【Web更新1/29】12-05 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

Dsc_0480


赤き実や 顔ゆるみたり 寒のやま
12/01/29 (日)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-05
週末定例更新のお知らせ
 今年になって5回目の更新だ。今週末には2月になってしまう。
2012年も1/12は過ぎてしまうのである。なんというスピードだ!!
週のはじめには、今立っている位置と自分のスピード確認をして、一週間後を想定してみる。しかし、想定どおりだったことなんてまずない。それが生きていることなのかなと思ったりする。

◆表紙画像集2012 人里の植物シリーズ
 週末に扁妙の滝に行った。すごい風景にいっぱい出会った。出会ったすごい風景のひとつをここに貼りつけようと思った。しかし、それはやめにした。
 ここに掲げる画像は、特別のものでなくごくありきたりの「日常」のものにしたかった。そう思って、昨日朝からいつもの定例散策コースを歩いてみた。寒中の里山は色彩を失っていた。
 そんななか赤い実に出会うと、なんともほっとした気分になるのである。こわばった顔もゆるむのである。

◆サイエンスコミュニケーター宣言 更新!
 「日本理科教育史」を追う旅も、少し強引だが1970年代に入る。
1970年代は、私自身が「教える側」に立ったときでもある。
よりリアルにその「歴史」を語れるかも知れない。これまでのいろんな資料の「整理」もかねながらすすめたいと思う。あくまでねらいは「これからの理科」の構想にある。
ゆっくり 急ごう !! 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイエンスコミュニケーター宣言(120)

Dscn1091_2
▼土曜日は、定例の大蓮ハスの観察日。蓮根の植え替えから41週目である。特別になにか大きく変化が見られるわけではない。しかし、画像記録としてあげておく。
Dsc_0216 滝にくわしい知人から、近くの「扁妙の滝」が凍っているという情報をいただいた。近くにいながら、まだこの滝の凍っている様をこの眼でみたことがなかった。昼近くの時間になってしまったが行ってみた。
はじめてこの目で見て驚いた。
 その自然の創り出す美しさ、迫力!!しばし、言葉を失った。
▼ここで「日本理科教育史」を追う作業も、自分ですごく面白く感じるときと、あまりそうではないときのムラが出てきた。ときに「なんで、こんな作業をしているだろう?」と疑問浮かぶときもある。
 そんなときは、自分で自分に命じるんだ。
・等身大で行こう。
・やって楽しいと思えること優先させよう。
・「○○すべき!!」よりも「○○したい!!」を優先させよう。
・道楽的だ!!
と。
▼1960年代でもっともっと追い詰めたいこともあるが、1970年代に話を移して行こうと思う。
どうしても必要なら、また60年代にもどってこよう。
1970年代の「歴史」のなかで、もっとも「記録」しておきたいのは
●1975年(昭和50) 公立中学校理科教師になる。中学1年理科を担当。
である。
 私自身の理科教師としての歴史がはじまるのである。
「教わる側」から「教える側」にかわるのである。
ここからは、自分自身の言葉と資料で語ることができるのである。
ありがたい!!
▼このblogで三つの「試論」を展開していた。
・新・私の教材試論
・クラウド「整理学」試論
・新・「自由研究」のすすめ試論
である。
 これらも同時並行ですすめながら、この「理科教育史」を追う作業をすすめたい。
責務としてでなく、道楽として…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ウィームシャースト起電機を見た!!

Dscn1003

▼私には、自覚しているだけでふたつの持病がある。
「ばっかり病」と「思いついたら病」である。自覚があるといっても発症しているときは、ほんとうはそうだとわかっていないのかも知れない。後でゆっくり考えてみると、そうだったのではないかとわかる程度の自覚である。
特に後者の「思いついたら病」はそうだ。今、考えるとわかる。昨日はこの「思いついたら病」が発症していたのだ。
▼昨日は、何を思いついていたかというと、「エレキテル」である。
私には、ずっとずっとこだわりを持ち続けている教材がいくつかある。そのなかでも「ピンホールカメラ」と「エレキテル」は特別である。教材試論の方でも「ピンホールカメラ」とりあげながら、そのままになっている。気になっている、絶体に忘れているのではない。もうひとつの「エレキテル」なんて、ほったらかしにしてずいぶん時間がたっている。こだわりはじめてからだと30年近く時間が経過しているかも知れない。
▼「日本理科教育史」を追いかけるなかでも、ちらっとでてきた。気になったが、それはまた別にやろうと思い保留しておいた。そのはずだった。
 ところがそれが、疼きはじめたのである。冬で「静電気の季節」だったからであろうか。それとも1960年代の理科の「教材」は?と、教材のことをかんがえていたためだろうか。
 ともかく私は、「エレキテル」のことが頭に浮かび、あのいつか自分の目で見たいと思っていた「島津の起電機」が急に見たくなったのだ。二代目島津源蔵が若干16歳(15歳という資料もあるが今回は確かめなかった。)で、つくりあげたという「ウィームシャースト起電機」のことは話に聞いて知っていた。
▼初任のころ理科準備室にほこりをかぶってねむっていたあいつだ。ひっぱりだしてきて電気を起こして遊んだ。面白かった。もちろん授業でも使っていっしょに遊んだ。はじめてその「ふしぎ!?」であい驚き感動もした。
その元祖が京都にある。
 「思いついたら」居てもたってもいられなくなった。家を出たのは8時30分頃であった。
「島津製作所 創業記念資料館」の前に立ったのは11時30分前だった。
ちょうどお昼前だった。このまま入れば、途中でお腹がすいて集中できなかったら、せっかく来たのに「もったいない」。コンビニ寄っておにぎりを三個買って、高瀬舟の船着き場(一之船入)でそれをほおばった。
これで万全であった。あこがれの起電機に出会える。
▼創業記念館に入った。入ってすぐのところにはX線装置がおいてあった。国産初の顕微鏡も…。日本初の有人飛揚の気球の話も面白い。…
 せっかく来たのだからどれひとつとして見逃したくなかった。
写真撮影はかまわないということだったので、写真をとりまくった。
お目当ての 「ウィームシャースト起電機」は二階にあった。びっくりした!!大きいのである!!あの理科準備室でみつけたやつより、ひとまわりふたまわり大きいのである。
さすがだ!!館の人に聞いたところではいくつかのサイズのものがつくられていたようだ。
このジャンボ起電機を使ってぜひ実験をやってみたいものである。
▼館内には、それだけでない理化学機器がところ狭しと展示してある。
なつかしい実験器具がいっぱいである。いくら見ていても飽きることはない、あのワクワク気分が堪能できるのである。あのノーベル賞の田中耕一さんのコーナーもある。
「思いついたら病」も少し癒された気分で外に出たときは15時近くになっていた。
▼せっかくだから、近くのもうひとつの場所にいった。
「京都市学校歴史博物館」である。
なかなかすばらしい博物館である。京都の人々の「教育」にかける情熱を感じさせる展示の数々である。
さすが京都の教育!!である。
 私にとっての驚きは、そこだけではなかった。あの「ウィームシャースト起電機」をここでも見たのである。
それも、二台もである。理科実験をしているところの写真もある!!
館をでるとき聞いてみた。こんな「起電機」が京都にはたくさん残されているのか、と。
ここだけでも4~5台あるようだ。他のめずらしい実験機器や写真も残っているようだ。
私は、それを聞いてさらに満足した。

さて、今度はどこで発症するだろう?
この「思いついたら病」。
自分でもわかっていないあいだに発症するから困ったものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイエンスコミュニケーター宣言(119)

Dscn0563

▼いつしかきまった方向の空をみあげて、「雲見」をやろうとしている。そうだ まだ昔のように、決まった「雲見」の定点がなかったのだ。一度はこの方向にと決めたつもりでいたが、その方向は太陽の方向から考えてもいまひとつに思えてきた。だから、もう一度検討して見ることにしたのだ。今はまだ検討中!!
 それも空を見上げること多くなっている。安上がりの贅沢だ!!
一日でいちばんきれいな空の夜明け前、昼間の「雲見」、夕方の月と金星、凍てつく透明な夜空の星たち、…
24時間、いつでもどこからでも地球自然観察!!これを見逃すのは「もったいない」すぎる!!
▼その透明な空と相反して、「日本理科教育史」を作業は、きわめて透明度を失っていた。
もたついているのだ。自分が生きてきた時代だから、皮膚感覚でわかることがあるのではないか、「記憶」の断片が頭のどこかにあるのではないか、そんな見込みがいつしかこれまでの客観的視座を失わせていた。
「わかっているつもり」「知っているつもり」これがいちばん危険だ!!
▼主観的視座は今一度保留にしておいて、これまでと同じ作業をやってみよう。
1960年代の「科学」をもう一度、例の『近代科学・技術に関する出来事年表』(村上陽一郎著『人間にとって科学とは何か』より)からていねいにプロットしなおしてみよう。

●1961年(昭和36) ガガーリン(ソ)初の有人宇宙飛行。西独でサリドマイド禍発覚。
●1962年(昭和37) 東海村国産原子炉JRR3稼働。カーソン『沈黙の春』。世界初の通信衛星テルスター(米AT&T社)。富士ゼロックス国産コピー機。NEC国産大型電子計算機1号機完成。
●1963年(昭和38) プレートテクトニクスの実証。クエーサーと赤方偏移の発見。黒部ダム完成。水俣病の原因解明。
●1964年(昭和39) ゲルマン、ツヴァイク(いずれも米)がそれぞれクオーク理論。
●1965年(昭和40) ベンジアス、ウィルソン(いずれも米)宇宙の3K背景輻射の発見。集積回路(IC)をもつ第三世代コンピュータの開発(米)。国鉄電子化(緑の窓口)。カオ(米)通信用光ファイバーの実用化に貢献する提案。
●1966年(昭和41) ルナ9号(ソ)月面着陸。マンモスタンカー時代の到来。
●1967年(昭和42) 南アで初の心臓移植手術(なお人工心肺の開発・実用化は53年)。ワインバーグ(米)の統一場の理論。バルサーの発見。ソューズ・サリュート・プログレス計画(ソ)。
●1968年(昭和43) 「和田心臓移植」事件。ポケットベル実用化。水俣病公害認定。
●1969年(昭和44) アポロ11号月面着陸(ニール・アームストロングによる月面探査)。住友銀行日本初のATM。東名高速全面開通。B747実験飛行(ジャンボ時代)。インターネットの誕生(米国防省)
●1970年(昭和45) 国産衛星「おおすみ」打ち上げ。日本で光化学スモッグ認知。スモン病因解明。この頃から世界的に環境問題への認知が高まる。

▼やっぱりそうだ。こうしてみると60代の「科学・技術」が今日つながっていることが見えてくる。そして、その科学・技術の進歩が、当時の「理科」に何を要求していたのかが少し見えてくる。
「系統学習」から「探求学習」への必然はここにあったのだろうか。
理科室の「理科」を通して、どのように未来の「科学」は見えていたのだろうか。
もう少し時間をかけてみよう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイエンスコミュニケーター宣言(118)

Dscn0524

▼そう それらは隊列を組んで生野峠の方から進軍してきているように見えたのだ。昔から言われてきた「生野峠越えるときは、弁当忘れても傘忘れるな」とは、この季節の話なんだろうか。ついには夕方には、少しだけ雪を落としたようだ。
▼「日本理科教育史」を追う、1960年代で少し立ち止まっていた。
「教わる側」の「理科」の記憶を思い出そうとしていた。しかし、何も思い出さないのだ。
これはどうしてなんだろう。そんなに優秀な生徒であったわけではないし、勉学に集中し努力をしていたわけではないので、それを言われるとそれまでなのであるが。
なぜだろう?そのこと自体が「ふしぎ!?」だ。
「鉄腕アトム」
「鉄人28号」
「新幹線スタート」
「アポロ11号」等々はどう「理科」とツナガッテいたのだろう。
▼このころの「理科」は、すでに「科学を教える教科」になっていたのだろうか。
まだ、日本の「理科」は「理科」のままだったのだろうか。
戦後の理科教育は、「生活単元学習」「問題解決学習」から「系統学習」へ。
さらには「探求学習」へと進もうとしていた。
 それは、あくまで「教える側」の「理科」の歩みであり、現実に全国の理科室での「理科」はどのように歩もうとしていたのだろう。それが知りたい。
 そのころの「理科」を記録したものが知りたい、見たい!!
▼我田引水だ。理科はほんとうに面白い教科である。
その知りたい「歴史」は、教材としてモノに記録されているのである。そのころに行われていた実験や教材をみれば、そのころの「理科」が見えてくるかも知れないのである。
そこで…。
  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイエンスコミュニケーター宣言(117)

Dscn0506

▼「雲見」という、自然観察はいちばん簡単にやれる。空を見上げればいいだけだ。でも、それはとても奥が深い!!面白い!!
 昨日の「雲見」そうだった。生野峠を越えてやってくる風は恐ろしく冷たかった。この大陸からやってくる冷たい風が日本海渡るときに…と考えていると、あの「上がるとザアザア(シンシン)」を久しぶりに思い出した。
「雲見」していると、次々といろんなことがツナガッテ見えたりする。それが面白い。
▼今朝も恐ろしく寒い。
1960年代の「理科」を追ってみる。昨日は、「教える側」の「理科」を、手にすることのできる書籍のタイトルでおってみた。考えてみると、私にとっては生徒として「教わる側」の「理科」であったのである。 
小学校・中学校・高等学校がすっぽりと60年代にはまってしまうのである。
●1964(昭和39) 10.1 東海道新幹線スタート。10.10 第18回オリンピック東京大会。
●1965(昭和40) 10.21 朝永振一郎ノーベル物理学賞受賞
●1969(昭和44) 7.21 人類初の月面着陸、アポロ11号。
などと年代を拾ってみると、それはそんな昔のことでなくなるのだ。
しかし、できの悪かった私は、特別の「科学少年」だった記憶がない。強烈に印象深くおぼえている実験・観察も咄嗟にはでてこない。
▼今すぐ、その当時の「理科」を物語る誰もが参照できる資料に例の学習指導要領がある。
1958年(昭和33)の学習指導要領についてはすでに見た。
「系統学習」「近代化」「教材の精選」「中学校2分野制」などがキーワードであった。
60年代の後半にはそれはまたかわるのである。
●1968年(昭和43) 7.11文部省『小学校学習指導要領』告示。理科では<内容の精選/集約>を実施。<卵の孵化>を採用。<ばねの釣り合い>の文章は不適切。

●1969年(昭和44) 4.14 文部省『中学校学習指導要領』告示。理科では<探求の過程>重視を強調。
<基本的な科学概念>の語の乱用。教材の精選のため小項目を大幅に減らす。

いわゆる「探求の理科」のはじまりである。
▼これだけでは、まだまだ見えてこない。
なにを願い、どんな教材開発していったのか。そして、なにより現代とどのように「地続き」であるのか。
さらに角度をかえてみてみよう。

さあ、明るくなったら路面はどうだろう。
雪はどうだろう。 


                  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイエンスコミュニケーター宣言(116)

Dsc_0078


▼やっぱりそうだ。いつもの自然散策のコースから色が消えている。無彩色の風景が続いている。
そう思って周りを見渡しながら歩いていると、藪のなかに日が差し込んで、そこにパッと灯りがついたようにツバキの花がひとつ見えた。その瞬間気持ちにまで灯りがついたように思えた。
▼『日本理科教育史』を追う旅をつづける。
1960年代に入ろう。
・日本の理科教師たちは何をしてきたのだろう。
・日本の理科教師たちは何をしようとしてきたのだろう。
その「歴史」を追ってみよう。本来ベースとしていた『日本理科教育史』付録の年表にもどる。
その年表の1961年~1970年で
・手元にあっていますぐ読むことができる書籍
・それに関連しそうな出来事
をピックアップしてみる。
▼これはあくまで私の個人レベルの話で、別の人が見ればまったくちがうものをピックアップするだろう。
●1961年(昭和34) 9.11~15 PSSC関係者、日本の代表的物理教育関係者約50名にPSSCについての講義セミナーを東京で開催。
●1962年(昭和37) 2.△ 高橋金三郎『授業と科学』麦書房刊
・4.1 中学校新学習指導要領全面実施、理科は二分野制となる。
・6.△ 真船和夫『理科教授論-自然科学教育の内容と方法』明治図書刊 
●1963年(昭和38) 8.3 科学教育研究協議会大会で仮説実験授業を提唱
●1964年(昭和39) 3.1 板倉聖宣/江沢洋共著『物理学入門-科学教育の現代化』国土社刊。
●1965年(昭和40) 6.10 中原正木『科学をこう教える-自然科学教育の本質とその展開』国土社刊。
・10.26 板倉聖宣/上廻昭 『仮説実験授業入門』明治図書刊
●1966年(昭和41) 11.10 板倉聖宣『未来の科学教育』国土社刊(国土新書)
・12.△ 仮説実験授業研究会創立
●1968年(昭和43) 3.1『日本理科教育史(付年表)』第一法規刊
・4.△ 明星学園理科部著『自然科学の教育』麦書房刊。
・8.△ 中原正木『生物学教育論』国土社刊。
●1970年(昭和45) 4.15 明星学園理科部著『自然科学(1) 物質概念の基礎』麦書房刊。

▼ピックアップするだけの作業でずいぶんと時間がかかってしまった。
それぞれのなかみ、実際の授業については次からにする。
ゆっくり 急ごう!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【Web更新1/22】12-04 「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!

Dsc_0009


春まだか ころがりたる実 つぶやくや
12/01/22 (日)撮影@福崎

■楠田 純一の【理科の部屋】12-04
週末定例更新のお知らせ
 ふっとこの頃思うことがある。なんで、私は同じようなことをこんなに永く続けているのだろう?と。
本来あきっぽい性格で、なんでも中途半端であまり長続きしなかったはずなんだけど、ことネットに関してだけはちがうんだ。ほぼ同じスタイルで20年以上つきあってきている。
 アクセスする時間帯までほぼ同じだからびっくりしてしまう。もうそれはすっかりライフスタイルのなかに溶け込んでしまっていた。今いちばん心がけていることは「やりすぎない」ことだ。
ついつい面白くなって「あきるまで」やろうとしてしまうことだ。
時間をきめてどうしても「やってしまう」ことだけに限定しようと思う。今週の「どうしても…」はなにかな?

◆表紙画像2012 人里の植物シリーズ ドングリ
 発想がそんなに豊かでない人間は、自然のなかでやっぱり心ときめくものと言えば、いろ鮮やかな花や実である。この季節はほんとそれが少ない。
 無彩色の世界、それがこの季節の魅力かも知れない。いつも散歩コースあるいていたら、あらたにできた川沿いの土手に、いっぱいドングリがころがっていた。ドングリたちが、「春はまだか」と会話しているようだった。
今年の秋こそ「どんぐり探検」やろうと決意する。

◆「サイエンスコミュニケーター宣言」 更新!
 「日本理科教育史」の旅も、今週はいよいよ1960年代に入る。
1960年代の日本の理科室では、どんな理科の授業が展開されていたのだろう。どんな実験・観察をやっていたんだろう。これはちょうど自分自身が生徒としてうけてきた「理科」でもあるのだ。
どんな展開になるのか自分でも楽しみである。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイエンスコミュニケーター宣言(115)

Dsc_0729

▼それは、大賀一郎が68歳の春だった。1951年(昭和26)三月三十日、千葉県千葉市検見川の泥炭層から約二千年前の古蓮の実を得たのは。
 それから61年経って、その末裔が我が家の庭の「大賀ハス観察池」にある。そこには、ここの大賀ハスだけがもつ固有の「歴史」があり、この大賀ハスの「大賀ハス物語」がある。それが面白いのだ。
 昨日は、定例大賀ハス観察日だった。蓮根の植え替えから40週目であった。観察池の水が少なくなってしまってどうしようかと思っているとき、冷たい雨が降ってきて貯めてくれた。地下の蓮根は水を欲しているのだろうか。
▼昨日は、またひとつの「歴史」がはじまった。
「日本サイエンスコミュニケーション協会」設立の記念シンポジウムが行われたのだ。
USTで参加できるというので、訪ねてみた。
最初は機器の調子がいまひとつでよく聞き取れなかった。途中から聞こえるようになった。それぞれ立場のちがう人々がこれからの「サイエンスコミュニケーション」を語っていた。
 話を聞いているうちに、あの昨年の11/20サイエンスアゴラ総括セッションに味わった疑問と違和感に見舞われた。
 それらに自分なりの答えをみつけたくてはじめたのが、今すすめている『日本理科教育史』を追う作業だったのだ。再度自問してみた。
・私はサイエンスコミュニケーターか?
▼私は、私のやりかたで「歴史」を追う作業をつづけよう。立ち止まっている暇はない。
ついに『教育実践検討サークル~創造する東北の教師たち~』 (中村 敏弘著 国土社 1975.11.5)と年表『あるサークルとゼミの歴史』年表を読み終えた。四回目であった、五回目はあるだろうか、今はわからない。
今回も学んだところいっぱいあるが、具体的なこれからの作業に結びつきそうなこととして、「年表」のことがある。
「あとがき」のなかで中村敏弘氏はこう言った。

 この仕事は、そのあとをついでいる私たち若いものがしなければならないことであるが、莫大なエネルギーを必要とする困難な作業である。そのためか、いまだに手がつけられないでいる。貴重な月日は刻々と過ぎ去っており、やがて歴史は埋もれてしまうかもしれない。いま、誰かが、どこからか手をつければ、それを足がかりとして、他の人が前にのばし、横にひろげることができる。この「歴史」はその役に立つであろう。(同書P590より)

 これまでに何度か決意し、いつしか心が萎えて断念してきたこと。
「年表」をつくる=「歴史」を時系列に記録する。
この作業にとりかかろうと思う。
▼できるだけ小さな等身大の「年表」づくりからはじめよう。
ひとりの作業ではなかなか困難な仕事も、共同でやれば可能かもしれない。
その作業をすすめるなかであらたな楽しみが生まれるかもしれない。
まずははじめてみよう。
来年で【理科の部屋】は、ちょうど20年の「歴史」をもつこととなる。
そこで
◆【理科の部屋】20年史作成
にとりかかりたいと思う。とんでもない困難が待っているかもしれない。
思わぬ挫折があるかも知れない。
 しかし、はじめなければすすまないのだから…。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

サイエンスコミュニケーター宣言(114)

Dsc_0708

▼今日は大寒である。確か寒い。
朝起きてからもまだ続けていた。あの「あるサークルとゼミの歴史」年表を。
もうそろそろこの年表をながめ、チェックする作業も終わりが近づいてきた。
この年表は、3段になっている。
上から「サークル・ゼミ」「宮城県・東北」「その他」である。
「その他」のところにあげてあるのは、全国的な教育界の動きである。
面白いのは、この三段がインタラクティブに連動しているところである。
ほんとうの「歴史」は、一方通行だけでつくられるのではないということだ。
▼三段目の「その他」の最初と最後をあげてみよう。
●1951年(昭和26) 三.・五 無着成恭『山びこ学校』(青銅社)

●1960年(昭和35) 一一・△ 遠山 啓他 『水道方式の計算体系』

なんとも象徴的ではないか。
1951~1960年の10年間とは、そんな時期なのである。
脈々と引き継がれてきた「生活綴り方運動」、あらたにはじまった民間教育運動の展開。
すべてが動き始めていた。
戦後の理科教育も胎動をはじめた時期なのである。
▼そのころからの大きな課題であった。
「授業研究をどのようにすすめるか」
具体的に日々の授業をどのようにすすめるか。アタリマエとアタリマエのことである。
授業こそが、教育実践の最前線である。これは、時代を超えた真実である。
だからと言って、こんなことお題目のごとく何度唱えようと「授業」がうまくなるわけではなかった。
教える人間も、より多くを学ぶ必要があったのだ。
どんなかたちで学んでいったのだろう。この著『教育実践検討サークル~創造する東北の教師たち』の最後の方には、「実践検討会」のことがかなりくわしく触れてある。
・実践記録には何を書く必要があるのか。
・実践記録から何をまなぶのか。
・授業そのものの記録はどのようにするのか。
等など
▼読み進めるうちにちょっと唖然とした気持ちになる。
私の理科教師の歴史は1975年にはじまる。それがはじまる20年近く前からそんなことが課題になっていたのかと!!
 私は、この著を四回目読んでいる。
一回目と今回では、また違った読みができる。
今回の文脈での読みでは、「これからの理科」のヒント・アイデア集みたいなものだ。
今日中には読んでしまうことにしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«サイエンスコミュニケーター宣言(113)