから、今のブログなどがブームになるずっと以前の話である。「ネットワークと教育」でもそうであったが、この先見性に驚く。同時に尊敬もしてしまう。20歳近く私より若いのだが、このひとには何が見えているのだろう。
▼日記に話をもどすと、『ウエブ日記のすすめ』で森山さんは、

人間の記憶というのは非常に曖昧である。一週間前のことならなんとか覚えていても、一ヶ月前のことはほとんど忘却の彼方だ。そのような状況を防ぐためにもなるし、共同研究者への進行状況報告にもなる。だから研究者にもメリットのない話ではない。

といい、また繰り返し
それに、繰り返すが人間の記憶は曖昧だ。功成し遂げた人があとになって思い出して書こうとしても、生々しい臨場感や雰囲気を再現するのは至難の業である。無理だと言っても言い過ぎじゃない。「寝かせる」ということも大切だが、その折々にしか書き得ない言葉というものも、また、ある。そのための備忘録としても、日記はおすすめである。

とウエブ日記発信のすすめを書いている。
▼ここでは「研究者の方々へ」として書いておられるが、Web2.0時代の今、それは研究者に限らないWeb発信をするすべての人々へのメッセージとも読みとれる。「日記の面白さというのは、ダラダラと続く日常を積分した結果として感じ取れるものだから」とも書かれている。誰もが生活者だ。
日常生活をダラダラと等身大で綴っていく。それを積分していくと、とんでもない意義や発見があるかも知れない。
やめようと思ったり、やめたら、またこの『ウエブ日記のすすめ』もどればいい。
▼さあ、今日も、明日の日記の取材に出かけよう。

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ゆっくり行く者は 遠くへ行く

▼昨日(3日)は、大学のOB会に行った。これも私のお正月の恒例である。恒例であるから、やっぽどの異変がないかぎり出席している。卒業してから30何年か経つわけだから、ずいぶん長く続けていることになる。同年輩もしくは先輩が中心である。
▼出る話は大学時代の思い出、自分の今日この頃話である。毎回面白い話が聴ける、教えてもらえるのでうれしい。私にとっては業界ちがう人間ばかりだから、語る人をとおして「世間」を教えてもらえるのがありがたい。
同じ世間でおこっていることを語るにも、自分には、まったくなかった視点でそのことを見ている。それがすごく新鮮で斬新である。自分にとっては刺激になる。お互いが、そのことを認識しているからこんなに長く続けてきてこれているのかも知れない。
▼思い出話も面白い。なぜ人は、何十年も前の「思い出」を鮮明に記憶していることができるのだろう。脳の記憶の回路というものの仕組みを知りたくなってしまう。「あのとき、○○さんは、何色の服を着ていて・・・」「下宿させてもらっていた家のおばあちゃんが」なぜだろう。そんなことまで・・・。自分の青春の季節(とき)というのは、特別の記憶装置にでもしまい込まれているんだろうか。
▼私よりも、少し先輩が多いから、世にいう「団塊の世代」が中心だ。私は、少し遅れている。私の世代というのは、なんでも遅れている。いわば、「ポスト団塊」の世代である。世代が遅れているなかでも、また私自身が遅いのである。
遅れているのである。動作も、頭の回転も(^^;ゞポリポリ、人と比較しても意味ないがやっぱり・・・。友人から言わせると「昔からそうだった」そうだ。
▼そんなら、少し居直り気味に。気に入った言葉ある。確か、たまたま見たプロフェショナルの流儀で知ったのだが 『ゆっくり行く者は、遠くへ行く』(フランスの諺、一説にはイタリアとも)これである。なんでもゆっくりで、鈍くさい、私はこれでいくしかない。そんなことを考えさせてくれるOB会だった。
▼さあ、今日から仕事だ。

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能勢妙見山に初詣

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▼昨日(2日)は、我が家恒例の能勢妙見山に初詣に家族3人で出かけた。ここに家族で初詣にでかけるようになったのはいつごろからか、はっきり憶えていないが、私が小学生のころ今は亡き父が、正月の朝早く真っ暗ななか雪の能勢妙見山に連れていってくれた記憶があるから、ずいぶん古い話だ。
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▼今年は、少し雪・凍結が心配されたので時間を遅くして、8時30分頃に出発した。中国縦貫道を利用して、100kmの道のり、約2時間かかった。到着すると心配していた雪はさほどのことはなかったが、ともかく寒かった。
山門にかかっている温度計をみると零下を示していた。昨日(元旦)はさらに寒かったようだ。
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▼お参りをすると、毎回、本殿のまわりを年の数だけぐるぐると回る。ぐるぐると回りながら、今年一年を展望し、今年の抱負を頭に描く。これも恒例である。
▼最近、妙見山の山門の前に、「星嶺」
というえらく近代的と思える建物が建っている。妙見大菩薩の降臨をイメージしたものであるという。さらにページ
を見ているとこんなことが書かれている。『妙見大菩薩は、太古の昔より凛々と天空に輝いて北を指し示す北極星(不動の北斗)を真理の象徴とする北斗信仰が起源となっています。』
太古の人々、科学以前の人々の目には、不動の北極星は、いや北極星にかぎらず星々は、どのように映り、それは生活とどう関係していたんだろう。そんなこと考えながら、「星嶺」でお茶いっぱいごちそうになり、妙見山を後にした。

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知之者不如好之者、好之者不如樂之者

▼私は、元旦の「今年の抱負」を『ともかく今年の抱負のキーワードは「楽しむ」である。』としめくくった。そしたら阪本さんがコメントでこの楽しむについては論語にいい言葉があります。「これを知る者はこれを好む者に如かず これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」
私はこれは実に的を射た言葉だと思っています。
と応答してくださった。
▼私の思いを掬い取ってくださったのだ。これまたなんとうれしいことだろう。自分の思いを増幅させてもらったのである。「響き合い・学び合い・高め合う」とはこのようなことをさして言うのだろう。応答のある世界に魅力を感じてはまってしまうのは、こんなことがあるからだ。これは、パソコン通信をはじめたときからそうなのである。ヒューマンネットワークとはこのようにし構築されていくものなんだと思っている。
▼阪本さんが紹介してくれた論語の「知之者不如好之者、好之者不如樂之者」この言葉を読み返していて、思い浮かんだのは「コンヴィヴィアリティ」という言葉だ。
この言葉をはじめて知ったのは『インターネットが変える世界』(1996.2.20岩波新書)を読んでだ。この著で「コンヴィヴィアリティ」について次のように述べている。
「コンヴィヴィアリティ」という用語に訳語をつけるのは難しい。辞書をひくと、「宴会気分、陽気さ」と言った訳語がついている。雰囲気はわかるが、用語としてはちょっと使えない。ともかく「みんなで一緒にいきいき楽しい」というニュアンスの言葉である。(前著p6)
もうひとつ同著同ページから
「イワン・イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』を読んで感銘し、それを実現するためにパーソナルコンピュータをつくった」という説明をしていたのである。」(同著p6)
▼この言葉を知ったひととき訳も分からぬまま、気に入ってしまいいたるところで使っていた。あまり多用していたので辞書登録までしてしまっていた。「コン」と打てば「コンヴィヴィアリティ」と今も出てくる。『コンヴィヴィアリティのための道具』の訳本まで購入している。つん読になってしまっているが。(^^;ゞポリポリ
▼もとにもどる「楽しむ」である。「一緒に楽しむ」にして、この「コンヴィヴィアリティのための道具」=パソコンもフルに活用しながら「一緒に楽しむ」一年にしたいものである。今年の抱負の追加(集約・増幅したものというほうがふさわしいかな)である。
▼今日は、朝早くより初詣にでるつもりである。

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今年の抱負

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  初日の出 ひとりじめなり ヒガンバナ
       2008.元旦 @福崎

▽ ちょっと熊楠の真似をしてしまいました。

▼新年が明けた。2008年元旦である。元旦にここに書き込むのははじめての体験である。
 あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

昨年の最後は「今年の重大ニュース」でしめくくったので、新年は「今年の抱負」からスタートする。
三日坊主にならないことを願いつつ。
1 全ての「整理」をしよう。
整理ベタを自認している、毎年の定番である。でもここからしかはじめられないのだ。何をどう「整理」するか。ここ何年か、頭には描いてきた。
【S】=【F】=【P】連動システムである。
【S】システム手帳をベースとした時間管理。
【F】袋ファイルを使って書類関係、ペーパー管理。
【P】パソコンで「情報」管理。
「整理」を創造的な営みへと転化するためには、徹底してやることが大切だろう。
とりわけ、今年は【S】を大切にしたい。与えられた時間には限りがある。「限り」があるからこそ、より楽しく充実させる必要がある。
2 積極的に情報発信をしよう。
 「情報は、発信するところに集まる」私の持論である。これは、いろんなところで提唱し、自分でも日々実感しているところである。Web2.0の時代になって、情報発信の方法はいろいろできてきた。それらを駆使して情報発信を楽しみたいものである。
楠田純一の【理科の部屋】このWeb発信の面白さは、最近また再認識しているところである。わずかながらも、更新を繰り返し「蓄積」してきたものが威力を発揮し出すのだ。自分自身のための「蓄積」でありながら、それは同じことを志向する人にとっての有用な「情報」としてはたらく。情報の検索技術のとてつもない進化によって、新たな意味をもちはじめている。コンテンツの更新も、少しずつゆっくりとはじめよう。ヒューマンネットワークの力をかりながら。
【理科の部屋4】@folomy「Web2.0時代の日本の理科教育情報発信基地」【理科の部屋】は、今年の11月で15年をむかえる。Webの歴史とともに歩んできたコミュニティといえる。mixi版【理科の部屋】とも連携・連動しながら、いくつもの取り組みを楽しみながら展開していきたいものである。
「日本ヒガンバナ学会」こちらは昨年のお彼岸の中日に立ち上がったばかり、今年はもっともっとたくさんの方に参加していただいて、一緒に楽しくヒガンバナを追いかけたいものである。50人越えるとURLをもらえるそうな。まずは、それをめざしたいな。
私の【理科教師日記】
そしてここだ。blogの面白さを実感できるようになってきた。継続発信の成果かも知れない。昨日(大晦日)に久しぶりにトラックバックがあった。『これからホームページをつくる研究者のために』の著者岡本真さんのblogからであった。うれしかった、感動である。blogで「繋がった」という実感である。私にとっては大きな「お年玉」をいただいた気分である。背伸びすることなく、等身大の世界をできるだけリアルタイムに楽しみながら語りつづけたい。
まだまだあるかも知れない。ひょっとしたら今年新たな世界を知ることになるかも知れない。
ともかくWeb発信を楽しむこと。そしたらきっと、私たちの夢の「響き合い・学び合い・高め合う世界」がみえてくるだろう。
3 一日一日の生活を大切にし、楽しもう。
ひょっとしたら、これが一番先にくることかも知れない。
・一日一日の「生活」を大切にして、「生活者」であろう。
・一日一日の「仕事」を大切にして、楽しみながらやろう。
・ひとつぐらい山も登りたいな。旅も (^o^)
・健康管理に気をつけて元気でやりたいな。

ながながと書いてしまった。まあ、お正月バージョンということで・・・。
ともかく今年の抱負のキーワードは「楽しむ」である。

 

 

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