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「京大型カード」(2)

▼三連休明けの昨日は、いろんなことが一挙にやってきた日だった。「忙」しいとは、「心」が「亡ぶ」と書く。「いそがしくして、こころをほろばすことなきように」は、とは誰の言葉だったんだろう。書物にでも書いてあったのだろうか。心が楽しいそがしでありたい。多忙でなく「多望」でありたい。
▼『知的生産の技術』を続ける。「京大型カード」の私の場合を書いた。それを続ける。本にそって言うなら第三章「カードとそのつかいかた」(P49)になる。本に沿いながらも、できるだけ自分の場合にひきつけ、等身大に読み、等身大に語っていく、これはこれまでどおりである。
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▼「授業づくり」に一番よく使ったカードであるが、それ以外にカード一本にすべくいろんなことにこれを使っていた。ノート、手帳のかわりだから当然である。住所録や読書カード、日記などにもつかっていた。著者も書いているように「もってあるく」(P58)必要性も出てきた。そのときには、カードのためのバインダーが市販されていたので、それを使っていた。これを研修にいったり旅行にでかけるときも持ち歩いていたように記憶している。
そのカードは貯まってくれば、カードボックスに入れて保存をしておくようにした。一旦保存をしてしまったら、そのままになってしまったカードもいっぱいある。なんのために書いたのやら・・・(^^;ゞポリポリ
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▼カードに書くことに言及した部分がある。ここになかなか示唆的な話が出てくる。

カードにかくのは、そのことをわすれるためである。わすれてもかまわないように、カードにかくのである。標語ふうにいえば「記憶するかわりに記録する」のである。あるいは、「頭にいれずにカード・ボックスにいれる」である。(P54)

続けて、今日的なことが出てくる。
その点、カードはコンピューターににている。コンピューターも、人間のかわりに機械が記憶するのである。たしかに、このふたつの「装置」には、どこか共通点がある。どちらの知的生産のための道具としては、いわば「忘却の装置」である。(P54)

 なんと、40年も前に、こんなことが書かれていたんですね。私がコンピュータに出会うのは、うんと後だった。(89年12月にはじめてパソコンを購入している。この文章が書かれた20年後ということになる)だから、最初に読んだときには、ここには線もひいてないし、なんのことかもわからなかったのだろう。
▼コンピュータとカードの類似性の指摘は、すごく面白い。実はここがいちばんの醍醐味というか。「知的生産」ということばを創った大元にまでもどって、今日とこれからの「知的生産」の手法、「技術」を考えていくのだ。と言えば飛躍しすぎだろうか。また、つづける。

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ドブリ、ヴェーチャル......なぜか、ロシア語。知的生産の技術を買ってきました... [続きを読む]

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